喫茶店を立ち去るとき。件の歩荷の友人である男性は、恐ろしくかしこまったしぐさで。
ピッシリとした形のお辞儀を、歩荷と言う職業ゆえに体幹が鍛えられているのか。
頭を下げ切っても微動だにさせずに。
去り行く稗田夫妻に対して、きっと完全に見えなくなるまであのお辞儀を維持していただろう。
それぐらいにかしこまった姿であった。
あそこまでかしこまったお辞儀をした理由は、あの稗田○○にコーヒーを奢ってもらった。
等と言うその程度の理由ではないのは明白だ。
○○だって分かっている、きっと彼がやりたかったであろう。
あの嫉妬深いだけの連中を追い出すために動くことに対して。
あの稗田○○が背中を押しただけではなくて。
計画が上手く行くように協力までしてくれたからだ。八意永琳まで担ぎ出して。
「ひとまずは……か。完全解決にはまだまだ遠いが……時間は稼げた。だからと言って、この時間も果たしてどこまで稼げたかな」

後光が行くべき道を照らして、与えてくれたとすら思っていそうな先ほどの男性と違って。
○○はどうしても悲観的な見方を続けざるを得なかった。
どういう方向に口が裂けようとも、事態が好転したとは言えなかったからだ。
たしかに雲居と物部が極論から極端な行動に走り。
何名かが落命してしまうかのような、依頼人であるナズーリン
ひょんな事から合流した蘇我屠自子にとっての一番の懸念。
所属する勢力の名前に傷がつくという事態は、ひとまず。
――ほんとにひとまずとしか言いようがない――先延ばしにできた。
だが今度は雲居一輪と物部布都の。両名がじかに顔を合わせての衝突の危険が出てくるのだけれども。
しかもこの二人は、はっきり言ってただの人間よりもずっと強いし。どちらとも中々に、血の気が多い生き物でもある。
もしかしたあら時間を稼げたというのは、錯覚かもしれないなと。
とつとつと考えているうちに、○○はより悲観的な方向に思考を傾けたが。

「それでも、あなた。場合によっては時間すら稼げない例だって、いくらだってあるんですから。
それに依頼人の、上役にばれたくないという希望に叶うように動いているのですから。
あなたはとてもよくやっています。制限付きの中で動いているのに!」
○○が悲観的な分の反動とでも言うべきか
――だからと言って、○○が楽観的ならばそれに阿求は乗っかるが。
○○のやっている事は、現状を鑑みれば実によくやっている。ともすれば、この状況で○○以上にやれるなど。
そんなことがあり得るのか?とでも言いたげな程に、阿求は自らの夫である○○の事を褒めちぎっていた。
もっと突っ込んだ話をするのならば。○○は、稗田○○と言う存在は。稗田阿求の夫なのだから。しかも名探偵なのだから。
稗田○○のなすことと言うのは、良いかとても良い。どうあがいても悪く等ならない、ぐらいには思っていたと。
稗田○○には、断言できてしまえていた。

「――そうだね、阿求。幸い雲居と物部は、互いが互いにいがみ合っているけれども。意識的に接触は持ちたがっていない。
あの嫉妬深い連中を片付ければ、極まった行動に移る可能性は随分低くなった。
奇妙なことに、お互いがかち合わないように自然とそういう動きをしているのも。まぁ、有難いと言えば有り難い」
そして結局、阿求の楽観論と言うか。阿求の見たがる世界に、○○も意見を合わせてしまった。
いつもの事だ。
この事についてはもはや、論じたりするという気力どころか、必要性すら持っていなかったかもしれなかった。
ともすれば、○○のほうが阿求に合わせているのだけれども。
だけれども○○は、稗田阿求の事を愛していると断言できるのだから。
恋愛模様と言うのは、誠に一筋縄ではいかない絵柄であった。
ひとつ、言い訳じみたことを言うのであれば。
阿求の見たがる世界の中心には、絶えず○○がいるからだ。
それが○○の心を慰めて。
――常人から見れば阿求は、慰めるどころではない程の金と権力を乱舞させているが――


