「やぁやぁ、射命丸」
洩矢諏訪子が射命丸文の自宅兼作業場にやってきたとき、諏訪子程の存在が自ら来るのだから自明の理ではあるけれども。
ヤバいかもしれないと、好奇心よりもこれから起こり得る。まだ可能性の段階かも知れないが、何事かの存在に。
射命丸ははっきりと背筋に寒気が走るのを、感じ取る事が出来た。
そもそも今現在に置いて既に、射命丸は配下のカラスを洩矢諏訪子に貸している。
今の洩矢諏訪子が何をやっているのかは……有名である。
本人に隠す気が無い、もっと言えば喧伝して権勢の強化に役立てているからと言うのが最も大きいが。
実に短い期間だと言うのに、洩矢諏訪子は遊郭街の――この幻想郷でもっとも金と情報の動きが激しい場所――ドンと言えるまで上り詰めた。
一線の向こう側である稗田阿求の存在も、無視はできない。
今の遊郭街の支配者に対する、商いを手広くやる気が全くないあの忘八達のお頭に対する反抗勢力の存在は。
稗田阿求が苛烈なる鬼へと変化する可能性を、常に内包どころか。これまでで最も高めている。
とは言え、男性のそういう欲求を相手にして儲けるための、そう言う商いは。
物の本に寄れば、最も古い職業とまで言われている。
神社の巫女だって、歩き巫女ぐらいになれば。巫女と言うのはただの方便であって、流れ歩きながら春を売っているのが実情であった。
つまり。稗田阿求が、そしてもちろん上白沢慧音も。
一線の向こう側にいる女性たちが、どれほど苛立ちを溜めて握り拳に力を入れようとも。
一線の向こう側の女性を娶った旦那以外の、それ以外の物の方が圧倒的に大多数で。
遊郭と言った機関が無くとも、売る者も買う者もいなくならない。
故に稗田にせよ上白沢にせよ、いら立ちを隠さずに獰猛な態度に終始していても。
遊郭が破壊されて、売る存在がバラバラになられた方が旦那が、下品な言い方をすれば泥棒猫に汚される可能性が高くなる。
だから遊郭をある種の牢獄として扱う事で、彼女たちは溜飲を下げている。
特に旦那が存在する、一線の向こう側の女性となるとそれは顕著だ。
だと言うのに。ここ最近の遊郭街の動向を見て取れば。
その牢獄から脱獄して、遊郭内だけに限定していたはずの。乱れ飛ぶ春が人里を覆い尽くす、それが現実の脅威となっていた。
そんな状況なのに、稗田にせよ上白沢にせよが。遊郭へとカチコミを掛けていないのは。
洩矢諏訪子、この神様の存在は絶対に無視できなかった。
彼女がどういう訳か……権勢が欲しいと言うのが大方の見方ではあるが。
遊郭街で遊びながら、忘八達のお頭と同じ考えをもってして遊郭街内部で動き回っている。
有り体に言えば、ケツ持ちだ。
そのお陰で、商い拡大を目論む勢力はすっかりと鳴りを潜めたが。
商いを拡大したいと言う意思の根源は、欲望だ。簡単に消えるはずが無い、ましてや金の動きが派手な遊郭街の人間が。
そう簡単に諦めるはずが無い。
それが分かっているから稗田阿求は、射命丸に対して直に『お願い』をして。
毎週毎週、射命丸自身に遊郭内部の動向を報告書にまとめさせて、提出してくれと言っている。
実入りは、稗田阿求直々の『お願い』であるから中々に美味しいが。
正直怖くなってきたから手を引きたいと思っていたところに、洩矢諏訪子もカラスを借りに来て。
しかもそれだけでは終わらずに、射命丸が軽く調べているだけでも、遊郭街の今の支配者である。
あの忘八達のお頭が、明らかに血相を変えて色々な所に人をやって何かを調べていた。
今の遊郭街の支配者のケツ持ちである
諏訪子が、調べ物を始めたのと全く同じ時にそのような事が起こった。
そして今日は、諏訪子が直々にやってきて。
「ねぇ、射命丸。確か今日は稗田阿求の所に行って遊郭街の動向調査の定例報告を渡すんだよね?」
案の定、遊郭街の事を気にしだした。
「え、ええ……もしかして洩矢様。洩矢様もカラスを借りて何かをなさっていましたから、何かの文章がおありなのですか?」
射命丸は平身低頭でそう言ったが、もしそれだけならば度々神社に来る白狼天狗や、借りてるカラスに届けさせればいい。
「それもあるが……ちょっと稗田阿求と会いたくてね。何だったらついでに、あんたの報告書も届けてあげるよ」
第一、洩矢諏訪子が直々に。射命丸が配達する報告書を、そんな下っ端じみた仕事をする必要が無い。
射命丸の報告書を稗田に渡すのは、ただの方便。ついでですら無いかもしれない。
「この袋に入ってるのが、報告書かい?」
「え、ああ……そうですが」
事実、諏訪子は射命丸からの返答を全く待たずに。近くに置いてある書類を引っ掴んでしまい。
「んじゃ、行ってくるね~」
中身も勝手に検めて、報告書だと確認すると。手をヒラヒラとさせながら、射命丸の下から立ち去ってしまった。
「……どっと疲れましたよ」
人里の方向に飛んでいく諏訪子を見ながら、射命丸は呟くしかなかった。
稗田の九代目と、洩矢の二柱の一つの会談。それも、物凄く急な話である。
気にならないと言えば、それは間違いなく嘘になる。
しかし有無を言わさずに、報告書を持って行ってしまった諏訪子。それ以前からの調査。
全く同じときから、血相を変えだした忘八達のお頭。
そして諏訪子が会いたがるのが、稗田阿求。
