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 学生にとってのテストしかり、社会人にとっての休み明けしかり、この世には例え分かっていたとしても、気が進まないもの
が残念ながら存在するということは、賢明な諸兄にとってはよくお分かりであろう。そしてそれは気が進まないために、ついつい
後回しにしがちなものであり、何かの弾みで、超絶なラッキーとやらで、万万が一それが消えてしまうことを望んでしまうのは、
純然たる小市民たる僕にとって、しょうがない、そう、いくら強調しても強調しすぎる程でない位に、当たり前の事なのは、やはり
世間一般の人にもよく理解して貰えることであろう。 もっとも、そういう類いの出来事は大抵が、後に回してしまった結果、
自分の首を決定的に締めてしまい、自業自得な羽目になってしまうのも、割と世間一般では良く有ることであるのだが。
 その日、僕は家の前にいた。登記上は大家さんの所有物であり、賃貸契約によって、法律上は僕が独占的に住んでよいことに
なっているそこそこ新しめのマンションの一室の前で、僕はドアノブを握ろうとして辞めるという、誠に奇妙な行動を繰り返していた。
これがオートロックのマンションであったために、この付近を通る人は限られており、平日の昼間なんていう時間も相まって、
僕が一人うじうじと悩んでいる時間を作り出していた。無論、鍵が無い訳では無い。僕のポケットにはしっかりと入っているのだから、
そもそも鍵が無ければ、このマンションのオートロックを抜けることは出来ない筈だ…多分。僕がこの家に入りたくないのは、
端的に言えば家にいる彼女のせいであった。今、僕の家にいる彼女、天子とちょっと気まずい関係になってしまったが故に、
僕は自分の家に帰りたくなくなってしまっていた。
 それを僕の友人が聞けば、おそらくはそんな事と言って笑うのであろうが、僕にとってはかなりの一大事である。貧乏学生の身分では
社会人のように漫画喫茶のような豪華な施設で時間を潰すことも出来ず、或いは友人の家で一夜を過ごした日には彼女が凄まじいことに
なるであろうことが瞼の裏に浮かんでくるに至り、僕は結局はこのドアの前で犬のようにウロウロとする羽目になってしまっていた。
「はあ…」
溜息が漏れる。中々踏ん切りが付かずにドアを握っては離していたが、やはりそれでは状況は解決せずに、ついに僕は思いきって
ドアをゆっくりと開けた。どんな顔をして彼女に会えば良いのか、どんなことを言えば良いのかすら分からずに、寒さによって間が抜けた、
顔を晒しながら、僕は家の中に入っていった。廊下でも息が白く見える。何も音がせずに、しんとした廊下を進んでいく。
学生街によくあるワンルームの部屋は、薄いドアによって仕切られていた。向こうの部屋に彼女がいる筈なのに、物音一つ聞こえない。
気配すら感じない部屋を前にして僕は一瞬考え込んだ。天子はもう家から出ているのだろうか?いやいや、そんな筈はない。
僕は家の前にいたのだから、彼女が家を出れば鉢合わせをする筈だ。まさか世紀の大怪盗よろしく、マンションの四階から大脱出を
することはないだろう。いくら彼女が行動力がありすぎて何をするか分からないと言っても、そういう方向でないのは確かなのだから。
 ドアをゆっくりと開ける。部屋の真ん中のフローリングに天子が座っていた。良かったという気持ちが湧き出たが、天子は動かない。
いや、よく見ると部屋は何も動いておらず、静まりかえっていた。テレビは言うに及ばす、明りも消えているために部屋は薄暗くなっており、
最近はいつも付けていたクーラーすらも動いていなかった。不自然な状況を僕の目と脳が収集する合間に、唇が勝手に動いていた。
「天子…。」
「ああ…○○…。」
パソコンが再起動するように、身動き一つしなかった彼女が僕の方に寄ってくる。数時間ぶりに彼女との距離が近くなる。
「ゴメン…。」
「別に…いいわ…。」
僕の体温を感じるかのように、抱きつき腕を回す彼女。普段の彼女からは予想も出来ない程に、しおらしい状態だった。普段ならば、
ダース単位で飛んでくる言葉もなく、台風の日にゴーストタウンとなった様な、静かな、奇妙な、違和感すら感じる程である。
「ずっと家の前に居たんだし…。」
小さな声で呟く彼女。僕の背中で彼女の腕が動かされる。体温を求めるように、あるいは心臓を探るように。
-二度目は無いから-
「え?」
小さな声で告げられた言葉を、聞き返すことは出来なかった。

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最終更新:2020年02月25日 11:45