だがこの時の○○はと言うと、不覚にも。
阿求の見たがる世界の中心には、絶えず○○がいるという事柄の。あまりにも危険な部分が、全くもって見えていなかった。
それは、過去に起こった。○○の個人資産――少なくとも阿求はそう認識している、阿求からのお小遣いだとは考えていない――。
そいつが横領された際に、結局○○は恩を売って、自分の目が黒いうちは都合よく使える協力者ぐらいにしてやって。
使い倒してやる、それだけで済ませる程度の落着すら見出してやる事が出来なかった。その悔恨がいくらかはあったから。
稗田阿求と言う存在が、自分は稗田○○であるからいかに危険な存在か。実に巧妙に、見えなくなっていたという事実を、忘れていた。

○○が、阿求が。つまり稗田夫妻が仲睦まじく。待たせている人力車に乗った時であった。
稗田夫妻が往来を、調査のために歩き回っていると知られたくないから変装しているからと言うのも。
この場合は不利な方向に働いてしまった。
もっと言えばデートが楽しかったから阿求ですら周りが見えていなかった。
物々しさを阿求が嫌がって護衛は必要最低限で済ませてしまった。
その数少ない護衛のうち一人も、○○が八意永琳に対してしたためた手紙を、永遠亭に届けるために行ってしまった。
そもそもが、ここはおてんとうさまが降り注ぐ天下の往来であるから、人通りも多くてそもそも限界があった。
数え上げればきりがないけれども、何か悪いことが起こる場合と言うのは往々にして、不幸なめぐりあわせと言うやつが。
幾重にも絡み合ってしまうのは、古今東西で変わることはないだろう。

「なぁ。小銭で良いから恵んでくれよ」
恐らくこの身なりの小汚い上に、はっきり言って臭い男も、相手が稗田夫妻だと知っていたら近づくどころか逃げていただろう。
けれども今、稗田夫妻は変装をしてしまっているし。しかもこの変装がなかなか上手かったのも、皮肉な結果を招いた。
そう、接近を許してしまうというよりも、○○の視点では稗田夫妻だと気付いてもらえなかった。
そんな結果を招いてしまった、稗田夫妻だと分からせていればお互いに荒事を回避できたはずなのに。


この時稗田○○の表情は、大いに凍り付いてしまったが。
それは決して、この物乞いに対する嫌悪感などではなかった。
物乞いなんぞ、はっきり言ってこの程度の存在なんぞ。
稗田阿求にとっては路傍の石よりも軽い……程度で済めばどうとでも出来る。
ここで最も重要なのは、今この時は稗田阿求にとっては最愛の存在である、○○とのデートに赴いているという心持だという事だ。
それを邪魔された上に、阿求にはデートを邪魔された場合に苛烈になる大きな理由が存在している。
無論、今日や明日にいきなりと言う事は無いけれども……稗田阿求は体が弱い。
当代である九代目は、永遠亭と言う史上最高の医療機関が常に気にかけているゆえに。過去八代よりは、ぐらいには考えていいけれども。
それでも短命の業を、はたしてどこまで取り除く事が出来たか……
それゆえに稗田阿求は、自分の短命の業に抗うように濃い人生を望んでいた、その顕著な例が○○の立たされている舞台の存在だ。
即興劇のような物ゆえに、台本らしきものが阿求の頭の中にあったとしても。それら全部を実行、ないし実現はできないとはわかっている。
けれどもこの、身なりの汚い物乞いの存在は。どれほど台本を練り直そうとも、出てこない存在だ。
増してやデート中には。

