上白沢の旦那にとっては、喋る必要が無いとも言えるが。見方を変えればこれは、特等席で舞台を見ているような物であった。
あるいはこの感情自体が、現実逃避の最たるものなのではとも考えてしまえるが。
「一つ目の疑問」
蘇我屠自古と
ナズーリンが、事態の進捗を知るため。また、ナズーリンの場合はネズミを借りるための。
ネズミはナズーリンの個人的な配下だから、円満に使うためのいくらかのすり合わせ。だけで終わってくれと。
屠自古もナズーリンも期待と言うか望むと言うか、祈ってすらいたが。
「この状況で激突が起こっていないという事は、雲居一輪と物部布都の間には、何らかの協定があるはず。その協定の中身」
件の男、ナズーリンと蘇我屠自古が台風の目ではないかと疑い。調査を依頼したあの男が。
もはや台風の目ですら無くなっている、もっと酷い状態にあるのには。
雲居一輪と物部布都が、上手い事かち合わないように件の男に愛情を向けていると知ってしまえば。
ナズーリンは天を仰ぎ、蘇我屠自古は昨日と同じように再び頭を抱えて、今日この時に至っては唸り声すらあげていた。
「二つ目の疑問」
しかし稗田○○も、この依頼が自身の財布の中身を横領された事件は別としても。
過去類を見ない程に、どうなってしまうか分からないと言う点が重くのしかかっており。
「あの男は何を考えている。一線の向こう側が分かっていないのは確実だが、馬鹿みたいに純朴なのか、あるいは二人の女に良くしてもらって有頂天なのか。
どちらにせよあの男は、自身の生業としている職業の世界では才能もあるようだが……」
目の前でもはや絶望にすら打ちひしがれている2人の依頼人の心情など、ほとんど無視しながら喋っていたが。
稗田○○としても、この一件はもはや依頼云々が関係なくなった。そう認識していたので、依頼人がどう言おうが調査せねばならなくなった。
「三つ目の疑問」
目の前にいる二人の依頼人の様子とはお構いなしに、稗田○○は喋り続けるが。
ここまで来たらもう、これは、依頼人への説明と言うよりは。自分自身が状況を確認するための反芻(はんすう)のような物であった。
「二人ともが協定を作成する事に同意したのであれば……どちらともが、切り札と思っているやり方が存在しているはず
――最も恐ろしいのは。どちらかがこの切り札に痛恨の一撃を食らった時だ」
一通り喋った後、○○は少しばかり黙ってしまったが何もやっていないはずが無かった。
傍らにある帳面の中身を、あちらこちらと検め見て。何か思いつくたびに書き込んだかと思えば。
いくつか勘案して、上策だと思った物はすぐに。稗田○○の横には、常にと言っていいほど存在する阿求に。
何事かを耳打ちして、根回し、あるいは用意を頼んでいた。
蘇我屠自古とナズーリンも、何も考えていないわけでは無いが。この状況のあまりに大きさと不味さを考えれば。
率先して動いてくれている、稗田○○の横から入って。水を差すわけにはいかないし。
稗田夫妻の会話を邪魔する勇気と言う物が、まず出てこない
「さて……」
一通り、○○から阿求への頼みごとが終わった後。稗田○○は依頼人である二名の方向へと顔を向けてくれた。
「雲居一輪さんだけではなく、状況を考えれば物部布都さんも監視を。最低でも調査はせねばならなくなった。
幸い、細かい所を行き来できる存在。ナズーリンさんのネズミを借りる算段はもうついています」
本来ならば、今日この席では。ネズミを借りるにしても、どれぐらいの数借りるか。そしてどこを調査するかの相談が主だったはずなのに。
いつの間にか稗田○○……と言うよりは稗田阿求の意向が大きく働いているのだろうけれども。
ナズーリンが持つネズミ、その全てを使う事がいつの間にか決定していた。
ナズーリンにとって唯一の慰め所は、横合いに座っている蘇我屠自古が。彼女が、非常に申し訳なさそうな顔をしている点であろう。
「いや……うちの所の雲居一輪も。何もやっていないとは思えない」
物部布都のやや激情的な性格は知っているので、内部にいる者ならば余計に分かるであろう。ナズーリンの知らない事だって。
だから蘇我屠自古の心労に関しては、非常に同情的に物を見る事がナズーリンには出来た。
実際、ナズーリンが屠自古に同情的になっても。
