「しまった!!」
射命丸の自宅及び、新聞製作の作業場に到着してからいくらか時間がたった折に。
東風谷早苗がいきなり、ひどく悔しそうな声を出して両腕を振り上げたかと思えば大声を上げ始めて。
「最初からお金の話なんて持ち出さなかったらよかった!!あの女の嫉妬をなだめなきゃいけない○○さんが可哀そうで、報酬の話をしたけれども……!?」
「ここここ、東風谷様!?」
射命丸は急に暴れる一歩手前になった早苗を見て、普段は早苗に文とざっくばらんな関係であるはず射命丸ですら。
怯えてしまい、久方ぶりに早苗に対しては使ったであろう様付の呼称を用いてしまったが。
「ああ……すいません、文さん。急に気づいちゃったんですよ……あいつの、稗田阿求の深淵なるこだわりにね」
そこそこよりも確実に仲のいい射命丸からの警護に、幸いにも早苗はここがどこで、近くにだれがいるかどうかは思い出してくれたし。
早苗が見せた苛立ちの原は、もちろん射命丸ではなかったが。
生まれながらの天狗であり、妖怪の山で生きていようともわかる、稗田の家格を知る射命丸にとっては。
八つ当たりでもいいから、早苗には射命丸文に対してぎゃーぎゃー言ってほしかった。
ここには早苗と文しかいないとはいえ、稗田阿求に対して『あいつ』等と口走る早苗のほうが、よほど怖かった。
自分が新聞製作を生業の一つにしているからこそ、他のブンヤだって耳ざといし目端も利く事ぐらいわかっているから。


しかし、東風谷早苗は止まらなかった。
「文さん、見えてましたよね?私がお金の話を持ち出して、いくばくかの報酬を求めたとき、稗田阿求が笑ったところ」
「え、ええ、まぁ……ブンヤですから、目端は利かせてないと商売になりませんから…………」
会話に付き合うのもまずい気はしたが、ここでまるで会話しないのも早苗の不機嫌さに対して、燃料を与えるようなものとしか思えず。
結局、会話は出来上がってしまった。
「告げ口に1円(明治時代の1円は現在の1万五千円前後)もらうだけでも、ずいぶん稗田からの施しをもらいますが。まぁ、まだ良いですよ。
でも1人10円も渡したのは、間違いなく私たちを陳腐化させるためですよ!仮に稗田○○に助力してお礼をもらった事が世間に知れても……
いや、稗田阿求なら必ず、この話をばらす!たかが告げ口に10円もらったとは、さすがにそこまで露骨な表現はしないでしょうけれども。
だとしても、丁寧な言葉に隠して見下した感情をうまくあの女は乗せてくる!少しは学があれば、私も文さんも、稗田○○の仕事にたまたま協力できたのを良いことに!
妙に吹っ掛けて金を得たなと思える、そんな噂を、稗田なら流すぐらい造作ありませんよ!!」
射命丸が聞いていてくれているのをいいことに、早苗はほとんど息もつかずにしゃべり続けたが。
彼女だって、風祝であり現人神であるだけのことはあり。これだけ興奮していてお、ちゃんとした文章を作っており。
叫んでいるような気配はあるが、完全には叫んでおらず。ちゃんと射命丸の耳にも聞こえて、理解することができた。
だからこそ、射命丸は神妙な面持ちを作っていた。早苗の言うこと、稗田ならば、というよりは九代目である稗田阿求ならば。
稗田○○に対して、本来ならば自分がもっと上手に出られるだけの格があるはずなのに。不思議なことにあそこまでの健診を見せている稗田阿求ならば。
東風谷早苗が先ほど予想した通りのこと、たまたま協力できたのをいいことに小金を大目にもらおうとする。
そんな早苗と文たちの姿を、稗田阿求ならば出入りしてくれるやんごとないお身分の方々や、主治医やら奉公人達に対して。
それとなく伝えていくだろうし。そして稗田家に出入りできる存在ならば。そういった言外の行動を察知して、理解できるだけの能力がある。
たかが告げ口に10円も巻き上げた……とまではいかないでも。さかしらに小金をせしめたぐらいには思われるのは、もはや避けようがない。

