「これはこれは……ははは、はは」
東風谷早苗から提供された、物部布都がいきりたちながら射命丸に叩きつけて帰った。
次の新聞で書けと強要してきた話題の骨子を記した紙片を読みながら、○○は皮肉気な笑顔で状況のまずさを和らげようとしたが。
どうにも上手くは行ってなかった。稗田家に対する礼儀――そんな物、東風谷早苗が今の状況で持てるとは思えないが――で、原本をこちらに渡して。
射命丸は写しを持って行ったが……早苗は原本だというのに、余白において物部布都のひどく無礼なふるまい。これらをすべて書き記していた。
書き記してくれているのは、まぁ、貴重な情報なので助かる以外の何物でもなのだけれども。
別紙に付記する解いたこともしないで、原本に書きなぐるとは。稗田○○としても、東風谷早苗の苛立ちに対しては気になる点ではある。
どうせ物部布都も雲居一輪も、件の歩荷の事が。両名から好かれているあの男を称賛するような記事が出てくれば。
射命丸に叩きつけた指示書なんぞ、必要ではなくなるだろうからとはいえ。悪口雑言を原本に書きなぐるのは、かなり気になる点ではある。

しかし。
「あなた、お茶のお替り入れましょうか?」
そう、その『しかし』という点が。阿求の声で○○の脳裏では、ひと際鮮やかになる。
「頼むよ」
「おまんじゅうも、新しい箱を開けましょうか。私もお茶請けのお替りも欲しくなりましたし」
「うん、ありがとう。そっちも頼むよ」
東風谷早苗の苛立ちは、この事件の次に気になる事象である。仮にこの事件が解決すれば、繰上りで東風谷早苗の抱えている苛立ちこそが、序列一位の問題になるけれども。
「あなたが気に入っている和菓子屋さん、おまんじゅうの新作が出来たとかで。お手伝いさんに用意してもらったんです」
「ほう、楽しみだ」
稗田阿求は、夫が東風谷早苗――多分、これが洩矢諏訪子ならここまで露骨じゃなかった――から持ち寄られた新情報を検証しながら。
この先においてどう動くか、それを考えていると稗田阿求はかいがいしく夫の世話を焼きだした。
――稗田阿求のこの行動が嫉妬であると断じるのは、阿求の夫となって短くもない○○からすれば、苦も無くできる判断であった。
阿求の嫉妬心が、ふとした時に緑色の陽炎でも見えるのではと言う確証等は無いけれども、ちょっとした思い付き等ではない強烈な絵が見えたし。
ここは幻想郷だから何かの間違いで橋姫こと、水橋パルスィと出会ってしまったら。先に○○の脳裏に見えた、緑色の陽炎をまとう稗田阿求の姿。
きっと現実になるだろう。

それを防ぐには、東風谷早苗とは努めて事務的で。それ以上にどうにかして、東風谷早苗と出会う回数も時間も、思いつく限り減らすべきだ。
けれども、だからと言って東風谷早苗の事を全く無視できるかと言えば違う。彼女の事も心配なのだ。
洩矢神社で東風谷早苗との会談を終わらせてから、そしてやっぱり東風谷早苗が、手に入れた情報を稗田邸に持ってきた。
年齢は○○と同程度、いやそれは稗田阿求も同じだから良い。
問題は東風谷早苗の肉体的魅力が、かなり高いからだ。そんなのと半日未満の時間で二回も、稗田○○は出会ってしまった。
東風谷早苗に言わせれば、普通の調査業務だろうが!と、キレながらも心の底でその言葉を収めてくれるだろうけれども。
稗田○○にとっては、そうやって稗田阿求の堪忍袋の尾を踏みちぎらないように東風谷早苗が。きっと心の中で中指ぐらいは立てているだろうけれども。
そうやって心の中でぐちゃぐちゃの感情を抱えたまま、東風谷早苗が忍耐を続けているのが。極端に言えば恐ろしいのである。
いずれ爆発する。可能性があるではなくて、遅いか早いかの違いだけであり、いずれ爆発する。何とかする必要がある。
出来るだけ早く、そして継続的に。
――だが。
「阿求、付き合ってくれ。まずは永遠亭だ、その後に里でもう少し聞き取り調査だ。多分今日は長くなる……と言っても半分以上の時間は移動だろうけれども」
どちらが破滅的事象に近いかと問われれば、残念ながら妻である阿求のほうだ。感情を排した合理的判断においてもそうだし。
「は、はい!お供しますわ、あなた!!」
この顔だ。稗田○○もわかっている、結局○○自身が一番弱いのだ。彼女の笑顔にはとてつもなく弱い。
阿求の予定やら仕事やらを無視した、突然の話だというのに。彼女は1もなく2もなく、何の苦も存在させずに。
お供をしてくれという○○からの突然の申し出に対して、全力で快諾してくれた。

