この日、上白沢の旦那は○○からの誘われて。洩矢神社のふもとにある飲食店にて、昼食を共にしていた。
無論、稗田阿求と上白沢慧音と言う、この男二人の妻公認での出歩きである。それ以前に、○○が出歩く際には必ず、阿求が付けている護衛がいる。
――上白沢の旦那は、慣れてきているはずだったのに。護衛として後ろから付いてきてくれている人間を、何度か見やった。
○○はその度に、機嫌が悪いと言うかやけっぱちのような声で「気にしなくて良い」と言って、上白沢の旦那を前に向かせた。
「……どこに行くんだ?」
ツカツカと歩き続ける○○の後ろから、上白沢の旦那は声を掛けるが。
「洩矢神社のふもとだ。商売っ気の強い神社だから、色々と店が。屋台以外にもそこそこちゃんとした造りの店も増えてるんだ」
友人である上白沢の旦那の方は、やや見てくれるが。歩くことに、移動することに集中しているのか。
一切歩調を緩めたくないのだろう、友人への目配せは必要最低限であった。
「……」
上白沢の旦那は、少し会話をしたかったが。それが全くできなくて気をもんでいた。
何故ならば、○○とこうやって出歩くのは実に一週間以上ぶりだからである。
さらに言えば、出歩くどころかこうやって会話すらしていなかったのだ。この一週間以上。
前回の会話……と言っても、会話と呼べるかどうかは極めて怪しかったが。
それでも前回の事は、よく覚えている。
若干酒が入っている様子、聞し召した様子の○○が夕方ごろにいきなり、慧音と一緒に住む扉をけたたましく叩いた。
はっきり言って、○○らしくも無い様子の来訪の仕方に。上白沢の旦那は、妻である慧音と共に。
やや呆気にとられていたら。夫妻のどちらかの言葉も待たずに、○○の方から一方的に話された。
『全部終わった。迷惑かけたな、後は事後処理だけだ、これ以上悪くはならん……ああ、上白沢先生。事情は阿求から……いや、旦那さんからも聞いてくれ』
それだけを言い残して、外に待たせてある人力車に飛び乗って。○○は稗田邸に帰ってしまった。
無論、上白沢の旦那は。○○の言った言葉、一体何が終わったのかを理解していたし把握もしていた。
だから、妻である慧音をなだめる事も兼ねて。自分が○○から教えられた……あの横領被害の事を白状した。
行っても大丈夫なのだろうかと言う心配はあったが、若干酔った状態とは言え、慧音に対しても隠そうとしない態度は。
つまり……○○が何かをやった事を意味する。それも稗田阿求の、最低でも黙認、下手をすれば強い後押しの下で。
○○は動いたのだと、そう考えるしかなかった。
無論、横領被害の事を初めて知った慧音はその顔面を青ざめさせた。
当たり前だ、こんな事を稗田阿求が知れば、○○への愛がもはや暴走している稗田阿求が、何もしないはずは無い。
稗田家の家格、九代目としての権力。全てを使って、何かやる。今はその何かが起こる前に、嵐の前の静けさとすら慧音は考えたのだろう。
慧音は脇目もふらずに、稗田邸へと走って行ったが。
物の10分もしないうちに、トボトボとしながら帰ってきたのは、印象深く記憶している。
『稗田○○が銃すら使ったらしい』慧音から聞けたと言うか、恐らくは稗田阿求が慧音に伝えてくれたのはその程度だったのだろう。
だが同時に、慧音は酷く安堵もしていた。
『稗田○○が自ら前に出て、大ナタを振るったのならば。阿求の溜飲も、いくらかは下がるだろう。
稗田○○が率先して手を汚してくれたお陰で、阿求は夫を慰める役に自動的に配役された。
最も、稗田阿求からすれば。稗田○○が銃すら使った事は、当然の行動で、何らけがれたものでは無いと考えていそうだがな……』