特に稗田阿求の存在が問題だ。これが遊郭内部だけで終わるのであれば、多分少しは動いた。
稗田阿求の存在が、上から下まで恐怖と危険を想起させてしまうのだ。
彼女の○○に対する態度、その愛情のあまりの深さは。もはや触れてはならない、タブーであるのだから。
「……なんてことだ」
相変わらず○○は横領被害を受けていた、奉公人の1人からも○○が被害を受けているのではとの懸念を持たれてしまった。
それから二日経ったが犯人の馬鹿者どもは調子に乗り始めて、今日の領収書も滅茶苦茶な数字が書かれていた。
どうにでもなれと、若干思い始めていた頃に○○は横っ面を思いっきりはたかれた気分になって。
意識を強制的に覚醒させられた形であった。
いつも遊郭内部の動向調査の、定例報告書を。何故か洩矢諏訪子ほどの存在が渡しに来ているのだから。
何も無いはずが無い。
さすがに阿求も、射命丸では無く諏訪子が来たことには。何かあると勘付かざるをえない。
遊郭の話だから、余り○○には聞かせたくないという事で。阿求は諏訪子を別室に、阿求自ら案内したが。
別室に向かおうとする諏訪子と、○○は何度も目が合ってしまった。
無論、友人である上白沢の旦那にちょっかいを掛けていたことを忘れるはずは無いので。
今度は何をしに来たと言う印象が無いと言う訳では無いので、諏訪子の事をじっとりと見つめ続けていたのもあるが。
若干困ったような顔を浮かべながら、歯にも力がこもっているあの表情。困惑の表情だけは、見間違いのはずが無かったし。
「やぁ、稗田○○、久しぶりだね。
神奈子や早苗とはこの間、世間話してたんだってね」
「ええ……よろしくと言っておきましたが。伝わりましたか?」
内心ではこの時諏訪子に対して、伝わってなきゃ許さんぞぐらいには思っていたが。
どうにも、敢えて○○とも接触しようとしている様子に。○○は当たりを付ける事が出来なくて苦しかった。
「射命丸が定例報告持ってくるついでに、私もちょっと稗田阿求の小耳に入れたい事があってね。それじゃ」
しかし諏訪子は立ち去り際に、阿求の方を気にしていた。何かを話したいが、阿求の前では無理という事らしい。
「○○様」
阿求と諏訪子が別室に引っ込んで行く姿を見やりながら、事態が静かに、だが大きく動いていると断言できたが。
つまりその動きは、自分だって揉まれてしまうのだという事でもある。
阿求以外に、○○が横領被害を受けているかもしれないと気づき始めた。
あの奉公人から声を掛けられた。少しばかり笑顔が怖かった、例え怒りがあろうともそれがこちらに向いていないと分かっていても。
「○○様、九代目様から仰せつかっていますので。ご入り用ならばなんなりと、いつでもお申し付けください。
そろばんを頭に突っ込んだと言われてるだけあり、計算は、資金の出し入れも私の業務ですので。
それに九代目様からよく言われておりまして、○○様の懐は常にうるおしておけと」
しかも、○○が被害に合っている事を気づき始めているこの奉公人は。よりにもよってドンぴしゃに、金の話をしだした。
「最近の○○様は、お仕事に使う物しか買われていないので。大事な書類を書かれているのか……インクも紙の束も、霧雨商店の最高級品ばかりですので。
それでしたら、公費ですから。自弁してしまい、圧迫されていないか心配で」
もう駄目だこれは。気付いている。
大体自分が普段使うインクと紙の束は、寺子屋でも使う物。
要するに高くない。それは領収書の物品覧に書かれている。金額は滅茶苦茶だけれども。
「何も考えていないわけでは無いんだ……ああ、うん」
嘘だけれどもこう言うしかなかった。
いや……即興で構わないのならば、思いつかなかったわけでは無い。
「確か永遠亭から置き薬を運びに来るのは……」
ここで焦って鈴仙の名前を出さなかった自分を褒めたい。
「永遠亭の方々は毎日何かしらで人里を歩いていますが……稗田邸で使う置き薬の補充は、少なくとも今日ではありませんね」
「そうか」
仰々しいため息を出してしまった。
どうでも良くなってきたと言う感情はあるけれども、めんどくさくならないように『ケリ』を付けるべきかもしれない。
少なくとも阿求に陣頭指揮を取らせては駄目だ。
永遠亭ならば、八意永琳の狂言誘拐事件の時に。黙って手助けしてやった話をダシにすれば、物品の1つや2つ。
例えそれが危険な物でも、致死性のある薬物だとしても融通してくれるだろう。
「ちょっと、散歩してくる」
「はい、いってらっしゃいませ。○○様」
その奉公人の声色と雰囲気は、出陣しようとする武将を見送る家中の者。
そう言った方が様子と合っていた。
この時確かに、○○にあきらめの感情が湧いた。これはもう、手早くやるしかない。
粗雑に動いてしまっても阿求にもみ消してもらおう。だがそれと同時に。
「何かあったら……お供として一緒に歩いてくれないか?稗田の奉公人なら、荘厳な雰囲気だ」
この気付いてしまった奉公人を宥めるためにも、確保しておきたい。
死体の1個や2個で、騒ぐようなもろい根性ではなさそうだから。頼りにはなるけれども怖い。
暴走を防ぐ意味でも、確保しておこう。
「はい、何なりと。いつでもお申し付けください」
感想
最終更新:2019年12月17日 23:37