誘惑来たれば3

 豹変した彼女とあの後どのような会話を交わしたのかは、僕は殆ど覚えてはいなかった。ただ呆然として自分の家まで歩いていた事だけを
薄らと覚えている。自分の家に辿り着いた時には随分と土で汚れた記憶だけがあった。そして家に入るなり倒れ込むようにして、次に目を覚ますと、
僕は屋敷の一室にいた。西洋風のレンガ造りの屋敷の中は、明りが点いていて昼間のように明るかった。顔見知りだった彼女が紅茶を煎れていた。
カップが軽い音を立てる。いつの間にか知らない場所に移動しているのに、何故だか僕はホッとした。彼女が僕に煎れた紅茶を勧めてくる。
おずおずと僕が口を付けた液体は、砂糖は入っていないのにどこか上品な甘さがした。
「…それで、ここまで逃げて来たって訳ね。」
いつの間に彼女に話したのだろうか。彼女は僕の今の状況を知っているようだった。
「怖くて…。」
「二人とも?」
「そうです…。」
「そう…。」
どこか満足げに頷く彼女。
「…どうにかならないでしょうか?」
「あなたはどうしたいのかしら。」
彼女が反対に僕に尋ねてくる。自然と言葉が僕の口から出ていた。
「神様の夫婦になんて…、なりたくない…。だって…」
「だって…?」
「ヒトじゃなくなってしまうから!九代目様だっておんなじだ!死んでも一緒にいるなんて…。」
「嫌?」
「いやだ…イヤだ、イヤだ!」
目から涙が流れ落ちる。堪えようとしても、止めどなく流れる涙。視界がグチャグチャになり、前が見えなくなった。
「そうなのね…。」
あくまでも僕の意見を聞く彼女。柔らかく包むように。僕の顔に優しく布地が当てられて、視界に彼女の姿がはっきりと映った。
「可哀想…。」
僕の眼がグズグズになる。彼女から掛けられた言葉によって、我慢が壊れてしまったように。僕の視界が再び塞がれた。今度は涙ではなく、
彼女の体によって。
「大丈夫……。ここに居れば大丈夫だから…。」
自分の荒い息が聞こえる。意識が体から浮かび、渦を巻いて落ちていく。幻に溶かし込むように、夢に溺れるように。足下がフワフワと浮き立ち、
立っている場所が泥のように感じた。毛の深い絨毯に体が沈み込む錯覚の中で、彼女が僕を支えていた。深い水に落ちないように、しっかりと抱きしめて。
「助けて欲しい?」
耳元に寄せられた彼女の口から言葉が零れる。壊れきった僕の心に溶け込むように注がれた声が、僕の魂を支配していた。
「--------」
自分の喉から出た声すら、今の僕の耳には入らなかった。彼女の胸で視界が閉ざされている筈なのに、彼女が笑ったのが僕には分かった。
彼女の指が間に割り込むように差し込まれる。細い、白い、指だった。僕の心臓をなぞるように指先が舞う。クルクルと時計の針を逆さまに戻すように。
何度か指を回した後で、彼女が僕の体の真ん中を付いた。
「これで大丈夫。時計の針を止めたから…。あなたと私はずっと一緒。永遠に…。」
彼女の非現実的な言葉と裏腹に、僕の心臓は規則正しく動いていた。彼女の懐中時計と同じ時を刻むかのように。





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最終更新:2019年12月17日 23:42