タグ一覧: 依姫

 「……そうですか。残念です…。」
 自分の目の前に居る女性は顎に手を当てて、考えているようだった。部屋に満ちた沈黙が重く自分にのし掛かる。自分が引き起こした癖に、
あるいは自分のせいだからなのかもしれないが、月の最高指導者の失望を買った事に対して、小心者の自分には耐えきれずに、
そそくさと部屋から退出しようとしていた。安全な立場から見ていれば、一生に一度あるかないかのレベルでの栄達を棒に振ったこと
を勿体ながるか、女性の前から逃げだそうとする情けなさを揶揄するだろう。しかし、ああしかし、百聞は一見に如かずと言うとおりに、
この体験は百回見るよりも強烈であった。見えないプレッシャーが、彼女から這い出てくる様に感じ、ただの下っ端の自分を取り囲んで
きそうな幻覚すら感じる。
 半ば本能的に逃げるように、お世辞にも綺麗とはいえない敬礼をかざし、ブリキ人形のようにぎこちなく回れ右をして出口の方に向かって
行っていた。いくら指導部といえども、私室はそこまでは広くない筈なのに、ああ、それでもプライバシーすら満足には確保できない、
自分の共同部屋とは違い自由への扉を遠く感じる。もっとも、突然の出来事のせいで、自分の事で頭が一杯になっていたとしても、
恐らくは注意深く彼女を見ておくべきだったのだろう。彼女の唇の端は僅かに歪んでいたが、私の脳はその情報を追いだしてしまっていた。
深い絨毯に足が取られるように感じながら、懸命に足を動かしていく。声を掛けられないように、一歩、一歩歩いて行く。後ろから彼女の
視線を強く感じ、それでも振り返って仕舞えば最後になってしまうことは確かであったから、泥沼の中を単独行軍していく。訓練用の重りも
持っていないのに息が上がり、体の末端が疲労したように固まり出す。汗を拭うことすらせずに、ようやくドアに手を掛けた。
 入室時に護衛から渡されたカードを端末に翳す。入る時には音も無く動いたドアは一センチも動かない。一瞬心臓がストライキを
起こしたように感じ、再度端末にIDを触れさせる。やはり動かない。乱暴にカードをドアに叩き付ける。普段ならば絶対にしない乱暴な行動
だったが、今の自分にはそれを考える余裕すらなかった。なおも開かないドアを見て、取っ手に手を掛ける。全身の力を込めて横に引く。
営倉規則第12条により「いつ何時も」横向きに開くことが定められている筈の扉は、自分の目の前に絶対的な壁として立ちふさがっていた。
「どうしました?帰らないのですか?」
彼女が自分に声を掛けてくる。この場でこんな事が出来るのは彼女だけだった。
「ああ…ひょっとして、カードの情報が抹消されてしまったのかもしれませんね。」
とぼけたように言う彼女。情報技術が発達したこの月面で、情報の抹消とは死亡時に行われる処理であった。隊長クラスが申請を出して軍長
まで決裁が上がり、ようやく正規の手続きが取られる筈のこの措置は、彼女にとってはさほどの手間ですらないのであろう。
「どうです?この端末で調べてみますか?」
弾かれたように彼女から小型端末をひったくり、叩き付けるようにカードを読み取らせる。赤い文字で自分の行方不昧が宣告されていた。
これまでの経歴を、そして人生を否定されたように感じて全身に血が上る。衝動的に首に爪を付けて、生体タグを強引に取りだそうとすると、
いつの間にか側にいた彼女に腕を掴まれて制止された。
「○○、無駄です。」
「依姫様…。」
彼女の口元からは、笑みが零れていた。

タグ:

依姫
+ タグ編集
  • タグ:
  • 依姫
最終更新:2020年02月25日 11:45