ナズーリンから身辺調査を依頼された件の男が、よりにもよって一線の向こう側を同時に相手していると知って。
鬼人正邪が、往来から外れているとは言え、人里の敷地内で倒れているのを見つけた時よりも、○○は深刻な表情を浮かべていた。
「どうする。○○。ひとまず離れたとはいえ、何かできる事があるだろうか?」
何にせよ、接触はおろか尾行すら怪しくなってきた。雲居一輪だけならば、まだ、稗田邸に匿ってもらってだんまりを決め込んでも良かったろう。
第一、依頼人がナズーリンだから。そうは言っても命蓮寺の関係者が依頼者と言うのは、何かあった場合の心強さが違う。
しかし、物部布都まで舞台に躍り出たのであれば。事情が全く違ってきてしまう。
○○程周辺の事情を調べているわけでは無いが、命蓮寺と物部布都の所属する神霊廟が、あま仲が良くない事ぐらいは知っている。
ややもすればこの依頼、二つの勢力の正面衝突にまで発展しかねない。しかも原因が男の取り合い、天狗のブンヤが沸き立ちそうな話題だ。
「一旦稗田邸に戻るか?」
「いや……」
上白沢の旦那が、少し立て直しを図るために稗田邸へ戻る事を提案したが。○○はこんな状況でも何か、考えをめぐらせれるようだ。
「広場へ行く」
「広場?」
上白沢の旦那が『何のために』と言う部分を聞く前に、○○は動き始めていた。
しかし幸い、独り言に大分近かったが、○○は歩きながら喋ってくれた。
「神霊廟自体は、ごくごく少数の物しか行き来できない場所のようだが。だからと言って何もしてない訳じゃない、命蓮寺とは信者を取り合っているようだし。
だから彼女たちはほぼ毎日、人里を練り歩いてビラを配ったり。最近では手近な広場を、そこの管理人を調略出来たようで、そこで出し物をやっている。
物珍しいから、周辺の店も案外好意的だ。集客にある程度つなげれるからね。
特にあの、珍妙な『希望の面』は人気が合って……それを模した饅頭なんかが結構売れているようだよ」
流行、廃りにうとい自分と違って。○○は、市中の情報がいつ、何の役に立つか分からないと言う、探偵稼業の影響もあるのだろうけれども。
中々広く、周辺の事情を頭に入れて置くようにしている事に、少しばかり唸ってしまった。
「時間が惜しい。ナズーリンさんが来る前に、もう少し調べたい」
そう言いながら○○は、後ろで常に控えている、阿求が用意した護衛兼監視役の人間に対して、身振りで何かを合図したかと思えば。
そのまま数分ほど、その場で待っているだけで人力車が二台、目の前に用意されてしまった。
「行こう」
さっきは○○の広範な知識に、少しは舌を巻いていたはずなのに。今度は稗田阿求の影響力が一体どこまで広いのかが分からなくて。
恐怖の感情が呼び起されて、逃げ出したい気持ちも込みあがったが。
ふと、そもそも今回の依頼に首を突っ込まざるを得なくなった原因の、稗田阿求からの手紙がまだ懐にしまってある事を思い出した。
人力車の座席にしかたなく座りながら、懐に入れっぱなしにしていた稗田阿求からの手紙を、もう一度広げる。
暇であろうともなかろうとも来なさい。相変わらずこの文言が、ひどく目を引いた。
もう一度読んでみれば、こんなものが手紙である物かとすら思えてきた。
命令書、下手をすれば脅迫文にも近い。
もし逃げればどうなるか。さすがに死ぬような事にはならないと思うが……少なくとも慧音に迷惑がかかる。
寺子屋の仕事が出来なくて、慧音を1人にしてしまった事を最初は気に病んでいたが。
今では全く違う考え方になった。稗田阿求の機嫌を悪くするような手は、極力避けねばならない。
「こっちだ」
盛り場とは言え、乗合馬車ならともかく人力車が乗り付けてくるのは、やはり不用意に目を引いた。
○○は乗り付けてきたのが誰かなのかを、往来の人たちに気付かれる前に、こちらの手を引いて雑踏に紛れ込ませてくれた。
そう言えば、あの人力車を引いてくれたのは、最初に自分たちに付いてきてくれた監視及び護衛の人間だが。
人力車の世話もあるから、そうそう付いて行くことは出来ずに。おいて行くような形になってしまったが。
あの者達が慌てるような気配は無いどころか、人力車をどこかにやるために、離れてすらいった。
少し気になって、辺りを見回すと。○○も自分の意を察したのか、こう耳打ちしてくれた。