「いやいや……どっちがヤバい策を考えているかと問われたら。うちの布都だって方に、金を賭けても構わんよ」
屠自古の方が、精神をやられかねない勢いで憔悴していた。
「蘇我屠自古さん」
時間がかかりそうだと稗田○○は思ったのだろう。蘇我屠自古がやや神経質に笑いだしたら、すぐに口を挟んだ。
「貴女にも協力をお願い……具体的には、ナズーリンさんのネズミを手引きしてもらいます。場合によっては、神霊廟内部にも……」
神霊廟の内部にまでと言われて、蘇我屠自古はやや息を詰まらせてしまったが。結局は観念した。
「まぁ……命蓮寺の連中がその気になれば。神霊廟への侵入方法は、その日のうちに見つけれるだろう。神秘性を保つ以上の意味は、あまりだからな」
屠自古の横で、ナズーリンが謝罪の意も込めるように。大きく頭を垂れてくれた。
「ありがとうございます」
すぐに首を縦に振ってくれた蘇我屠自古に、稗田○○は安堵した姿を見せたが。
果たしてこの安堵の感情は、素直な蘇我屠自古と、すんなり状況が動いて機嫌を悪くしなかった稗田阿求。
このどちらにかかっているのかなと。上白沢の旦那は考えてしまった。
この場においてはいまだに、一言もしゃべっていないのだけれども。主要な登場人物の表情を見るだけでも面白いと思ってしまうのは。
こればかりは、趣味が悪いと言われようとも、どうしようもなかった。
結局この日は、ナズーリンからネズミを全部借りる事と。調査対象は神霊廟内部であっても例外でない事を確認しただけであった。
次の日の事は、上白沢の旦那は何も聞いていなかったが。まぁ、何も言われずとも向こうの都合次第で。
人力車の一つでも迎えに寄こして、連れて行かれるだろうと考えていたから。
その時が来ればそうなる程度の認識と言うか、諦めにも近い感情であった。
「ああ、やっぱり来た」
だから、稗田阿求が稗田○○の相棒役である自分を連れて行った。あの日と同じぐらいの時刻に外を見たら、案の定で。
人力車が寺子屋に横付けされた。どうやら今日は、○○が自ら来てくれたようで。人力車の引手が、恭しく扉を開けている。
「そこそこ大きな話になりそうではあるがな……」
しかし案の定と言う感情で笑えたのは、全くの最初だけであった。すぐに一線の向こう側が、同じ地点、同じ男を見ている事には。
上白沢慧音を妻にしている自分には、嫌でも理解を素早く終えなければならなかった。
そう考えれば、自分はまだ分かりやすい分。幸せなのだなと考えながら慧音を見たら。
「何かあったら、こっちも手伝う。いつでも言ってくれ」
慧音の方は既に、警戒態勢を格段に引き上げていた。頼もしい限りであるが、自分が大して強くない事も確認してしまえる。
「訳が分からん。いや、より屈折した感情だと言うのは分かる。訳が分からないと言うのも、頭痛を覚えるから逃げたいと言う感情からかもしれん」
挨拶も抜きに、○○はいきなり依頼の事から話始めたが。今の状況で普通の挨拶が余り意味をなさない事は、理解している。
ましてや自分たちの仲を考えれば。
「ネズミが優秀なのは助かった……」
そう言いつつも、○○の顔つきは険しかった。
「物部布都は――信じられんが――遊郭街でしばしば、大量の物品を買い揃えている。同じ時刻に、雲居一輪は件の男の家で昼食かな?そいつの用意をしていた」
昼食の用意を雲居一輪が行うのは、先日の尾行で飯炊きの煙を見た時点で理解できている。
しかし物部布都が遊郭街で、と言うのはいささか妙だと感じられた。
「しかも物部布都は上客らしい……もっぱら商品を買うだけだが。まぁ、件の男への贈り物だとは思うが、あれだけの量となるとな。1人用とは思えん」
「今日も、広場に行くのか?」
「ああ」
ぶつぶつと呟いて考え事をする○○に、時間がかかりそうだと思って言葉を掛けたら。案の定であった。
「衣装は用意してきた」
稗田○○の事は、良い奴だとは思える。頭の出来も素晴らしいはずだ。
けれどもこの話の展開振りを考えると、こいつもこいつで、稗田家の家格以上に。
稗田阿求に影響されて、周りの事情を考えずに済むように調教されてしまっている。
――そう考えれば、稗田○○も随分と。哀れな存在なのかもしれない。
感想
最終更新:2020年03月31日 22:30