「射命丸か……ふむ、あの女か」
上白沢の旦那は、まだギリギリとした苛立ちを堪えながらも。ハッキリ言って諦めと○○に対する友情。
これらを半分ずつ混ぜた複雑な感情の荒波に、本格的に飲み込まれないように気を付けていた為。
不用意にも妻である慧音が、横にやってきた事にもあまり気付いていなかった。
――その際、慧音は夫であるこの男性の肩に優しく手を触れたが。はっきり言って艶っぽかった。
しかし上白沢の旦那は、稗田阿求からの朝一での呼び出し以上に、酷く無礼としか言いようのない手紙に憤慨していたので。
この艶やかさには気づかなかったし、奇声こそ挙げていないが憤慨する感情はまるで収まらず。
ともすれば酷く有り難い物として、神棚にでも捧げられそうな稗田阿求直筆の手紙を。
その紙片の一部をくしゃりとなるまで握りしめてしまっていた。この握りしめ方は、断じて感極まった物では無い。
幻想郷の住人としては、ましてや人里の住人としてはかなり問題のある行動だ。

しかし慧音は、その事は全く問題視しておらず。
「射命丸なぁ……もっと酷いのもいると言えば良るが……あの女もうさんくさいからなぁ……いや、頭は悪くないから、大丈夫だとは思うが」
あーでもないこーでもないと、色々とぶつくさ呟いていた。
その頃には上白沢の旦那は、諦めと○○に対する友情、この二つを半々に混ぜた複雑な感情を持ちながら立ち上がって。
しかたなく外出用の衣服に袖を通していた。射命丸の所なら山間だから寒くなるだろうと余分に服を着るのも面倒だが。
そこは○○への友情で無理に支度を続けていた。

慧音はそんな様子の夫をじっと見つめていたが、彼の精神状態に対する疑問や心配は無かった。
それよりも射命丸文の方が心配であった。いや、彼女の安全なんぞかけらも考えていない。
慧音の脳裏には、射命丸の肉体が詳細に思い起こされていた。完全記憶能力者の稗田阿求と比べるのが間違いなのであって。
歴史家の慧音だって、十二分に驚異的とも言える記憶能力を保持していた。
その記憶力で、射命丸の肉体の一部を思い出すたびに。自分に肉体と比べていた。
その度に難しい顔をしたかと思えば「こっちは勝てるな」と呟いて、やはり艶っぽい笑みを浮かべていたが。
必ずしもこの艶やかな笑みが、男性的な部分を満足させるわけでは無かった。ましてやこんな状況では。
「手袋……一応持っておこう」
(寒いなら私の手を握れば良いぞ)
それでいて自分の夫がぶつぶつと呟いて、鬱憤を少しでも晴らそうとする行為には。
『まだ』口には出していないが。当意即妙な返答を心の中では発していた。
これが出来るという事は、大した愛情と言える。ただしそこで止まらないのが、幻想郷の幻想郷たるゆえんであり。
上白沢慧音も含めて、一線の向こう側と稗田○○が表現するような人物。その本領と言う物がこの先に存在しているのだ。


上白沢慧音の脳裏に、一幕の絵図が浮かんだ。
射命丸の自宅だか作業場にて。
いきなりやってきたとはいえ、稗田阿求も含めた―阿求も来ると慧音は断言していた。彼女は一線の向こう側の中でも特にだ。だから来る。
何故なら相手は射命丸文だから。自分のように、肉体的魅力に自信のある自分ですら。
新聞の為だとは思うが、またぞろしなだれかかられでもしたらと思うと。
いやそんな事は、少なくとも自分の夫にはそんな事は一度も無かったが。
しかしながら稗田阿求は絶対に射命丸の所に一緒に乗り込むだろう、となれば稗田○○には、もとより危険だからと言うのもあるが。
慎重に慎重を重ねて受け答えするから、そっちには絶対に向かわない。
だがこっちは?私の夫の近くに私がいなかったら、これ幸いとばかりに何かをやるかもしれない。
何かあれば自分の力で取り返す自信は存在しているけれども。無いに越したことは無いと言うのは、衆目の一致するところではあるはずだ。