しかもこの物乞い、やりなれているとでも表現しておこう。
声をかける向きをしっかりと考えて動いていた、○○の座っている方の窓、男の方に声をかけるのではなくて阿求の方に声をかけた。
なるほど、か弱い女性相手の方がやりやすいのは確かにその通りであるが。
残念ながら稗田阿求のか弱さは、あくまでも体力面と見た目だけである。
○○は阿求が一体何を持ち出すか、全く分からなかったが。致死的な何かをするのを、○○はしっかりと感じ取ってしまった。
御者である人力車の引手なら……多分、返り血がこちらに向かう可能性を忌避するはずだ。
しかし不覚にも、○○はすぐに阿求を止める事が出来なかった。こういった荒事をも望まれている事を、重々自覚している稗田家の奉公人の方に。
屈強な奉公人の方に、残念ながらほんの少しだけではあるけれども、○○も意識を向けてしまった。
けれどもその、ほんの少しだけでもあれば良いのだ。
阿求の手に拳銃が握られているのが見えた。五日の時に、阿求が貸してくれたものよりも小さい。
阿求の小さな手にも合うように、特別に作られた小型拳銃だろうか?こんなもの、幻想郷のどこで製造されているのだ?
だがそれよりも重要なのは。拳銃を出して、引き金を引く程度の時間は。刃物で切りかかるよりもずっと、短くて済むのだから。
ましてや弾道の射線上に○○はいない。おあつらえ向きだ!つまり最悪だ!!


「おじさん」
鮮血が辺りに飛び散る場面を想像してしまい、またそれを止めれそうにないと悟ってしまって。
○○は思わず逃げに、目をつむってせめてまともに真っ赤なものを見ないようにしたが。
運は向いていた。○○にとっても、何よりもこの物乞いにとって。
火薬が弾けて、鉛玉が飛んでいく音の代わりに洩矢諏訪子の声が聞こえたからだ。
「分かるよね?」
○○はやや震えながら目を開けたら、諏訪子の手が阿求の持っている拳銃をしっかりと握りながら。
もう片方の手には、これもまたどこで手に入れたのだろうか。明らかに上等な皮で持ち手を保護した。
刃と言うよりは、兵士が使うようなナイフを持っている諏訪子が、物乞いに来た浮浪者の首筋にしっかりとナイフを当てていた。
前後左右、諏訪子がこのナイフをどこに引いてもこの浮浪者の首筋はかっ切られる。
それはナイフの持つ冷たい感触を首筋で感じ取っている、この物乞いが一番理解しているだろう。
「分かってるなら、そのまま後ろに下がって。もう戻ってくるな」
物乞いは悲鳴やお慈悲を等と許しを請う言葉はおろか。
息遣いですらほとんどせずに後ろに下がって。そのまま雑踏の中に紛れて、見えなくなった。
もう二度と会わないことを願うばかりだ。彼の命のためにも。


「あぁ……」
物乞いが完全に見えなくなってから、諏訪子は肩の力を撫でおろしながら。ナイフを懐に直した。
「いやぁ、助かった。こんなもん持ってるけれどもさ、血で濡らす回数は少ないほうが良いからね。
善悪はともかく、傑物相手なら勲章ものと思えなくもないけれども」
諏訪子は愛用のナイフが、あんな矮小な存在の地で汚さずに済んだことを喜ぶ『風』な言葉をつらつらと述べていたが。
良かったの意味が、そもそもの部分で死人が出ずに済んだことを諏訪子が喜んでいるのは、間違いなかった。
しかしその事を掘り下げる事は、別にしなくて構わないどころか。やったらこじれるだけだ。
「何か?そのご様子だと、何か仕入れてきてくださったかのように思いますが」
「ああ」
間違いなく、諏訪子が一番ほっとしたのは。○○がさっきの事をもう完全に放り投げる方向で、話を進めた時だ。
「すぐに星熊勇儀のところに戻らなきゃだから、手短に話すね。
物部布都は明らかに、雲居一輪の事を見下している。それは雲居一輪だって、物部布都の事を目の前で成金仙人と呼んでいるから。
同じように見えるかもしれないけれども、質と言うか見下し方が全然違う。
物部布都は明らかに、雲居一輪の事を低い階級、卑しさの強い存在としての見下し方をしている。
ともすれば湯女(ゆな。銭湯にて、代金をもらい男性の体を洗う女性。江戸では殆どの銭湯に存在した)
と同じか、あるいはもっと酷い見方を雲居一輪に対してやっている」
しかし鮮血の場面を見ずには済んだが、新しい予告を突き付けられた気分であった。
「雲居一輪は、物部布都からそこまで下劣な存在だと思われている事には?」
「幸い知らない。さすがに直接言えば、どう考えても戦争が始まるぐらいの思慮は、あったようだね」
ひとまずはとすら思えない。そう思っていること自体が問題なのだ、二人の憎しみあいを考えれば。
何より雲居一輪は、物部布都の目の前で成金仙人等と言って、けなしている。
物部布都のほうが雲居一輪に対して、もっとひどい事を考えて自らを抑えているとはいえ。
目の前でけなされ続ければ、いずれはその心の防波堤も決壊してしまう。
そうなった時、もはや依頼は失敗したのと同じだ。
それに、共通の敵がいなくなるのが決まっている以上。
雲居一輪と物部布都は心置きなく憎しみ会えるだろう。

