上白沢慧音が自らの夫の方によって来た。
別に、それだけならばよくある事だ。稗田阿求と違って、幸いにも彼女は肉体的魅力に対して、非常に恵まれているから。
よくそれを武器にして遊んでいるし、旦那が相手であれば遊ばれることも大歓迎であった。
しかし今はお日様が高くのぼっている時間帯であるので、そういう事は『あまり』ないし……何より上白沢慧音は手元に、封書を。
一目見ただけで、高級品だと分かる封書を。チラリと蜜蝋での封印も上白沢の旦那の目には見えた。
そこまでやれる存在の中で、自分に手紙を『送り付けてくる』者は、一人しか思いつかなかった。
「はいはいはい……人力車の気配はしなかったがな…………」
稗田阿求だ、彼女が名探偵である稗田○○の相棒として。登壇を強制する以外には、思いつかないのだ。
上白沢の旦那は、諦めと苛立ちの感情を均等に混ぜ合わせながら、立ち上がって外出用の衣服に手を取った。
「ああ……運悪く、お手洗いにいるときに人力車が来たんだ。そう、もちろん稗田だ」
「人力車が見えると見えない、これだけで心の準備がまるで違う……」
上白沢の旦那はぶつくさと言いながら、着替えをしている。
彼はまだ稗田阿求からの手紙をまだ確認していないし、実は慧音ですらそうであったのだが。
この手紙を持ってきた、稗田家の奉公人が人力車と一緒に来た時点で。あの者が上白沢の旦那を、ともすれば両方に来いと言っているのは、まず間違いない。
だから上白沢慧音にしては非常に珍しい事だが、彼女ですらこの手紙をまだ、ちゃんと確認していなかった。
「ああ、私も誘われている」
だから今回、稗田阿求が彼女の登壇も『命じた』事については、今まさに知ったのであった。
「はっはっは……誘われている、ねぇ?」
上白沢の旦那は思わず皮肉気なと言うよりは、ここでのこれがせめてものガス抜きともいえるぐらいに。攻撃的な表情を見せていたが。
「……大捕り物があるそうだ」
「それは○○が言ってるの?それとも稗田阿求の文章のみの情報?」
慧音は思わず、自分の旦那からのこの指摘を中々に含蓄のあるものだなと感じ入ってしまった。
――洩矢諏訪子辺りが見ていれば。上白沢慧音だって自分の旦那の意見に、間違いなど無いと、無意識に信じ込んでいると。
その一点を見つけて、腹の底で笑ってくれたろうけれども。
残念ながら、今この場には上白沢夫妻しかいない。
稗田阿求の○○に対する愛情を考えれば、○○が何気なく期待した程度、何か見つかればいいな程度の発言でも。
増してや今は、
ナズーリンから一方的に依頼の取り消しが――無論、受け入れるわけなかったが――なされたのを最後に。
残念ながら○○の調査は停滞期を迎えてしまい、射命丸を巻き込んであっちこっちにカラスを飛ばしてるな、程度の気配しか上白沢夫妻も理解する事が出来なかった。
稗田阿求にとって、名探偵である稗田○○が獲物をかぎ分けてとびかかる、それこそが一番の娯楽である。
そう考えれば、稗田阿求は一番の娯楽から遠ざかってしまい、飢えてしまっている。
そんな中で、○○が動きを見せればなるほど確かに、大捕り物だと阿求が騒ぎ出す可能性も多分に存在していた。
「まぁ、行けば分かる――厄介なのは、大したことなければがっかりだけれども。ほんとに大きくても、苛立つだろうってところだ!」
だがこの話がどちらに転ぼうとも。稗田阿求直々のお願いに対して、断るという選択肢は存在していない。
天狗の射命丸ですら、唯々諾々と従わなければならないのに。ならばたかが寺子屋の教師夫妻なんぞ……乱暴な言い方だけれども、それが真理であった。
「やぁ。来てくれたね、ありがとう」
稗田邸の門前で、稗田夫妻は待っていてくれた。以前の事があるので、上白沢の旦那はやや恐々と稗田阿求の服装を確認したが。
幸いにも洩矢神社に射命丸を呼びつけた時とは違って、重装備に重装備を重ねたような、耐寒装備ではなかった。