……慧音の言っている事は、残念ながら、酷く理解できてしまった。
稗田阿求が動けば、周りの事などお構いなしに、標的もろとも薙ぎ払うだろう。
それに心を痛めた稗田○○は、先回りして標的だけを始末したのだ。
確かに○○のお陰かも知れなかった、裏側でとんでもない事が起こったのを知るのは、ごくごく一部に限る事が出来たのは。
結局、ここ最近ではやっていると言うふれこみの串焼きの店にたどり着いても、○○は中々話してくれず。
まずは店員を呼んで、簡単な注文から始めた。
洩矢神社自体に、商売っ気と言う物が強いからか。ふもとには飲食店やら何やらが、結構な数の店舗が営業している。
洩矢諏訪子が様々な方面で顔を売っている事もあり、この店も繁盛していた。
無論、洩矢諏訪子自身が、遊ぶことに対して寛容だから。この店も呑み客が多かった。
「ああ……ウーロン茶を」
上白沢の旦那は、昼間から飲むことにやや抵抗が合って。やや迷言った末に、当たり障りのない飲み物を頼んだが。
「瓶ビールを」
○○はまったく迷わずに酒を頼んだ。
「おう、来た来た」
そして○○は何ら罪悪感も見せず、むしろ慣れたような手つきでグラスに黄色くて泡の出る液体を。
膨れる泡がグラスからこぼれない、ギリギリを見極めて満杯まで注ぐ、そんな技術までいつの間にか持ち合わせていた。
「酒の一滴だって、おろそかには出来んよ。水よりはずっと高いんだから」
その上いっぱしの呑兵衛みたいなことまで呟く始末であった。
「――串焼きも頼もう」
やや心配し始めた上白沢の旦那の表情を見た、○○は。少しだけ間と言う物を作ったし。
すぐに串焼きを頼んだが、上白沢の旦那の目に写った○○の表情から、申し訳なさと言うのを。
それを感じたのが錯覚でないと信じたかった。
「随分、慣れた手つきで飲み食いしてるな……その、やっぱり大変だったのか?」
串焼きをややもすれば、むさぼり食う様子の○○に気圧されながらも。上白沢の旦那は心配していた。
串焼きの店だけあり、その上で繁盛しているから。店内には種々の物を焼いている煙が、もうもうと立ち込めていた。
上白沢の旦那は、この煙が○○の神経や感情をいぶして、悪影響を与えていないか心配になった。
「火薬と血の匂いを上書きしたいんだ。昨日は焼肉屋にいたよ」
既に瓶ビールを半分ほど飲んでいるが、○○の表情はいつも通りであった。これには上白沢の旦那も、安堵の息が大きく漏れた。
「事後処理は、大変だったか?」
ようやく串焼きに手を付けながら、○○に聞いた。○○は、手元のカバンから何枚かの紙切れを。
それは全て、新聞の切り抜きであった。
「全部阿求が手配してくれた。俺はさっきも言ったが、火薬と血の匂いを消すのに必死だった」
○○から手渡された紙片は四枚であった。
2人は就寝中の卒中で。1人は転倒した際に、打ち所が悪くて。1人は、酔いすぎて橋から落ちて、とがった物が胸に刺さってしまって。
全てが事故死を伝える新聞記事であったが、これが横領被害を犯人たちの末路を、隠ぺいしたのだと言うのは明らかである。
四枚の紙片にはすべて、言っては悪いが小さな事故なのに、永遠亭は八意女史の検視結果がわざとらしく載せられていた。
「なるようになったよ。この一週間以上、伝票の数字は一銭たりとも改ざんされていない。お陰で毎日外食できるよ……」
「○○、まだ日も高いから。瓶ビール一本で済ませて置け」
事の成り行きは、大筋で理解できた上白沢の旦那は。
キューっとやって、瓶ビールを一本。物の15分程度で飲み干した、○○の体をいたわることに軸足を移すことにした。
「心配しなくていい。実は今、阿求が洩矢神社にいるんだ。それを迎えに行くから、あまり聞し召さないようにしたい」