「文さんは悔しくないんですか!?」
早苗はそう言って、射命丸文の自尊心に訴えかけるけれども。しかしながら射命丸は、黙って首を横に振って。
「相手は稗田です。それに稗田家にとって、10円を三名に渡すぐらい。何てことないんですよ。
これでも長く生きてますから、稗田家の財政状況も少しは知ってます。今日のこれは、私たちにおまんじゅうを奢ってくれる程度の出費です」
呆れの意思が混じった冷静さで、何よりも今は目の前で鼻息を荒くしてしまっている早苗を。
彼女を何とか落ち着けようとして、私は――早苗の前には諦めたように見えたが――何とも思っていませんからと。
そう言いながら早苗のことを落ち付けていた。
諦めたような射命丸の表情が気になったが。
早苗は一つだけ質問した。
「私がここで……まかり間違って、稗田に文句を言ったりしたら。やっぱり、迷惑ですか?」
「…………ええ、かなり」
そこそこ以上に仲のいい早苗に対して言うものだから、射命丸はかなり迷って、申し訳なさそうにしていたが。
しかしながら、射命丸文の口から出てきた『かなり』という言葉が、真実であるということは十分に信じることができたし。
「10円がおまんじゅう奢る程度も、ですか?」
「ええ……残念ながら」
稗田家にとっての10円の価値が、自分たちと比べて著しく低いことも。やはり真実だと信じられたが。
それよりも射命丸の言葉のほうに早苗は惹かれた。
射命丸は稗田家にとっての10円の価値が低いことに、残念なことにと言った。
なぜその部分を早苗が重要視するのかは、言っても理解してもらおうとは思っていないが。
「そうですか……じゃあ、私と同じような感覚の貴女に、迷惑をかけるわけにはいきませんね」
今この状況で早苗にとって最も重要なのは、射命丸文が苛まないことであった。
「しかし稗田は、と言うか稗田阿求は驕っていますね。10円がおまんじゅう一個奢るのと似たような価値観とはね」
なので早苗は、この稗田阿求に対する憎まれ口を、射命丸だけに聞かせて終わりにした。
早苗が矛を降ろしたのを見て、射命丸はようやく肩に込められている力を解いて、楽にしてくれた。
第一、自宅で肩ひじ張っている射命丸の姿がること自体がおかしかったのだ。
そう、これで良いのだ。稗田阿求との喧嘩は、東風谷早苗個人で行うべきだ。だから何かを言おうとする射命丸に手の平を見せて黙らせながら。
「なんかむかつくから、これがおわったら、甘いものでも食べに行きましょうよ、文さん」
露骨なぐらいの笑顔で、早苗は射命丸のことを黙らせた。
少なくとも矛は収めてくれた以上、これ以上早苗に突っ込みを入れるのも無粋である。
「……そうですね」
射命丸もさすがに、早苗が何かを考えているのは察知したが。自分をまきこまないでいてくれるのは、そう意識して動いてくれるのは。
理解して、ありがたく思うべきであった。
そもそも洩矢神社はすでに、洩矢諏訪子の暗躍癖が存分に発揮されていて。何かがあった際の中心地帯と化してしまっている。
ならば、稗田からすればたかが天狗の自分は。身を引くべきなのかもしれなかった。



「そろそろ時間ですね。私は奥で隠れていますよ」
雲居一輪と物部布都が、一方的に言いつけた時間が近くになったのを、壁掛け時計で見やった早苗は。
せっかく射命丸が用意してくれたお茶とお茶菓子がまだ残っているのにと、恨み節にも近い雰囲気を出しながら奥に向かった。
射命丸は、一言声をかけようとしたが。これが終わったら美味しいものを食べに行く約束があるので。そこで何とかするしかなかった。
どちらにせよ、一線の向こう側が二人も射命丸の自宅兼作業場に乗り込む前に。他の事はやるべきではなかった。
少なくとも今の状況で何とかしようとするのは、早苗に迷惑というか、不義理であろう。

早苗が奥の部屋で待機しだすと、場が一気に寒々しいものに変わった。
これがしばらくすれば、修羅場一歩手前にまで発展してしまうのである。
何を考えているのかは知らないが、恋敵がわざわざ同じ場所に介することを計画している。
どちらも相手を嫌がっているくせに、抜け駆けを警戒して互いが互いを監視することにしている。
こんな事を言えば射命丸は雲居と物部の両名から、恐ろしいだけの悪感情をもらうことになるし。
奥で警戒してくれている早苗が、これはもう駄目だと考えてくれて、乗り込んでくるであろう。そうなればこの自宅兼作業場も、どうなるか。
そうならなくとも雲居と物部両名の、痴情のもつれから来る、悪くすれば殴り合いを止める羽目にはなりそうだが……。
それはそれでやっぱり、早苗は自分のために出てきてくれるだろう。
恐ろしく不謹慎な考えではあるが、妖怪の山が噴火してくれないかなと考えてしまった。
そうなれば、少なくとも今日の会合は延期となってくれるだろうし。運が良ければ稗田○○が何とかしてくれそうだ。