「そう、君が思った通り。こっちには既に、阿求の手の物が配置されている。誰がってのは、俺は気づいているけれども。まぁ、知らない方が良いよ」
稗田阿求の影響力の底は知れない。物部布都の姿を確認したのは、まったく予測できない事態だったのに。
それに対応しようと努める○○よりも、急激な方向転換についていける、稗田阿求の用意した組織の方が。
より強大で、恐ろしい存在であった。
どうやらこの人里に住まう限りは、稗田阿求と言う人物の目からは逃れられないのかもしれなかった。
下手をすれば、誰にも見せていない日記帳すら。稗田阿求位の存在なら、手の物を使って探し当て中身を検め、そのまま元の位置に。
いやもしかしたら既に……慧音が俺を喜ばせようと、夜の為に用意している物位なら…………。
ここまで考えて、背筋に寒気が走ったので。上白沢の旦那は、○○に付いて行って。以来の事だけを考える事にした。
「命蓮寺と神霊廟の事はどれぐらい知っている?」
幸い、別の話題はすぐに○○が提供してくれた。悔しいけれども、稗田阿求が自分の登壇を何度も強制したのは、案外正しいのかもしれなかった。
「あまり仲が良くない程度だ」
「そうだな、両方とも人里を拠点にしているし。いざこざは博麗の巫女以前に、上白沢先生とかうちの阿求の不興を買うから、なんとかお互い、無視に近い共存だが。
実の所では水と油よりも酷い関係だ。簡潔に言うけれども、命蓮寺は来世利益。現世で徳を積んで、次をよくしましょう。
そして神霊廟は、現世利益だ。次も大事だけれども、今を犠牲にする理屈の正当化にはならないとまで言っている。
命蓮寺の檀家や信者に、強制では無いとは言え肉食と飲酒を戒めているのは徳を積むためだし。
神霊廟が折々で人里で振る舞い酒をやっているのは、現世利益の追求なんだ。
この二つは、繰り返しだけれども水と油どころじゃない」
うんざりしつつも説明してくれた○○の心中には、同情の念を覚える。
特に、命蓮寺と神霊廟の組み合わせが。水と油ですら無い程に酷いと言うのには、酷く納得してしまった。
かたや堅苦しい禁欲主義者、かたや身を滅ぼさない程度に快楽を追及。
「その両端に女が2人、間に男が1人か……ゾッとするな」
上白沢の旦那は、○○から聞かされた話を噛み砕き、理解を深める事が出来たが。理解できたが故に、恐怖と向き合う必要が出てきた。
「まったくだ……けれどもまだ、最悪では無い。命蓮寺はナズーリンが現状を訝しんでいる。どの組織にも氷みたいに冷静になれる存在はいる」
「それを期待しているのか?」
「この期待が運頼みだと言う点は、残念だけれども認める。けれども物部布都が外歩きをしている点は、男と会うために遊んでいる点は。
もしかしたら問題視されているかもしれない。そうでなくとも、神霊廟周辺を確かめておきたい」
案外運頼みの行動に、上白沢の旦那はやや虚を突かれて。がっかりしたような気分にもなったが。
そもそもが、この依頼はまだ始まったばかりだ、その言う点を考える必要があるのかもしれない。
「どーぞー、振る舞い酒だー……です」
神霊廟の面子が出し物をやっていると言う、その広場にやってくると。初めから珍妙な物が見れた。
額にお札を貼った女の子が、つたない声と、あまりきびきびしているとは言い難い動きで、お酒を辺りの人間に振る舞っていた。
「アレは……?」
○○から手を引かれたと言うのもあるが、思わず避けてしまったが。存外酒の魔力に抗える者は少なく、辺りは案外人山が出来ていた。
「宮古芳香……神霊廟の協力者、青娥と呼ばれる女性が使役しているキョンシー。陪臣(ばいしん)ではあるが、あれでいて数百、いやもっとかな?とにかく長生きしている。
その上、自意識も……怪しい物だがな、あるという事だから。
神霊廟の首魁である、豊聡耳神子からすれば、現世利益の宣伝には使えると言う判断なのだろう」
だが上白沢の旦那は、もっと直接的な物を見てしまった。
「あのキョンシーの横。あの女が青娥と言う女なのか?」
○○は女性と表現したが、上白沢の旦那は女と呼び捨てだった。
「……ああ。俺が君の手を引いて、遠ざかった理由が分かったろう?昼酒よりも厄介な何かだ」
「うさんくさい女だ……」