○○だって、阿求の夫であるから。常日頃の阿求の行動、どの時間に初めて、あるいは一息入れるのかといった仕事のやり方は。
これらは、傍から見ているだけでも○○は理解していた。
○○の腕に絡みつく阿求の頭を優しくなでながら、壁の時計を見やった。仕事が一つ遅れるのは確実であった。
時間的に、里へ戻ったらちょうど昼食の時間だ。となれば、一緒にと言うのは毎日そうだけれども、今日の昼食は外でとることになる。
その後も――時間がない――○○は聞き取り調査の本命である、件の歩荷に奇襲をかける予定だ。
いくらかの罪悪感を件の歩荷に対して抱いていたが、阿求の爆発の方が恐ろしくて……里に対する影響は甚大で、長引いてしまう。
「大丈夫ですよ」
けれども仕事を1つ、遅らせてしまうなと思っていたら。そんな○○の懸念に対して安心を与えるように、阿求が○○に声をかけた。
「今やっている事は、八雲紫からの物なので。アレは少々待たせたって問題はありません」
(アレ……ね)
八雲紫の事は、資料でしか見たことはない。
――写真すら無い事には、阿求の作為を感ずる――けれども、かなりの美人だと言う事は各種資料を参照するだけでも。うかがい知れる。
あと、胸も大きいそうだ。阿求よりもずっと。
『アレ』という言葉に、仲の良さを感ずるか……それとも。だが……少しばかり嫌な感触を覚えたのは確かだけれども、今は阿求のほうが大事であったし。
結局は阿求の事を、○○は最優先に考えてしまっているのだ。
だがその事は……今は、考えないでおこう。考える事がいずれ来るかどうかすら、実は怪しいけれども。
八雲紫と自分が接触するのを、阿求は嫌がるだろうから。



(げ……)
鈴仙・優曇華院・イナバは、連れ立って永遠亭にやってきた稗田夫妻を見て。口にこそ出さなかったが、ものすごく厄介で嫌だという感情を抱いてしまったし。
多分その感情は、稗田夫妻の両方ともに対してバレていたけれども。稗田○○が、もはや喜劇的とでも言わんばかりの露骨な笑顔と表情の使い方のおかげで。
鈴仙の見せた嫌な感情は、奇跡的に薄まってくれた。
「少し、聞きたいことがあるんですよ……今、入院されている。あぁ、歩荷の事故についてね。八意先生はご在宅で?」
鈴仙としてもこの頼みごとを拒否することはできないし、そもそもする訳がなかった。した方が面倒なことになる、だから。
「師匠ー!ししょー!!稗田夫妻がぁ!」
一目散に逃げつつ、八意永琳の事を大声で呼んで。鈴仙は脱兎の如く逃げて行った。



「……今度は、何なのかしら?」
全くもって面白くないという顔をしながら八意永琳は、稗田夫妻を自分の執務室に呼び寄せたが。
かなり、こちらに合わせてくれていると言うのが見て取れた。
八意永琳の肉体も、恐ろしいとまでの形容詞をつけても構わないほどに、極上であるけれども。
少しばかりやぼったい作業服を着ていて、わざとらしく泥汚れがついていた。
「ごめんなさいね、さっきまで薬草の栽培で作業をしていたから」
この言葉も実にわざとらしかった。大体、八意永琳が野良仕事をやっているならば鈴仙・優曇華院・イナバが、何もしないはずはない。
自分も手伝うか、そうでなくとも他の調剤なりなんなりを師匠不在の間でも出来るだけ進めたがるし。
それ以前に永琳の泥汚れがわざとらしい。なぜ背中にまで、べっとりと泥汚れがついているのだろうか。正面と同じぐらい汚れている。
それに泥汚れもどちらかと言えば、砂っぽい。農場ならばもっと黒い土、赤い土のはずだ。
野良仕事用の服に着替えるのが限界で、農場まで行く時間も惜しいとみて。縁側から飛び降りて転げまわったのだろうか……?