「なるほどつまり……物部布都は件の歩荷を。もっと素晴らしい存在に引き上げて。
権勢も威光もある姿にして、その隣に誉れ高い仙人様である自分を配置して。
雲居一輪の入る隙と言うのを……せいぜいがお手伝いさんぐらいにまで陥れるという事か」
「もっとひどい事、物部布都は考えてそうだけれどもね――」
諏訪子が少し、阿求の方を気にしたが。情報は全部伝えたほうが、阿求の機嫌が悪くならないとすぐに思い至り。
「物部布都は、雲居一輪の肉体を。肉付きが良すぎて邪魔だと、引き締まってないだとか散々に言っているが。
つまり、物部布都も認めざるを得ないんだ。雲居一輪の肉体的魅力を」
けれどもこの情報を聞いたとき○○は、思わず阿求の機嫌を確認したが。
幸いなことに大丈夫であった。

「じゃあ、私は星熊勇儀とまだ約束があるし。遊女を遊びに連れていく用もあるから。帰るね」
けれども諏訪子は、ナイフまで持ち出してすぐに。稗田阿求の目の前で、危ない話をせねばならない息の苦しさに耐えかねて。
星熊勇儀を引き合いに出して、すぐに退散してしまった。


人力車が動いている間、○○は目を閉じて考え事にふけり。阿求はその様子をうっとりしながら見ていた。
やはり時間は決してこちらの味方ではなかった。
共通の敵がいなくなれば、憎しみあいは加速するのみ。時間稼ぎはさほど出来ていないどころか。
むしろ爆発までの時間を短くしてしまったのではとすら思う。
――だけれどもだ。
だけれども、名探偵の役柄を与えられているとはいえ。稗田○○は歩みを止めてはならないのだ。
依頼された以上、そしてそれを引き受けると言った以上は。




