らしくないような気がした。
賢将と呼ばれている上に、それなり以上の配下を持っているはずの
ナズーリン。
今の姿は、そんな彼女らしくないのではと上白沢の旦那は感じた。
この喫茶店を、それなり以上にナズーリンが利用しているのは、明らかであったのに。
それなり以上に利用しているならば、近場で何事かの、大きめの催し物は確かにないのに。
閑古鳥でも満員御礼でもおかしいぐらいの、ほどほどの人入りが常であるはずなのに、この日この時に限っては。ナズーリンの分の席しか空いていなかった。
無論、それだけならばまだ良い。ナズーリンも、自分が知らないだけで何か。催し物、あるいは仲のいいもの同士による集まり云々が存在していて。
たまたまその波に乗ってしまったぐらいには考えてくれたろうけれども……
「――稗田○○だと?」
ポカンとおあつらえ向きに存在している空席の隣に、稗田夫妻が、そして上白沢夫妻がそろって着席しているのを見れば。
ナズーリンのような賢将でなくとも、何かの存在には嫌でも気づかされて、目の前に叩きつけられてしまう気配と言う物を感じ取ってしまう。
「まぁ……一応、謝罪の言葉は出した方が良いのかな」
○○がどっちつかずと言うか、嫌々と言うほどではない物の癇(かん)に障るような言葉を出した。
観客の立場に徹しきって逃げることも可能な、上白沢の旦那ですらこの言葉は癇に障ったどころか。
「もちろん、これはすぐにナズーリンさんの所にお返しします」
射命丸が捕まえてきた、ナズーリン配下のネズミの入ったカゴを、丁重にこそ扱っていたが、状況を考えればこれは、人質を前にした交渉のようにすら思われても仕方がない。
カゴに入った自身の配下を見た途端、ナズーリンの表情は案の定変化、それも剣呑な物へと変化していった。
「雲居一輪と稗田家がつるんでいるのか!?またなんで、何の利益が!?」
ナズーリンは仲間が人質に取られているから仕方がないが、頭に一気に血が上ったようで大きな声を上げた。
だがそれが、稗田家の権力とこの場の不気味さを際立たせている。
ナズーリンの怒声に対しても、店員はおろか客『役』の者たちも、眉根を一切動かさずに。ただ正面だけを見据えて、コーヒーを。
全員が温かいコーヒーを飲んでいた。稗田家の奉公人は、信仰心の高い信者とほぼ同義であるから。
病弱な稗田阿求が、寒さや冷たさが体に毒であるから、その奉公人や協力者たちも、稗田阿求に合わせて夏場でも温かいお茶を飲むという。
そこまでの連中を、今この場では集めているのだ。
さすがにナズーリンも、自分がかなりの怒声を喚き散らした事に気づいて。そこに気づけば、今の状況が極めて異質なことには、容易く気づけてしまえる。
いっそ気づけなかった方が、苛まされず、恐怖せずに幸せかもしれないが。
悲しい事に、ナズーリンの賢将という肩書は、決しておためごかしやお世辞などではなかった。
ナズーリンが、今の状況は稗田家の作った場所の、そのど真ん中に放り込まれているのだと気づいて。
これ以上怒声を、無礼なふるまいをしないように彼女自身の手で、自分の口に手を当てて周りを、特に稗田夫妻を刺激しないようにした。
「いえいえ、違いますよ。いくらなんでも『まだ』雲居にも物部にも接近しようとは思いません……そろそろかなとは思いますが。特に雲居には」
だが幸い、おそらくも何も稗田阿求の機嫌を左右できる稗田○○は、まだまだ冷静で今の状況を楽しめていた。
こんな状況でもどこか楽しめてしまえる、稗田○○の性格には、上白沢の旦那も思う部分や、批判的な感情も沸き立つが。
それは、稗田阿求が怖いという事もあるが。ナズーリンさんの懸案事項を、彼女の仲間に関する不安ごとの方が、上白沢の旦那としても親身になれる話であった。
「それ、返してやれ。ナズーリンさんも不安がっているはずだ、仲間なんだから」
幸いにも稗田○○の機嫌がまだまだ良いという事は、稗田阿求の方も爆発からはまだまだ遠い。
上白沢の旦那が、ナズーリンさんの仲間が捉えられているカゴを掴んでも。特に問題はなかった。
稗田○○としても、すぐに返す気ではあったようだ。ならばますます、すぐに返せとは思うが。
仲間が捉えられているカゴを受け取ったナズーリンは、上白沢の旦那への会釈などもそこそこに。
捉えられている仲間をカゴから解放して、一匹一匹、彼女自身の手で丁寧に、何かケガなどがないかを念入りに調べていた。
そして調べ終わった後、仲間を自分自身で守ろうというのだろう。ナズーリンさんの懐にネズミたちを入れて。こちらへ向き直った。
その表情は、まだ疑問や不安が入り混じっている物の。少しは信じる気になれたのか、表情は怒鳴り声をあげた時よりもずっと、柔らかい態度で。
「どこまで知っている?」
ナズーリンさんからの質問も、まだ緊張感はあるが、あくまでも質問と思える程度の声色だ。