だがそれを滑稽とは、いくら何でも○○は思わなかった。むしろここまでやってくれた事に対する畏敬の念や、申し訳なさである。
となれば、早々に用事を済ませて退散するのが。八意永琳に対する、引いては永遠亭に対する。申し訳なさに対するせめてもの謝罪と礼儀であろう。
○○はカバンから、物部布都が射命丸に対して叩きつけた紙片を八意永琳に。今回に関しては、○○はさすがに丁寧に八意永琳の机に置いたが。
手渡すような真似は絶対に避けたし、八意永琳も不意に肌が触れないように身を引いていた。
「悪口の相手に対する情報が欲しい」
「……ああ、やっぱり。一人や二人程度ならともかく、あんな一気に歩荷が事故にあうなんて。しかもロープが切れたと言うから。余計にね……
かなり奥地まで入り込める歩荷が?装備の不備に、あれだけの数が全員気づけなかった。奇妙としか言いようが無いわ」


やはり八意永琳ほどであれば、何か妙なものに気づきかけていたのだろう。最も、だからと言って積極的に調べる義理が存在していないから、そこから進める気はなかったが。
ちょっとした偶然から、八意永琳はこの件を知ることができたけれども。彼女は一線の向こう側であるから、問題はない。
これ以上頭を突っ込むことはしないし、何年たとうとも聞いてくる事もない。


「で?怪我した歩荷たちの特徴は?」
○○は努めてぶっきらぼうに、八意永琳に対して求める情報のみを聞いていた。これぐらいで良いのだ、もっと冷たくても良いぐらいかもしれなかった。
八意永琳も、○○から渡された物部布都が記した、乱暴な指示書を返しながら。
「嫌な奴らよ」
とは言ってくれるが、八意永琳の方も不意に手を触れないように。机から紙片を半分垂らす形で、○○に紙片を返してくれた。

阿求はどうしているだろうか。
不意に不安になったので、○○は妻である阿求の方を確認することを優先した。机に半分垂らされた形の紙片は、○○に半分放っておかれてしまい。
自重により、バサバサとした音をたてながら地面に落ちてしまった。幸い、ヒモで止められていたから完全にばらける事はなかった。
しかし永琳はもう一度、黙って紙片を取り。今度は机から落ちないように、置く位置を調整してから。椅子を後ろに寄せて、○○から少し離れておいた。
しかし幸い、阿求は少しゆらゆらしているけれども。
「これ、あなたのカバンに入れておきますわね」
紙片の束をわざわざ阿求が手に取ったこと以外は、特段、おかしな点はなかった。
それよりも阿求は妙に楽しそうだった。何よりも八意永琳が、不意に○○と触れ合わないように、そして自身の魅力を何とか隠そうとしてやぼったい作業着を着て。
わざとらしい程に泥まみれになってまで、隠してくれた事に。
……うれしいとは、思っていないだろう。しかしながら、愉悦は間違いなく感じていた。八意永琳がここまでやることを、ともすれば恐怖含みでやっている事を。
間違いなく稗田阿求は喜んでいた。

ふっと、稗田阿求という存在について。稗田○○は栓も無い事を考えてしまった。
稗田阿求に対してここまで気を使って、協力的で、何より鈴仙・優曇華院・イナバにせよ八意永琳にせよ。
この恐怖含みの感情を稗田阿求に対して抱いていることに。
○○の好きなシャーロック・ホームズ譚において。ロンドンの犯罪の半分に関わっている、悪のナポレオンとまでホームズが評した。
悪の帝王、モリアーティ教授の存在と。稗田阿求の存在は似ているのではと考えてしまったし。
若干の趣の違いはあるけれども、○○を華やかな舞台に上げて、その為に周りの動きも無理やり調整させて。愉悦に走っている阿求は。
ロンドンならぬ、幻想郷の犯罪界に対して後出しでも無理に首を突っ込める。稗田としての権力も合わせれば…………
が……その事は栓無き事だと無理に考えて。
「嫌な奴ら、ですか。なかなか気になる言葉ですね。正直あの事故
――ではないのだけれども――での被害者に選ばれた者たちは、何らかの基準がありそうだとは思っていましたので」
事件の話、調査内容の話に対して。無理に軌道を修正したが。少し、自部の中でもわかる部分があった。無理がある。
けれども、無理があるという事実は無視するしかなかった。