しかし不謹慎ながらも延期が許されるような事態は、一個も起こってくれず。
「あややややぁ~開けます、開けますから!扉をそんなにけたたましく叩かないで。壊れる、壊れる……」
およそ友好的とは思えない来訪の仕方を伝える、殴りつける扉の音で舞台の幕が上がったのが伝えられたし。
最初の一歩目から、早苗はいきなり沸点ギリギリまで怒りの目盛りが上昇もした。
早苗のこともなだめたいが、自宅の設備をぶち壊しかねないこの来訪者の相手もしなければならないと着て。
射命丸はいきなり二律背反に立たされてしまった……。
せめてこの来訪者である、雲居と物部が大人しくしてくれているのならば。早苗もプスプスとした音や煙が頭から出そうでも。
射命丸への迷惑を考えて、何とかこらえてくれたろうけれども。
扉を開けた先にいたのは、物部布都だけであった。


「我しかいないのか!?」
射命丸の自宅兼作業場へと、無作法に上がり込んだ物部布都であるが。手土産はおろか挨拶も抜きに、いきなり喧嘩腰であった。
「雲居一輪はどうしたと聞いているのだ!?なぜ、我しかいないのだ!!あの腐れ尼僧の飯炊き女!!」
幸いその喧嘩腰は射命丸へは殆ど向いておらず……とはいえ、物部布都の言い草はもはや聞くに堪えない位の物であった。
尼僧であることを、仏教とは敵対していることを隠さない、道教信者の物部布都である事を加味しても。酷い以外の評価はない。
雲居一輪への表現は、首魁の豊郷耳神子に聞かせてやりたいと、早苗は思わず舌を打ちながら聞いていたが。
残念ながら射命丸にそこまでの余裕は、一切存在していなかった。


「その……別に私は、いらっしゃるという事しか聞いていないので。二人で来るみたいな事は確かに聞いていますが、聞いているだけなので……」
射命丸は自己弁護に終始するしかなかったが、実を言えば射命丸の言葉を物部布都は聞いていなかった。
「しくじった!!」
しばらく口に手を当てて考えていた物部布都であるが、何かに気づいてまた大きな声を出した。
「あの卑しい女め!!すっぽかして我を置いていきおった!!」
その卑しい女とは……どう考えても雲居一輪の事ではあるが。早苗からすれば物部布都も大概、こちらに関しては卑しいよりもずっと酷い。


「おい、ブンヤ!こんな感じで頼むぞ!!」
紙の束を叩きつけるような音がしたかと思ったら、また、ドタドタとした音を出したかと思えば。
扉をバタンと、やっぱり大きな音を出しながら叩きつけるように閉めて。それで物部布都は出て行った。
そして入れ替わるように、東風谷早苗が出てきたが。最初の約束通り、稗田○○に渡す情報をメモ帳に書いていたが。
少し見ただけで、乱雑に直してしまって。物部布都がったたたきつけた紙の束を拾い上げた。
「多分、こっちを見せたほうが良いでしょう……なんというか、好きな人のためなら何でもするんですね。私もそうなっちゃうのかな、不安ね」
早苗が拾い上げた紙の束の内容は、やはり件の男性に関わる事ばかりであった。
――自分たちが仕組んだくせに――事故で歩荷が何人かケガを負って、しばらく動けなくなった事で。
残った歩荷に負担が大きく乗っかることになったが。それでも雲居一輪と物部布都が好いている件の男性は、非常に優秀だし何より勤労精神も高いようだ。
動けなくなった歩荷仲間の代わりに、やはり彼が。雲居と物部に好かれている件の男性が、一番抜けた穴を埋めてくれているようだ。
つまるところ、雲居と物部は自分たちが好いている男性をもっと褒めろと言っているのだ。射命丸が執筆している文々。新聞を使って。
「……怪我した歩荷への悪口がひどいですね。この指示書。自分たちが怪我させたくせに」
しかし早苗も早苗で、少しばかり何かに気づいた。
「怪我した歩荷って、やっぱりあのお二人。雲居一輪と物部布都に嫌われたがために……なのですかね」
メモ帳よりもこの指示書を見せたほうが、稗田○○の役に立つだろうと思ったが。
ちょっとした思い付きを言ってやれるぐらいは、稗田○○に対しては同情している。
この思い付きがはずれでも構わないし、当たっていても構わない。けれども怪我した歩荷には何かの共通点がありそうだった。





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最終更新:2020年05月18日 22:18