依頼人であるはずのナズーリンが、それも懸案事項はまるで解決していない。怪我で済んだとはいえ、厄介な連中だったとは言え。
雲居一輪と物部布都は、比喩抜きでの歩荷たちにとっての命綱であるはずの道具類への細工が施した。
その厄介な連中は、○○が、『稗田」○○が。手を回し、助け舟も出してやって雲居一輪と物部布都が好いている、件の男に嫉妬している。
あの厄介な連中を、遠ざけることには成功したが。それは状況が次の段階に進んだ、あるいは沈み込んだとも言える。
共通の敵が消えたという事は、戦友などとは間違っても考えるはずのない。雲居一輪は物部布都に対して面と向かって、成金仙人と罵り。
物部布都も、さすがにそれを言えば戦争になると理解しているが。腹の底では雲居一輪の事を、色情の権化とも言うような表現を使ってけなすのを。
ともすればそのけなす対象は、実に魅力的な聖白蓮の肉体にも向かっているというのは。
それに関しての聞くに堪えない表現や言葉の数々は、遊郭街に足しげく通っている諏訪子からの報告書で。知っているのだ。

その中身は一番に受け取っている稗田○○だけではなく、依頼人であるナズーリンや同じ懸念を共有している、蘇我屠自子も知っている。
そう、ナズーリンも理解しているはずなのだ。共通の敵がいなくなってしまった以上、雲居と物部は。
互いが互いを憎しみあう余裕というやつが生まれてしまった、件の歩荷の周りは実に、清々しい程に安定して。
懸念と言う奴は、八意永琳にすら匙を投げられた嫉妬深い連中が立ち去ったおかげで、何も思いつかなくなってくれた。
けれどもそれが第二の、依頼人と名探偵たちにとっての新しい懸念。雲居と物部の正面衝突の可能性を生じさせた。
雲居と物部が、互いが好いている男の敵に、致命的な一撃や凶行に走る可能性よりも。
ずっと鮮烈で危険な可能性が持ち上がったのだと、賢将とまで言われているナズーリンには分かっているはずなのに…………

「この依頼、取り消したい」
客間にて、依頼先である、また名探偵である稗田○○が――無論、横には稗田阿求――前に座るや否や。
「急な話で、実に失礼な物言いだというのは十分に理解してる。けれどもこの依頼、もう、良いんだ。調べなくても
その……こんな幕切れで、申し訳ないが……その。もう……」
確かに座るや否や、ナズーリンはこの依頼をこれ以上は調査しなくて良いと、言おうとは努力していたが。
大きな引っ掛かりが、明らかに存在するような言い方であった。
何より○○としても気になるのは。
「調べなくて良いと申されても……理由が分からなくてはね。真っ当な理由をお聞かせ願えませんか?」
そう、理由を全く放してくれない、ナズーリンの態度というか。
理由を言わない理由、これが○○からすれば最も気になる部分であった。

「賢将らしからぬ話の切り口ですね……急な話だというのに。その理由を説明しないのは。それとも、理由を説明『できない』のですか?
説明できない、それ自体が、理由の一部なのですか?」

○○はつらつらと述べながらも、ナズーリンの表情をつぶさに確認している。
もちろん、それと並行してちゃんと、阿求の顔を確認している。ナズーリンの体躯は小さいほうだが、健康体であるから阿求よりはずっと。
ずっと、肉体的魅力は存在しているからだ。
幸いにも阿求はまだ笑ってくれていた。依頼しておいてそれをもう良いという、大きな無礼よりも。
阿求にとっては、依頼人も依頼人が心配している事柄も、はっきり言ってどうなろうとも興味がない。
唯一の興味というか気にしている事は、自分の夫である稗田○○に対して、良質な依頼や稀有で面白味のある謎解きを、与えられているかどうか。
そして幸い、今回のナズーリンの行動に対して。○○は苛立ったり、ましてや怒りを覚えたりはしていない。
だから阿求の顔に、危険な兆候や変化は見られない。むしろ機嫌がよさそうとまで言えた、夫である○○にはそれぐらいの違いは理解できる。
どちらにせよ、大丈夫そうで何よりだった。
おずおずと阿求の顔を見ているナズーリンも、一番危ない橋は渡れていそうだと言う事で。肩の力は少し和らいでいた。
無論。稗田○○ではないナズーリンは、今日この場を乗り切り、自宅に帰るまでは安心できない。