うがった見方をすれば、慧音も十分おかしかったという事だ。



「私も行くぞ。山に行くのなら、私もいた方が良いだろう」
「え?寺子屋はどうす―
「課題の用紙を何枚か用意して、採点も自分でやらせれば時間は持つだろう。どちらにせよ昼までには帰ろう」
かなり圧力のこもった、食い気味の返答だと。稗田阿求からの急で無礼な手紙に憤慨していた旦那の思考は。
不味い事になったかもしれないと言う、危機感に変化した。
「射命丸が相手なら、理屈も会話も理解できる奴だから大丈夫だろう」
思わず現状に対する楽観的な物言いをしてみたが。
「だからだよ。あれは良い女だ。理屈も会話も理解できるから、自分が良い女だと分かっている。まぁ、最も……私には負けるが」
最期の部分の強調っぷりに、下手に止めない方が良いと上白沢の旦那は考えてしまったし。
○○が度々口に出す、一線の向こう側の姿と言う奴が見えたからだ。
それにもう1つ、こっちのが大きかった。○○に比べれば、射命丸に気を使う義理と言うのも存在していない。


上白沢慧音からすれば案の定ではあるが、その旦那からすればここまでやるかと言う気分になってしまった。
稗田邸の前では、もう既に○○は準備を終えておりこちらを待ってくれているだけだった。
それだけならば、待たせたことを詫びるだけで済むのだけれども……。
稗田阿求も、山用の防寒装備を増しに増している姿を見れば。かなり不味い事になっているなと思わずにはいられなかった。
「――いっそ呼びつけたらどうだ?射命丸の事を。向こうは絶対に断わらんだろう」
だってお前たちは稗田だからなと言う言葉を飲み込みながら、上白沢の旦那は提案をしたが。
「いや……」
稗田○○が、かなりバツの悪い顔を浮かべた。
「俺の考えなんだ。呼びつけたら不意打ちにならないから……まぁ、さすがに奥までは行かないよ。洩矢神社で会見する」
手袋だとか肌着を二重に着たりとかの、それらの用意がほとんど意味をなさなくなった事よりも。
そうは言っても、そこまで深い場所に有るわけでは無い洩矢神社に行くのに、かなりの防寒装備をこさえている稗田阿求の方が心配になった。
「阿求は寒いのが身に堪えるからね、用心はどれほど重ねても無駄では無いよ。でも、阿求」
「――はい?」
少しの間があった。稗田○○を相手に、阿求のその間は本来ありえないものである。
「朝一で山に行くのは、まぁ、まだ空気も冷たいだろうから。上白沢先生もいるし、洩矢神社の敷地内だから――
「いえ」
暗に○○は、待っているように言ったが。稗田阿求程の存在がここまでやって引くとも思えなかった。
それは食い気味の返答を待つまでも無かったし。
「相手は射命丸文ですから」
怨嗟に塗れた阿求の声を聴くに、○○も考えを変えざるを得なかった。射命丸文には悪いが、阿求の飛ばす針の盾になって貰う事にした。
そして用意した人力車で、洩矢神社ふもとのケーブルカーまで向かう事になったのであるが。
阿求は一思いに乗らずに、上白沢慧音の方を見やった。その見やり方には、悪意や敵意こそないが、それでも剣呑さを2人の旦那は感じた。
「上白沢先生、ハッキリと言って貴女が羨ましい。あのメス天狗が何をやっても、貴女のデカい体なら十分戦えますから」
射命丸の事をメス天狗と言うのは、キツイ物言いだが予想の範囲内である。しかし上白沢慧音に対する形容詞は――ああ、問題大有りだ。

「阿求、行くよ」
上白沢慧音からの明確な返答や反応が出てくる前に、背筋を凍らせた稗田○○が急いで人力車に乗り。
妻である阿求に来るように促して、この場を無理やり動かしてくれた。
稗田阿求はそれを無視するはずが無いので、軽く会釈をして○○の下に向かい。
何かが起こる前に、上白沢の旦那も妻である慧音の手を引っ張り。二台目の人力車に乗った。
「慧音」
人力車が出てから旦那は、妻に不安げな声を向けたが。
「なに、何とも思っていないさ」
上白沢の旦那に、来いと言う言葉のみで終わらせた手紙よりも酷くて無礼であると言われてもおかしくない言葉と言うか、態度を阿求は示したのに。
上白沢慧音は確かに、勝ち誇ったような。あるいは優越感を味わうような笑みを浮かべていた。
ああ、上白沢の旦那は確かにそうだと断言せねばならない。
何故なら自分は、上白沢慧音の夫。この女性の事を結局は愛していると言う結論にしかならないのだから。
けれども恐ろしかった。
「もう少しこの余韻を味わわせてくれ。せめてケーブルカーの駅にたどり着くまでは」
そう言って慧音は、自分の夫を。狭い人力車の中で更に密着するように、抱き寄せた。
上白沢慧音の魅力あふれる肉体に、慧音自身の手でいざなわれると言うのは。こんな状況でも本能が確かに反応してしまった。







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最終更新:2020年03月31日 22:40