「物言えば、唇寂し、秋の空……これがわかる連中ばかりではないのが、残念ね」
八意永琳もどこかちぐはぐな今の状況に対して、思うことはあっても前に進めることが一番だと考えてくれて。
彼女の言う嫌な奴らに対して、何か暗示や手がかりのようなものを与えてくれた。
「芭蕉の句ですね。悪口雑言が止まらないやつもいますからね……そうか、件の歩荷は。雲居と物部に好かれているあの男は、嫉妬されていたのか」
「それに、話を聞いた限りでは。件の歩荷――誰だか知らないけれど、何となくわかるわ――の装備や道具にいたずらをしかけていたようなの」
永琳からの手がかりは、これで十分だった。彼女が嫌な奴らだと表現するはずである。稗田○○も思わず、天を仰いで嘆きの姿を見せた。
よくもまぁ、治る程度の怪我で済んだものである。

阿求も得心を得たようで、何度かコクコクとうなずいていた。
「雲居さんと物部さんがそこまでやる理由、何となくわかりましたわね。いるんですよね世の中には、嫉妬の炎を燃やすのが一番の娯楽という。
そんな救いようのない連中がいるんですよね。これに関してだけは、あのお二人の味方をしたいかも」
けれども事故を計画したことにまで、阿求が心を寄せるのはかなり、良くない気がした。
少しばかり話が悪い方向に矢印を向ければ、少なくともこの事故に関しては無罪放免……いや、もうなったような物だ。
どちらにせよ、一線の向こう側を下手に刺激はしたくない。内々に処置を施すしかない。


始末しろ、証拠を破棄せよ、何も言うな。
モリアーティ教授ならば言いそうな指令ではあるけれども、幸いなことにホームズ譚におけるロンドンには、モリアーティと真っ向から対立するホームズがいるけれども。
残念ながら今の幻想郷、特に人里には。ホームズ役を担っているはずの○○ですら。モリアーティ教授の立場に座っている稗田阿求の従僕。
そもそもが○○の立場であるホームズ役を授けたのは、正真正銘でモリアーティ教授のような立場にいる。
稗田阿求から与えられたものなのである。この時点で、力関係はもはやくつがえし様が無いし。○○もそれでいいと思っている。
八意永琳も、いくらかの呆れはあるけれども。それだけだ。

ならば、せめてもの慰めとして。この案件に対して、全力を出して挑むのみであった。

ああ、けれどもだ。
相変わらず稗田夫妻の移動方法は、基本的に人力車だ。
体が弱い阿求の事を考えて、また永遠亭は人間でも安全に行き来の可能な道こそ、既に整備はされているけれども。
案外遠いし、整備というのはあくまでも身の危険を感じずに歩けるという意味でしかない。
だから移動はもちろん人力車で、人力車の中と言うのは簡易的とはいえ密室である。
増してや普段は人通りの少ない竹林であるならば、そして人力車を引いているのは稗田の手の物。会話が漏れ聞こえようとも、まるで心配はない。
「八意先生が教えてくれたあの歩荷たち……どうにも性格が悪いですね。好きではありません。怪我だけで済んだのもあまり面白くない」
幸いこの言葉は、人力車の担い手は考えなくていいから。実質的には稗田○○だけが聞いているけれども。
事実上のモリアーティ教授と同じ権力と立場の稗田阿求が言う。好きじゃない、面白くないは。
処分される一歩手前の言葉であるし。気をまわして暗躍してくれる存在が、稗田家にはわんさかいる。
「……ま、雲居と物部に一任しよう。すくなくともまだ、稗田には迷惑をかけられていない。
道具や装備への嫌がらせが度を過ぎれば……こっちが気付く前に件の歩荷を好いているあの二人のどっちか。
多分両方が、どうにかしてくれるよ」

「それもそうですね。何かあれば射命丸の新聞に、雲居と物部がまた記事を書かせるでしょうから。それを読んでほくそ笑んでおけば良いですね」
幸い、阿求は。あの永琳が嫌な奴らと表現した歩荷が、面識もないという事が幸いして。
――どっちが幸いかはわからんが――雲居と物部の好きにさせればいいと考えてくれた。
――稗田○○の言葉に首を縦に振りながら。これは演技ではなくて、真なるものであった。
稗田○○も愉悦を認めなければならなかった。
人里一番の権力者である稗田阿求の意志を、○○は自分の一言でいくらでも操作できたという事実に。
愉悦を、大いに感じていた。






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最終更新:2020年05月18日 22:22