「理由は、説明……『しない』とは思いません『出来ない』のですよね?こんな急すぎる話、礼儀もなっていない話を。
ナズーリンさんが望んでやるとは思えない」
「私は……」
無言のままであるのは良くないと――何より稗田阿求の心証に――思ったであろうナズーリンは、口を開こうとしたが。
たった一言だけで、再び沈黙が生まれてしまった。もしかしたら何も言わないよりまずいかもしれないと思い、ナズーリンは冷や汗をかくが。
ナズーリンの口は空回りを続けているだけで、『私は』以降の言葉は全く出てきてくれなかった。
「ふぅん……」
さすがに阿求が、少しばかり焦れてきたが。夫である○○は、まだ興味津々でナズーリンの方を見ている。
ナズーリンの行動に対する興味、好奇心から来る疑問、これらはまだ尽きていない。だから、まだナズーリンは安全であった。

しかしこの状況を長く続けてはならない、何よりこの状況は稗田○○の興味の持続のみにかかっている。
それぐらい、ナズーリンは理解している。だから、ナズーリンは何かを言わなければならないのだ。


「その……私も。ネズミたちを世話する必要がある。ネズミたちの親玉だからというのもあるが……でも、その……
ついてきてもらった、ついてこさせた責任というのがあるから……ちゃんと、ちゃんとね……五体満足で。
そう、ネズミの妖怪である私が使役しているから。あの者たちだって、普通のネズミではないことぐらいは理解しているだろう。
だから、野生のネズミとは全然違って……そう!家族と言う物だって、持っている者は珍しくない!
この間も、結婚したり子供に恵まれた者が。いるんだ!その者たち、使役している者たちに対する責任は!
むろんのこと、家族たちへの責任も私には存在している!
飢えないように、怪我しないように、致命的な何かが起こらないように努力する責任がある!」

そしてナズーリンは何とか、頑張って色々な事を言ってくれたが。
しかしながら、依頼を取り消すことに対する理由は。結局一言も出てこなかった。
このナズーリンの言葉からわかるのは、あくまでも大将としての責任感がとても大きいというのが分かるのみであったが。
それすらも、どうにかこうにかして、ひねり出したと言う物であった。
しかし○○は、その一言一句を傾聴しており。愛用の帳面を開いて、気になった部分をいくつか書き留めていた。
阿求からは十分見れる位置だったし、彼女が帳面の中身を覗こうとも○○は、むしろ見せてくれるが。
ナズーリンにはそんな事は出来ない、○○の方から見せてくれない限りは、帳面の中身を見る事は許されない。
しかし中身に書かれている事いかんによっては、その後が運命づけられてしまう。

「ちょうど……ね。さっきも言ったけれども、最近結婚した配下のネズミには、もう子供もいるんだ。
人間でいえばまだ乳飲み子だが……ずいぶん可愛がっている。夫妻ともに、すっかりとのぼせ上って……
まぁしかし、ほほえましい姿ではある。そういう姿を見るとね、私はこいつらの大将なんだからと、初心に戻る事が出来て……
その……そう。旦那さんに何かが合ったら、私は……私は…………きっと、恨まれる」
無論、ナズーリンとしても色々と考えて行動している。しかし考えても考えても、制限が存在。
あるいは、どうしても優先しなければならない物がある。

「私は連中の大将だ。連中の命に責任がある。無駄死にだと分かっているのに、やる事は出来ない」
この場に来て最も、ナズーリンは言葉を詰まらせたりすることなくナズーリンが。
ネズミたちの大将である、賢将ナズーリン

依頼人である命蓮寺の構成員、ナズーリンではなく。賢将ナズーリンとして発言して。
「……以上だ。私は、もう帰ろうと思う。賢将、つまりは将軍だから。冷徹な判断が求められることもあるけれども
しかし……無駄死にだけは…………」
帰ると言ったのに、立ち上がったまでは良いが。色々と、まだ言いたい事はあるけれども。
さりとて、何かを気にしているのは明らかで。明らかに何かを、ナズーリンよりも大きな何かからの視線。あるいは影だろうか。
なんにせよナズーリンは何かを気にしている、まるわかりであるどころか。
○○の目には、演技性が強すぎるというべきか、正直わざとらしいとも取れたが。
察してくれと言わんばかりの動きと考えれば、ナズーリンの動きにもいくらかの理解は可能であるけれども。
本丸ともいえる、『何故』という部分が分からない限りは。理解も半ば程度しか与えてはやれなかった。

「まぁ。ナズーリンさんにも、色々とあるのですよね?」
やや疑問文形式というのには、喋ってから○○も不格好だなと思ったが。
「あるんだ」
ナズーリンはやはり必死であった。即答であるのが、一子であることの何よりの証拠と、捉える事が出来るだろう。
「なるほど」
必死さをナズーリンから感じ取った○○は、これ以上は聞き取ろうとするのは無理だろうなと、諦めたわけではなかったが。
ナズーリン本人の自発的意思は、当てにできないとだけは考えるしかなかった。
「分かりました、ナズーリンさん。ご足労、どうもありがとうございました。少しは分かりましたよ、まだ何となくの段階ですが。
まぁ、悪くはない」
○○が手を前にやって、退室しようとするナズーリンにもう良いよと促した。
だがナズーリンは、最終的には退室したものの。立ち上がっているくせに、出ようとするのを逡巡してしまったが。
その逡巡する様子に、○○はナズーリンの隠している何かが。彼女の持ちうる背景に対する、賢将ナズーリンという立場。
それに対して致命的な何か。という推測に関しては、かなりの確度で正しいなという事だけは実感できた。
今は、それで良しとした。


