月の都、最高指導部の人々のみが集まる一角にその部屋はあった。汚れることなどを考えてもいない白色のソファー、
艶やかな木目が切り出された天然の一枚板テーブル、シャンデリアライトすら飾られていないのに仄かに光を放つ、
ムーンサルト社製の発光壁。十把一絡げで扱われている下級兵士は言うに及ばす、高級士官の部屋よりも更に数段高い調度品がある場所に、
依姫は居た。彼女の部下が丁寧にグラスを机に置く。泡が薄く湧き出るエールは、部屋の照明に当てられて薄い黄色になっていた。
恭しく頭を下げて部下が部屋から出て行く。音も無くドアが開き一瞬廊下の空気が流れ込むが、すぐに扉は閉まり部屋は、
外から閉ざされた空間となった。誰か人を待っているのだろうか、炭酸が抜けるのに任せソファーに座っている依姫。
彼女を待たせる人とは何者なのだろうか。月の中でもほぼ最高の地位である役職に彼女が就いている以上、
その彼女よりも上位となれば、最早片手の指で数えられる程に限られている。
あるいは役職の上位者ではないのだろうか。そうなれば彼女と親しくしている人物はそれ程いない以上、未知の人物となる。
もしも公式な仕事ならば、月面中央司令部の一室が使われるであろう。あらゆる情報にアクセスできるように端末が置かれているし、
あそこの照明は何時も抜けるような真っ白であった筈だ。そして殆ど有り得ない話しであるのだが、盗聴を気にするのであれば、
貴賓室に行くべきであろう。二十四時間体制で戦術兵器に分類されるカテゴリーBのライフルを担いだ護衛が扉の前に張り付いているが、
そこにうかうかと入り込むスパイはいない。以前に月面基地に滞在していた地上の侵入者すらも、この区域には一歩も入り込めていなかった
筈である。もっとも、幽霊に足があるかは微妙な問題ではあるが。
ふと、一瞬、空気が揺れた。部屋の壁に穴が空き、何かが紛れ込んだ様な感覚。その刹那の間に依姫は立ち上がっていた。
今の瞬間に誰かが部屋に来たのだろうか。いつの間にか室内には依姫以外の人物がいた。深く被られた帽子の所為か、その人物の顔はよく見えなかった。
相手が来るなりに嬉しそうに抱きつく依姫。薄暗い室内で身を任せる彼女の姿は、まるで恋人に会った姿のようであった。
依姫の体重が相手に掛かり、腰に回された腕が依姫の柔らかい体に沈む。後ろに纏めたポニーテールをずらし、キスをせがむよう
首筋を見せつける彼女。相手の顔が依姫の首に近づき、赤い花が咲いた。
「どうだ、○○。」
依姫が声をあげた。目の前にいる相手に囁くような小さな声でなく、部屋の中に通るような声で。そして後ろの棚の中に隠れている自分にも、
はっきりと聞こえるように。思わぬ言葉に心臓が止まる。全てバレていたのだろうか。計画に穴が生じたことで頭が混乱し、息が乱れてくる。
手が震え握っていた物を取り落としそうになり、慌てて強く握り込んだ。
「出てこないのか?出てこないのならば、このまま私は抱かれるぞ。」
再び依姫の声が響き、視界に火花が散った。大きな音がするのも気にせずに扉を強引に開けて、気が付くと依姫に向かって駆けていた。
腕を振るのに合わせて、手に持ったナイフが息をするように脈打つ。振り返ろうともしない依姫に向けて、そのままナイフを振りかざした。
彼女の首筋に残る赤い跡が、いやに目に付いた。
思いっきり叩き付けたナイフは、依姫の肌の上で止まっていた。手品のような超常現象を起こされたことに驚くが、ナイフを引き戻して
再び振るおうとした。無理に動かそうとした筋肉に衝撃が走る。右腕はナイフごと、何かに固定されて動かなくなってしまっていた。
「フェムト、それは須臾による時間の積み重ね。認識が出来ない限りなく細い糸により編まれた糸は、決して穢れが付かなくなるわ。」
「姉上、やはりその説明では地上の者は分からないのではないですか。」
「あらあら…そうかしら?」
部屋が明るくなり、室内に居た人間の顔がはっきりと見えるようになった。依姫に抱きついていたのは、豊姫様であった。彼女の指の先が僅かに光る。
恐らくはあそこに何か仕込んでいたのであろう。現代でも再現できていない科学には、相変わらず驚かされるばかりであった。しかし最早、
どうでも良いことであった。最高指導者の寵愛を受けながらも、嫉妬によってその相手を殺そうとした者に、人間らしい明日がある訳が無いのだから。
「馬鹿者め。」
依姫の腕が振られる。顎に丁度良い角度で当てられた拳は、上手い具合に意識を半分だけ刈り取っていった。腕だけが吊り上げられたまま、
顔が床に叩き付けられる。最悪な事に、奥歯に隠していた薬が転がっていくのが見えた。目敏く見つけた依姫がカプセルを回収する。
中身が零れていないかチェックする依姫。数秒眺めて得心がいったのか、上着の内ポケットに仕舞いこみ、カプセルの代わりに筒を取り出した。
「念のために打っておくか。」
首筋に針が刺さる感覚がして、数秒後には何か熱いものが体に流れ込んできた。血流を通って全身に流れる薬。ぼやけていた意識が鮮明になった。
依姫に襟首を掴まれるようにして、猫のように軽々と持ち上げられた。
「どうだ○○、大丈夫か。」
「……。」
「そうか、最悪か…。私は最高だがな。」
こちらの憎しげな視線をものともせず、上機嫌な依姫。殴られたためか口の中が無性に熱かった。
「ふふふ…、まさか全部お見通しだとは思ってはいなかっただろう?折角私の目を盗んで一時間も前から隠れていたのにな?」
そこまで知られていたのならば、襲撃はお見通しだったのだろう。依姫はなおも話す。
「それにどうしてあのナイフを選んでいたんだ。ああ…勿論、私が使っていたからナイフだからだろう?嬉しいな。しかし神を宿す巫女に対して、
只の刃物とは無謀が過ぎるぞ○○。横にわざと置いていた月兎の下級兵が使う豆鉄砲の方が、よっぽどマシだったのにな。
いくらそうなるようにしていたとはいえ、それではいけないぞ○○。」
「どういうことだ……。」
「ははは…。全て仕組んでいたことさ。○○。お前の嫉妬を煽るために、全て…全て仕組んでいたのさ。疑念が浮かぶようにお前の前から、
逢い引きができる位だけ消えるようにして、わざわざ姉上に協力してもらってキスの跡を付けておいて…。そうして跡がお前に見えるように、
過ごしていたんだからな。お前の嫉妬に歪む顔がとっても良かったぞ。最高だ。」
「何故だ。何故そんな事を!」
「私が依り憑かせる姫だからさ。お前に嫉妬の炎を憑かせ、永遠に私の隣で燃えさせるのさ。人間のお前が燃え尽きることなど心配しなくていいぞ。
八百万の神の力をもって私が離さないのだからな。ふふ…素晴らしいなあ。ずっと二人だけでいられるのだから。姉上の様に取り込んでしまって、
一つになることがなく、常にお前は私の隣にいるんだ。私に…私だけに愛を向けてな!」
最終更新:2020年02月25日 11:45