そうであるのだから、おしゃれにも気を配る余裕と言う物が存在している。
山を登り、洩矢神社に向かった時と比べて随分と機嫌が良いのは、おしゃれが出来るという部分を、無視する事は出来ないだろう。
どうやら今回の話は、人里の内部だけで済んでくれそうであるので。そこに関してはホッとしたが、裏を返せば稗田の庭で何かやるんだ。
「今なら、件の男は外に出ているから。はちあってしまう可能性はない、乗り込むには絶好の機会だ」
ほらな!と上白沢の旦那は思って、眉が少しばかり吊り上がったが。もういい加減慣れた、眉が吊り上がってもまだ笑顔の範囲内であった。
ただし、皮肉気なと言う補足は、絶対につけなければならない笑顔だけれども。
件の男の家に到着した○○は、実に手慣れたものであった。
懐から初めて見る、歯に衣着せずに表現すればよく分からない工具を取り出してきて。
その工具を、玄関のカギ穴に突っ込んだかと思えば。
「ふんふふ、ふんふふ――」
鼻歌を歌いながら、ガチャガチャと手先を動かして。ものの1分だって経たないうちに。
「開いた。もっと高い鍵に交換しないと……雲居と物部のどっちに頼んでも、資金を出してくれるだろう」
そんな言葉でうそぶきながら、玄関扉を開けてしまった。
いったいいつのまに習得したのか――習得した『場所』は稗田家だが――○○は件の男の家に招き入れるかのような態度でおどけていた。
少し癇に障る気はしたが、今のこれも含めて稗田阿求の思い通りに、大舞台を用意してくれた返礼として稗田○○は行動しているのだろうかと考えたら。
癇に障ると言った感情はすぐに消えて、○○の事を哀れむような感情に変わった。
一度、稗田○○からではなくて○○という人格に対して、語り掛けておきたいと考えたが。
○○がどこにいようとも、稗田阿求が手の物を使って。護衛と監視を行わせているはずだ。
聞いてみたいという感情まで消えたわけではないが、不可能かなと言うあきらめの感情も同時に出てきた。
「で、何をするんだ?○○」
上白沢の旦那は、あえて稗田姓を呼ばなかった。普段から呼び捨ての間柄ではあるが、今回のこれは明らかに感情と意味を乗せていた。
「何もしないよ」
「はぁ?」
しかし皮肉気な感情は、○○のおどけたような振る舞いが相変わらず、鳴りを潜めないので少しばかりとげのある物になった。
何もしないと言っているくせに、部屋の中身を引っ掻き回して。とくに家具の後ろや、屋根裏なんかまで覗き始めた。
「じゃあ○○、今のこれは?何かを探すように覗いているが」
「探してない、バタバタ騒がしくしているだけだ。向こうは見つかりたくないようだから」
「ちゃんと説明してくれ」
○○が何も考えてないはずがない、とはいえ自分の事で頭がいっぱいで、説明を後回しにする癖に関してはため息が出てくる
――きっと稗田阿求は全部知っているのだけれども。故に、ため息は余計に大きくなる。
「そんなに暇じゃないんだがな」
「大丈夫だ、カラスを使って事前調査はしてある。だから、ここにいるはずなんだ」
「何も見つからないじゃないか」
上白沢の旦那は、なおもガチャガチャと動き回っている○○に対して、鼻で笑うような態度を取った。
妻である慧音から、少しばかり背中を叩かれた。
まずいかと思ったが、稗田阿求はまだ笑みを浮かべている。まだ許容範囲という事らしい。しかし妻の言う通り、ここで止めた方が賢明だろう。
○○は窓を開けて、おもむろに空を眺め始めた。
「良い天気だなぁ。帰りに散策がてら、甘いものでも。阿求は塩気のあるものが好きだから、おせんべいも買おう」
等と言っているが、○○のその行為が何かをごまかす、隠しているのは明らかであった。
そしてその、まだ伝えてくれていない情報が空にある事も、○○が空ばかりを眺めている事から、上白沢の旦那が推測するのも苦ではなかった。
(射命丸か?あいつに何かを頼んだのか?)