あれから数日どころか。10日以上の日数がたってしまった。
件の歩荷、つまるところ雲居一輪と物部布都の両名から同時に、色濃くて劇物ともいえる愛を抱かれているあの男。
かの男性が、職業上の才能に恵まれている事は。
雲居にせよ物部にせよ、かの男性が評価されることに喜びを見出しているようだから。重畳ではあるが。
世の中の動きと言うのは、外でも幻想郷でも大差ないどころか。
そうは言っても箱庭ゆえに、狭さがむしろ煮詰めるという具合を引き出してしまい。
嫉妬に狂って、言の葉において愚痴をいうだけならばまだしも。山に入るのが日常ならば、自らにそういうことをなされた場合。
それは命の危機にはつながるという事ぐらい、分かっているはずなのに。と言うよりは、分かっているからそんな悪辣な事をやったのだろう。
件の歩荷の装備に対して。
自分より――しかも真っ当に――評価されているからと言う、不当な動機から。装備に対して日常的な嫌がらせをなしていた。
月の頭脳、八意永琳にすら匙を投げられる始末の。あの連中に関しては。
○○が八意永琳に、証拠集めを依頼して。件の歩荷の、真っ当な友人に対しても○○が背中を押したこともあり。
あの連中はすでに、歩荷の職はやめて、そうであるのだから山の近くに居つく理由もなく。すでに離れてくれた。
阿求にお願いした通り、ちょっとした日銭を稼げる程度には仕事にありつけるように周りを調整しているから。
雲居一輪と物部布都が、爆発するとすれば一番の原因であろう、あの嫉妬深い連中の影と言うやつは。
既にあの、件の歩荷の周りからはすっかりと消え失せてくれているし。
先日に背中を押した、件の歩荷の友人は誠実そうだったから。やはりその周りも誠実なのは、何よりの事であった。
結論から述べるならば、あの歩荷の周りの空気や雰囲気と言うやつは。もとからあの歩荷は篤実(とくじつ)で実直だったから。
自然と周りの人間も、そういう信頼に足る存在であったとはいえ。目の上のたんこぶと言うやつがすっかりと消えてくれたこともあり。
何の憂いもなく、毎日山に入っていっては。歩荷の仕事に精を出すことが出来ていると、阿求が使っている手の者たちの調査報告からも。
間違いなく確かであると、断言する事が出来ている。それ自体は、重畳である。

しかし、件の歩荷やその友人たちからすれば。それだけでもうこの話は、大団円を迎えたと言っても構わないけれども。
依頼を持ち込んできたナズーリンにしても。
全くの偶然とはいえ、実はナズーリンと同じ懸念を抱いているがゆえに合流できた蘇我屠自子にせよ。
そして何よりも、依頼を受けてしまった稗田○○。これらにとっては、今の状況は何にも喜べるところがなかった。
依頼人にせよ、稗田○○にせよ、今の状況は時間稼ぎに成功した以上の価値は、存在していないという所では意見の方、一致していた。
件の歩荷の身の回りこそは、確かに安定させる事が出来た。
そのおかげで、雲居もしくは物部――と言うより二人ともが――極論に走る可能性は消す事が出来た。
あの二人は、自分の深い愛を証明するために、より過激な方向に行くだろうと言うのは。
少し考えればたどり着く結論であるから。
それが外に向かわなくなったのは、ナズーリンは命蓮寺、蘇我屠自子は神霊廟の。
評判が、殺人事件で傷がつく可能性は減じる事が出来たけれども。
直近の懸案がなくなったという事は、雲居と物部はお互いを憎みあう心の余裕が生まれたことを意味していた。
頭痛の種を取り除いたまた更に向こう側に、同じぐらい大きな頭痛の種が転がっていた。


しかもこの状況が一歩でも間違えば。
それは二大勢力の正面衝突になりかねない、しかも理由が男の取り合いなどと言う物凄く情けない理由だ。
ここで正面衝突すれば、衝突した理由の情けなさから、好奇心から大きな耳目を引くだろうし。
天狗の新聞はあることない事書き連ねるのは必定。
そして普段よりもずっと、強烈な紙面を書き連ねるであろうは。
雲居と物部から脅されて、紙面の一部をあの二人の好みに合うように改変させられている。
射命丸文であることは疑いようがないし、なお酷い事に、射命丸の文々。新聞は結構人気があるから、巷の噂を牽引する力があった。
稗田○○は、射命丸が雲居と物部から脅されている恨みを爆発させることをきっと恐れているだろうと考えて。
彼のとりなしによって。
ナズーリンと蘇我屠自子は射命丸文に対して、菓子折りの大きさで現金の入った封筒を隠して、彼女に渡したが。
稗田から既に大金を渡されているが故の、これ以上の施しを受けるは賢明ではないという処世術か。
あるいは、ここで受け取ってしまえば恨みを水に流す必要が出てくるという考えかは知らないけれども。
射命丸は、菓子折りこそは受け取ったが。そこに張り付けられていた現金の入った封筒はと言うと。
ナズーリンと屠自子の目の前ではがして、突き返されたと。
稗田邸にて、結果を話すために帰ってきた折に、二人ともがうなだれながら答えていた。