「それで、どうします?私は、○○。あなたがまだこの状況を、面白いと思っているのならば。それで良いのですが」
ナズーリンが立ち去ってから、稗田夫妻の部屋に戻ったら。阿求はすぐに口を開いたが。
いささか物騒な気配がするのには。○○も苦笑を混じらせねばならなかった。

ここでナズーリンが無礼であると――実際、無礼だから余計に困る――一言でも漏らしてしまえば。
……事情の存在は、さすがに阿求も気づいているだろうから。死んでしまう事はないだろうけれども、『清算』は求められるだろう。
「何も考えていないわけではない……まぁ、ナズーリンさんは面白くないと思うかもしれないけれども」
○○はあくまでもナズーリンが不快感を感じるだろうなと、そこを気にしていたが。
阿求は、○○が何かをするつもりだというのを聞いて。実に機嫌がよさそうに笑みをこぼしていた。
――ナズーリンに対するいら立ちが、○○自ら始末をつけたという風には、阿求は見てくれているだろう。
ならば、それでよかった。少なくともこれ以上はひどくならない。
「射命丸は協力してくれるかな……呼んだから来るだろうけれど、いい返事が聞けるか。ただでさえ雲居と物部から、介入を受け続けているのに」
ならば○○が次に気にするのは、射命丸の協力が手に入るかどうかであるが。

「あら、私たちはあの二人とは関係ありませんよ。ごねるならお札を叩きつければ良いんです。天狗ならそれで十分でしょう」
阿求は随分ひどい事を言っている。天狗への評価が低いのか、それとも相手が射命丸文だからなのか。
もっと言えば、大金で囲われているという事それ自体が、射命丸の危機感を膨らませているのだけれども。
しかし、何も言わないし、何も聞かないではおいた。
「まぁ、そうなのだけれどもね」
○○はその一言だけで済ませて、ちゃぶ台に乗っているおまんじゅうを食(は)んで、時間を稼いだ。


「奥様、旦那様。お呼びになっていた天狗の射命丸文、来られましたので客間にお通しいたしました」
さすがに稗田阿求からの手紙――ろくな言葉を選んでいないだろう――が来れば、射命丸としても無視は出来なかったし。
時間を稼ごうにも、稗田の家格を考えれば、それだって不敬にあたると。もっと上の天狗から、何か言われるだろう。
結局来るしかないのだ。
よくもまぁ、今更だと上白沢の旦那からは言われてしまいそうではあるけれども。こんな荒っぽい生き方が許されているものだ。
例え稗田の人間、それも九代目であると考えてもだ。
――やはり、阿求に課せられている、阿礼乙女に課せられている、短命という業がそれを許されているのだろうか。
短命という業が、周りからの甘い視線や態度を誘発しているのだろうか。
――――そしてそれに付き合う○○という人格にも。それは適用されているのだろう。
今日や明日という話ではないけれども、きっとどのような謝罪文を書こうとも。
一番の友人である上白沢の旦那からは…………いっそ暴れさせてやってもいいかもしれない。何をかことも許されるとは思っていないから。
「ああ、すぐに行く」
周りの人間や妖から、頭痛の種と思われているのは、きっとこういう所なのだろうなと思いながら。○○は返事をした。
今だって、射命丸の事は殆ど考えていなかった、友人の事ばかりを考えているのだから。
だが一番悪いのは、この状況に気づいているのに矯正しようという気が、まるで起こらない事だろう。
このまま最期まで行こうと、これはもう決めてしまっている事だ。
だから自分は存在を許されている、稗田阿求からの狂わんばかりの愛の源泉も、これだからだ。



「やぁ、射命丸さん」
客間でみた射命丸はやはり、げっそりと言うか、うんざりと言うか。どちらにせよロクな事にはならないと、分かっているから。
始まる前から疲労感に苛まれていた。
「時間が惜しいし、射命丸さんも物事は素早く収めたいはずなので。単刀直入に頼みごとを言いますよ」

ナズーリンさんの配下、そのネズミを。ひとまず二、三匹ほど捕まえて来てくれませんか?取引の材料に使いたい」
射命丸文は、少し泣いていた。







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最終更新:2020年05月19日 23:08