稗田阿求の名前が出て、少しばかり背筋に寒気が走った。店内は暖かいのに。
「その、俺はいても良いのか?」
出来れば立ち去りたかったが、それでは友人にあんまりにも失礼だし。
「いや、いてほしい」
こう嘆願されたら、断ると言う選択肢は無かった。
「でも一応、阿求が極まってるから。覚悟だけはしておいてくれ」
逃げないけれども……相変わらず背筋の寒気は増すばかりだ。
稗田阿求は本殿の内部にいた。
そこで彼女は、鼻から息を思いっきり吸って。吐くことはあまりしなかった。
まるでこの内部の空気のひとかけらですら、吐き出して消費したくないと言わんばかりの、そんな妙な呼吸を繰り返していた。
そんな事を繰り返しながら、阿求はグルグルと、ある床の一点を中心にして歩き回っていた。
その床の一点には、どす黒い塊がこびりついていた。
それは明らかに、血の塊。それが乾いて、酷く変色した物であった。
だが稗田阿求は、その乾いた血の塊を、それを酷く愛おしそうに見つめていた。
そしてなお酷い事に、血の塊は一か所では無かった。もう少し離れた場所にも存在しており、そちらに対しても阿求は愛おしそうに見つめていた。
そうかと思えば、阿求は懐から何かを取り出した。金属でつくられた筒状の物体だ。
「すっごいよね。愛する人が使った物なら、薬きょうすら愛せるんだ」
奥から冷かすような声が、洩矢諏訪子の声が聞こえた。
「邪魔しないでいただけません?」
阿求はそう言うが、目元がトロンとしており。心ここに有らずであった。
「あの人が大ナタを振るった場面の空気と、あの人が大ナタとして使った弾丸の薬きょうから香る、火薬の匂い。堪能したいのですから」
あまつさえ阿求は、使用済みの薬きょうをぺろりと舐める事までした。これにすは
諏訪子も、少し後ずさりををしながら。
「死の匂いだよ。ここに充満しているのは」
「私の夫である○○は当然の行動をした、その結果に異論も疑問もありません」
諏訪子はやや、今の阿求を茶化しながらも批判含みに、事実を付きつけたが。
阿求はそれを十分理解して、なお楽しんでいるようであった。
付き合ってられない。
諏訪子は早苗から何度も浴びせられた言葉や感情と同じものを、皮肉にも思う報になって、ようやく理解した。
だが、本殿は自分が祭られている場所の本拠地のようなもの。
逃げる事が出来ないと言う点では、早苗よりも酷い状況であった。
(まだか?○○)
思わず諏訪子は、ふもとで『真っ当な』飲食店にいるはずの○○が早く来ないか、柄にもなく助けを待っていた。
「あーきゅーうー?」
稗田阿求が死の匂いですら、夫である○○の行動の結果だから愛しそうにしているのが。諏訪子には不気味だったから。
酒で聞し召している様子とは言え、○○が阿求を迎えに来たのには。ホッとしたものであった。
「ごめんごめん、思ったより下の店が美味しくて。酒が進んでさ」
そう言いながらも○○は、しっかりとした足取りで阿求の方に向かい。
また、阿求が空薬きょうを愛おしそうに持っているのを見て、一瞬目を見張り取り上げようとしたが。
残念ながら距離があった、懐にしまうぐらいならすぐに出来る。
「ああ、やっぱり匂いよりも本物の体温の方が極上ですね。お酒や焼き物の匂いも、貴女の匂いと合わされば、どんなお香よりも貴重です」
「だったら」
○○は空薬きょうの事を言おうとしたが。
「無体な事を言わないでくださいな○○。あなたの上げた戦果の象徴、持ち歩きたいと言う慎ましい思いぐらいあります」
どうやら阿求は、引き渡す気は無いようである。
懐の中身に対する疑念 了
感想
最終更新:2020年02月08日 22:10