しかしながら。ナズーリンとの蘇我屠自子の両名には、誠に申し訳が無いけれども。
依頼を完遂させようとしている稗田○○にとっては、射命丸周りの事は、枝葉の出来事であった。
だから○○は今日も、穏当で妥当な落着点を探すために。ナズーリンから全部借り上げている、ネズミを使って。
件の歩荷の周りを、つまり雲居一輪を、そして物部布都を調べ続けていた。
そしてたった今も、時刻にすれば午前の11時を少しだけ回った折に、ナズーリンの所のネズミが報告書を。
今日だけでもこれで、三回目の報告書提出であった。
しかし○○の表情は全く浮かない。
「ありがとう。それじゃ、予定通り引継ぎをしてくれ」
ちゃんと間諜として動き回ってくれている、目の前のネズミに、食べ物を分け与えながらお礼を言えるけれども。
はかばかしく無いことぐらいは、○○の表情を見ずとも声だけで十分理解できるから。
本当に、申し訳なさそうにかしこまりながら。○○から渡された食べ物を胃袋に押し込んで、一礼して立ち去った。

本当は、○○もネズミをあちらこちらに散らせながら。自分自身も外に出て調査、件の歩荷の近くをうろつくだけでも良いから。
周りを知っておきたかったが。○○は残念ながら、稗田阿求ほどに豪胆ではなかったという事だ。
もう10日以上も前の話のはずなのに、○○の脳裏にはまだ色濃く。
妻である阿求が、拳銃の引き金を引くことに全くの躊躇を見せていなかったことが思い起こされるのだ。
無論、阿求と距離を取りたい等とは、一切考えていない。
○○の恐怖は、自分がどこかで何らかの不利益。特に今は、あのような物乞いに絡まれてしまう事を恐れていた。
別に、物乞い自体は怖いとは思っていない。あの時、物乞いの首筋にナイフを突きつけた洩矢諏訪子ほどではなくとも。
○○だって、心配性の阿求から色々な武器を。護身具としてもらっているから、それで横っ面をガツンとやればいい。
けれども果たして、稗田阿求がその程度で許すだろうか。
いや、多分許さない。
だから、○○としてはどうにも。外出しようという意欲が沸き立たないのである。
なお厄介なことに、稗田邸に引きこもっていても。ほとんど所か、足りない物を思い浮かべるのが難しい程に。
何でも手に入るし、届けてくれるし、奉公人が手伝ってくれる。
その気になれば、自室のある一点から全く動かずとも、○○は一日を何の不自由なく過ごす事が出来るだろう。
呆れかえるほどに○○は、阿求の背中におぶさって生きていた。

「あなた」
多分もう読まないであろう報告書を、直したすぐに。待ちかねていたかのように、阿求が声をかけてくれた。
「何だい?」
○○も自分でもわかるほどに、現金な物であった。
まったく動きがない状況に、焦燥感を覚えていたが。阿求から声をかけられたら、少しばかり気分が慰められた。
「ナズーリンさんが会いたいと……」
しかしちょっとした報告ならばネズミを使えばいいのに、ナズーリン自らが来るという事は。
「この依頼、取り消したいと。何かがあったようですね」
案の定、ロクな事ではなかった。
だが、次善の策はある。
「阿求、カラスを使う。天狗に連絡を。ナズーリンさんが何も考えなしにとは思えない……あるいは察してほしいのか」
射命丸には申し訳ないが、また協力してもらうしかない。ナズーリンさんの真意に関しては……
何もないほうがもはや困る。





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最終更新:2020年05月19日 22:54