空に関連する人物と言えば、この依頼において恐らく一番の割を。貧乏くじを押し付けられているのは、間違いなく彼女だろう。
それを裏打ちするとまでは行かないが、少なくとも先ほどの○○の言葉が、全部が嘘というわけではなくとも。
やはり、何かを待っている間の時間つなぎというのはより信憑性が増した。
話題がなくなって誰も何も言わなくなっても、○○は空を見続けていた。
そのまま5分、ついには10分も経ってしまった。
初めは不法侵入であることに後ろめたさと言う物があったから、突っ立ったままでいたけれども。
動かずに何分も経っていたら、却って疲れてしまうので、結局座布団を失敬することになってしまった。
○○はチラリと、こちらではなく座布団に注目して。ため息をついた。
「新しい座布団だね……それが必要なぐらい足しげく通っているのは、分かってはいても、いざその証でも見つけてしまうとね」
それ以外にも○○は首を振り、辺りを見た。
上白沢の旦那もそれにならうと……一人分と言うには多いぐらいの食器が見えた。
コーヒー用、お茶用と使い分けるぐらいのこだわりがあの歩荷にあったとしても、あの量は――二人分ならばまだ良かった。
三人分はありそうであるからだ。件の歩荷と、肌の触れ合いもある雲居一輪と、雲居の恋敵の物部布都。
三人分と言う事は、この三名分の食器……。
すこし表情がゆがんだので、○○と会話でも出来ないかと、視線を戻したけれども。
○○は空を見上げる方に意識を戻していたので、会話はかなわなかった。
いっそ立ち上がってとも思ったが……視線を感じた。チラリと見たら稗田阿求からの物であった。
それ自体は、別に構わない。
問題は上白沢の旦那が立ち上がろうかなと、腰を動かしたら。それをめざとく稗田阿求が見つけて、○○の……『稗田』○○の横に移動したことだ。
妻である上白沢慧音に対して、やや狂わんばかりという部分が気になるとはいえ、婚姻も結んでおり。
他の男に走る危険性は、考慮の外とまで言えるはずなのに。自分の肉体的魅力の低さから嫉妬心にまみれ、デカい体等と罵り。
今度は男相手にも、もはや妄想に近い警戒心を抱いている。
その事実を目の当たりにして、目を見開いてしまったし。○○も、いきなりやってきた稗田阿求の行動の理由に思い当たり。
友人である上白沢の旦那と目が合って、やや困った笑顔を見せてくれたが。それもすぐに鳴りを潜めて、稗田阿求の方に意識を傾けた。
……疑問や問題はあるけれども。○○が何があったのかを把握してくれたのであれば、それでよかった。
もしかしたら自分は、そうとう○○に対して同情の感情を持っているのかもしれなかった。
稗田阿求は、手のものを付ける際に護衛などと表現しているが。もっと大きな任務は、○○の監視だ。下手なことをしないようにと言う。
それを考えると、ため息しか出てこなかった。
「捕まえました!捕まえましたよー!!」
○○と稗田阿求が、いくらか雑談を楽しみ始めてからいいくらか経った折に、予想通りではあったが射命丸が乗り込んできた。
彼女の手元には、小動物でも飼う際に使われる箱が持たれており。その中身は……ネズミであった。
しかしただのネズミでないことは、動きを見れば理解できた。
明らかに射命丸だけに敵意を向けて、暴れている。ただのネズミならば、もっと無秩序のはずだ。
それに、この秩序だった。明らかに知性を感じさせる動きには覚えがあった。
喫茶店で報告書を受け取った時の事を思い出したからだ。
「○○お前、ナズーリンさんの配下を捕まえて閉じ込めたのか!?」
上白沢の旦那からの叫びに、○○は困った笑いを見せた。先ほどは、稗田阿求に振り回されているなと、同情で見れたが。