相変わらず○○は言葉を、表現を柔らかくしているが。上白沢の旦那は容赦が無かった。
しゃなりとしているが、それは演じている物で。稗田家とも付き合いがあり、上白沢慧音程の名士を妻にしていれば。
そのしゃなりが、上っ面だけと言うのはすぐに気が付いた。
それでいながら青娥と言う女は、自分が演じている事に気付く者は多いだろうと、自覚しているのが嫌らしい。
――短く表現すれば、肌の露出が多かった。胸も豊満であることを――いや、作ったのかも。キョンシーを使役できるなら不思議では無い――利用している服装だ。
「女性人気は出そうにないな。特に慧音や、稗田阿求のような存在にとっては、特に」
「うん……そう思ったのだけれどもね」
○○が訝しむように周りを見渡す。
それに倣うように、上白沢の旦那も辺りを見てみた。
「女性客も多いな」
「豊聡耳神子は、中々、男装が様になるような女性だから。同性から人気が出ると言うのは、まぁ、理解できるのだが」
「今気付いたが……みんな何かを待っているな。豊聡耳ではないのか?」
「それだったら、お立ち台で毎日演説しているから。良い席を早めに取りたがる」
○○の言う通りであった。所在なさ気にうろつくよりも、そちらの方が効率がいいはずなのに。
○○と上白沢の旦那はしばらく辺りを、青娥が配っている酒の方には近づかないようにしつつも。
しかしやる事が無く、所在なさ気に動き回るしかなかった。
だが待ったかいは有った……と、思いたかった。何もわからないよりは、それよりは、せめてと思いたい。
広場の出入り口の方向から、黄色い歓声が沸きあがった。
「豊聡耳か?」
上白沢の旦那が、言葉を低くしながら○○に聞いてみたが。
「多分違う。首魁が来たなら、もう少しまとまりがあるはずだ」
なるほど、○○の言う通りだった。
「あの男!?」
上白沢の旦那は思わず声を大にしたが、幸い黄色い歓声にかき消されてくれた。
「物部布都もいるな。いかんな、雲居一輪がこれを知ったら――だがそれよりも、物部布都の方が、あの男を人気者に仕立てている」
○○と上白沢の旦那は、その警戒心を一気に引き上げられてしまった。
当然だ、黄色い歓声の中心は――ナズーリンが調べてくれと頼んだあの男で。
その近くを警護するかのように、物部布都が。辺りをチラつく女性を、一掃とまでは行かないが、かなり強引に引き離していた。
「散れ!散るのじゃ!!ちゃんと商品はあるし、商品は逃げないし、振る舞い品もこの男がちゃんと持ってきたぞ!!」
だが物部布都としても仄暗い楽しみがあるのか、件の男の守護者面出来るのが。本当に楽しくて、愉悦を感じていた。
女に付きまとわれて、半ギレではあったが。愉悦が勝っていた。
だが一番目を引いたのは、件の男の方だろう。
「あの男……便利屋どころの職業じゃないぞ。あの男、歩荷(ぼっか)だったのか!」
○○が『何故それに気付けなかったのか』と悔やみながら見ていた、件の男は。
とんでもない量の荷物を背負って、腕や腰にも括り付けて、あまつさえ胸にも括り付けられていた。
とてもではないが、1人で運べる量ではなさそうだが。さすがに少しばかり歩調は遅いが、それでも、確実に歩けている辺りは、件の男は素晴らしかった。
「――歩荷をあそこまでの人気者に仕立て上げるとはな。物部布都の手腕には恐れ入るが。一番の理由は、人気者の近くに入れる愉悦かな
だが何故、物部布都が歩荷にあそこまで入れ込むかが分からない」
とは言うが、○○は広場から立ち去ろうとした。
「調べないのか?」
上白沢の旦那は言うが、一番調べたいのは○○だと早くに気付くべきだった。
「調べたいさ。だがこの、英雄でも現れたかのような歓声の中で、どうやって調べればいいんだ」
言う通りであった。この場で水を差す行為は、自分たちの嫁が上白沢慧音や稗田阿求でも、後々の生活に大きな支障が出てしまう。
――だが、敵情視察とまでは行かないものの。様子を確認だけでもした甲斐はあった。
蘇我屠自古が、気づいていた。自分たちがいきなり現れて、いきなり帰った事を。
「クソ……青娥も布都も。妙な遊びを覚えやがって。だが危惧している連中が、上白沢と稗田の旦那なら、まだ……相談できるか?」
感想
最終更新:2020年02月14日 22:10