コイヨコイ
「ふう……。ままならない物だな…。」
磨き上げられて埃一つ落ちていない机の上に、グラスを置いた女性が言葉を漏らした。穢れの無い月の都であれば、そこに満ちる気配は不浄なものが
含まれていないのは当然であるのだが、彼女の周りの空気は取り分け澄んでいた。それは彼女の持つ力の所為であろうか。神を依る巫女たる依姫ならば、
どのような神であっても憑けることができるのだから。普通ならば臆してしまいそうになる彼女を前にして、目の前の人物はそれを感じさせないように言った。
「お館様なれども、気になる事があるのでしょうか。」
ジロリと依姫の視線が一瞬のうちに流された。厚顔無恥という訳ではなく、その対極。穢れ無き表情を浮かべながら自分の前に座る若者を見ると、
どうにも普段の調子がでてこない。指導者としての隔たりを感じさせず、然りとて不快でもなく。むしろ彼と居ると心が安まる。だからこれほどまでに頻繁に
こうやって誘っているのだから。彼は果たして此処に居る意味が分かっているのだろうか。そこまで底なしの粗忽者では無い以上、拒絶はされていない…
と信じたい。希望的な、ややもすれば、独善的な感覚になりかねないのだが、それでもそれ位は信じたいのだ。神を司る巫女としては。
「一番欲しいモノは容易には手に入らない。そういう事だ。」
「そうですか…。そんな事もあるのですね…。」
考え込む仕草をする彼。そのような表情すらも目の前で得るのであれば、依姫の内心を喜ばせる材料であった。グラグラと煮えたぎるような感情。
深い奥底に潜みながらも、その衝動が沸き立った時には、押さえようもなくなっていた。火山の地下から吹き出すマグマを、果たして一体、誰が止めれようか。
「……。」
「どうかされましたか?」
「……っ。大丈夫だ。」
「悩み事でも?」
「……今日は遅くなった。戻ってくれ…。」
淵を越えようとする感情をどうにか押しとどめる。その気になれば、彼を幾らでも好きな様にできるのに。秘神の「愛鳥」の噂は言うに及ばず、彼女の姉でさえ…。
危険な衝動に乗っ取られないように、自身を必死に抑制する。この恋が苦しいのであれば、せめて自分の矜持に賭けて見苦しくないようにしないといけないと、
自分を形作る魂の中に存在するナニかに突き動かされるようにして。依姫の口から微かな息が漏れた。泡を微かに湛えているシャンパングラスの中身を通して見る世界が、
涙に彩られて徐々にぼやけて崩れていった。
感想
最終更新:2020年04月01日 22:39