今回は少し苛立った。寺子屋の教師をしている、上白沢の旦那からすれば生徒が襲われたのと同じか、もっと酷いはずだ。
「分かってる」
○○は、上白沢の旦那が苛立つ原因に思い至っているのかいないのか、そこまでは分からないが落ち着けようとはしてくれた。
「すぐに返す。次の場所も決まってる……最近ナズーリンさんがよく使う喫茶店とかの場所は、もう把握している」
そう言いながら○○は、射命丸が捕まえたネズミを監禁している箱をひょいっと受け取り。
稗田阿求は稗田阿求で、射命丸に1円札を何枚も渡して。
恐らく仕事量からすれば、多すぎると言えるぐらいの金額のはずだ。それぐらい渡していた。
しかし稗田阿求がなぜそのような事をするのか、何となく理解できる。
多額の金銭を渡すことにより、射命丸の存在を矮小化させているのだ。
これも自らの肉体的魅力の低さに苛まれるが故の、なのだろうか。確かに射命丸は、健康的で美人だ。
だとしてもあんまりだという思いはあるけれども、早く逃げたい……実際、わざとらしい笑顔を作りながら、現金を握りしめて。
射命丸は即座に、どこかに……つまり逃げてしまった。
「行こう」
○○は射命丸の方はほとんど見ずに、彼女が立ち去った後は言及すらしなかったが。
冷たい対応だなと思いつつも、そっちの方が射命丸も助かるのだろうなと思えば。
やはり○○のやり方の方が、ある程度以上には正しいのだろうなと言うのが。癪(しゃく)である。
以前と同じであった。
飲食を提供する以上は、衛生的に忌避されるネズミなどと言う存在がいるのは、喫茶店としても大問題であるはずなのに。
ネズミの入ったカゴを○○は持ちながら、店に入ったけれども。店主も店員も、まるで問題にせずに席へと案内してくれた。
「まぁ、コーヒーでも飲みながら待とう」
○○の気にすることはない、急ぐ必要はないといった態度にため息が漏れそうになるけれども。
稗田阿求の方を見た、彼女は相変わらず楽しそうであった。水を差してしまう事に恐れを感じてしまうには、十分な姿であった。
○○は上白沢の旦那の方を見た。すると即座に。
「おごるよ」
○○は、上白沢の旦那の懸念や心の引っ掛かりを把握して、気遣いを与えてくれたのだろうか。
しかし、支払いが無いのはありがたい。そう思ってやる事にして。
「きつねうどんと、食後にコーヒーで」
少しばかり高めの一品を頼んでやる事にした。妻である慧音は遠慮して、飲み物だけだったので、もっと高いのにすればよかったなと考えた。
どうせ稗田の財政力を考えれば、射命丸にあれだけ払えるのだから。ここでの支払いなんぞ、物の数ではないだろうから。
「そろそろだ」
○○は時間を計っていたのだろうか。○○が飲んでいた甘いコーヒーが、丁度空になった頃合いだった。
この喫茶店は、決して閑古鳥(かんこどり)が鳴いている訳ではない。
そこそこの客がいる、むしろ閑古鳥であっても満員であっても、それが異常であるのに。
いきなり多くの人間が、出入りではない、入りっぱなしであった。
全て整然とした、整列した様子を崩すことなく、である。
その上、都合のいい事に自分たちが座っている隣の席が、ポカンと空いてくれた。
まさかと思って
菅白沢の旦那は、○○に目をやったら。
「大丈夫だ」
上白沢の旦那が、その整然とした様子に少し以上に驚いた様子で目をやった時に。
○○ではない、『稗田○○』が声をかけてくれた。
そして『稗田○○』が大丈夫だと言うならば、本当に大丈夫なのだろう。
それが本当に、上白沢の旦那としては癪(しゃく)でならない。
感想
最終更新:2020年06月11日 21:58