「実をいうと、全部推測なんです。間違っていたらどうか、ナズーリンさんの方から好きな時に、横から入って構いませんので、訂正していってくださいね」
ナズーリンは少しため息のような物をついたが、再び座りなおしてはくれた。
「まず初めに、また謝らなければならないのですが。三日以上前から、射命丸さんのカラスを使って……そうですね、正直にそして正確に表現しましょう。
ナズーリンさん、貴女の配下であるネズミを何匹か捕まえようと動いていました。お話を聞くためにもね」
ナズーリンのこめかみが小刻みに動くのが、上白沢の旦那にも確認できたが。
彼女は必死に耐えて。懐に隠した配下のネズミたちに、衣服越しに触ったような気配が見えた。
あくまでも配下のネズミたちの無事を、安全を、心配させない事を優先しているのだろうか。
だとすれば、個人的には素晴らしい頭目だという評価を与えられるけれども。冷血すらをも通り越した稗田阿求相手では、あまりにも分が悪いだろう。
「そうだね。何も説明せずに、依頼を取り消してくれと言ったっきりなのは。収まりがつかないだろうとは思っていたが……結局何も話さなかったのは、間違いなくこちらの落ち度だ。謝罪させてくれ、稗田○○が何らかの手段を取るのは、自然の成り行きだろう」
ゆっくりと、実にゆっくりとナズーリンは言葉を述べた。全部が全部、嘘ではないだろうけれども。
だからってこんなやり方……というような気配は、見え隠れしていたが。稗田○○は気にしていないし、稗田阿求にとってもまだまだ許容範囲内であった。
ナズーリンはちらちらと稗田阿求の方を見ていた、やはり気になるのだろう。
「とはいえ……あんなにも急で、何の説明もなしというのが。私としても腑に落ちなかったのです。少し考えてから、そもそも説明すらできない状態に追い込まれているのではと思ったのですよ。まぁ、やや強引な方法だなとは思いましたが、天狗の力を借りてナズーリンさんの配下であるネズミを捕まえて、無理に話させようと思ったのですが……」
○○ではない、『稗田○○』がいったん言葉を区切った。
上白沢の旦那のこめかみが、少し痛くなった。やはり自分は○○が好きなのであって、『稗田○○』は嫌いなのかもしれない。
『稗田○○』を前にして、ナズーリンが正直になれるとでも思っているのだろうか?上白沢慧音の旦那である、自分ですらおっかなびっくりなのに!
「まぁ……仲間を狙ってました等と言って、良い顔をしてくれるとは思っていませんよ。そこは良いんです」
良くないだろ、と思いながら上白沢の旦那はきつねうどんの汁を飲んで、自分の気持ちをごまかした。
「けれども気になったのがね、射命丸さんとカラスをかなり手広く配置しまして、ナズーリンさんの配下を探していたのですが。ナズーリンさんは度々見かけましたが……配下のネズミが全く見つからなかったのですよ。これは、おかしいなと思いました。射命丸文は、彼女の書いている新聞は、かなり好き嫌いの激しい紙面ですが。それでも情報収集能力に関しては、さすがは天狗と言えるだけの物があります……なのに、欠片も見つからなかった。
そうしているうちに、天狗以外の情報源から――ああ、これを明かす事は出来ません。どうかご容赦を」
洩矢諏訪子の事だろうなと上白沢の旦那が思ったが、見ればナズーリンも心当たりがあるのか、自嘲のこもった顔を見せていた。
「洩矢諏訪子だろう?我ながらうかつな行動をしていたよ、見られているのに気づきながら、動くのをやめなかった」
ここまで来ればほぼ間違いなく、稗田○○の言う情報源とは洩矢諏訪子だろうけれども。
彼女に対する、協力者となってくれている事に対する礼儀だろう。稗田○○は微笑を浮かべるだけで、明確な事は何も言わなかった。
「ええ、まぁ。その情報源からナズーリンさんについて、物部布都に対して、接触を考えているような動きを見せているとのお話を聞いたので。信憑性はかなり高かったので、その線で考えを巡らせました。そして、ナズーリンさんは同門であるはずの雲居一輪さんを信じられなくなったのだろうなと。それで、意趣返しもしくは純然たる有利不利の考えから、物部布都さんに接触を持とうとしたのかなと……そして接触の理由ですが、全く見つからないナズーリンさんの配下の事が思い当たりました。
お互い、神霊廟と命蓮寺、もめごとの種とならないように関わり合いにならないように、意図的に避けているはずなのに。それでも接触の気配を持とうとするのは、そうとう追い込まれているはずだから」
「お察しの通りだ!雲居一輪め、あの女はかなり前からもう、ネズミを使ってこの依頼の手伝いをしていたことに気づいていた!!」
「きっと、歩荷たちの事故が起こった時にはもう既に、なのでしょうね。狙われた歩荷たちが使っていた縄は、明らかにかじられた跡があった。不自然なほどに、狙いすまされていた」
「……それを知ったのは、かなり後になってからだ」
「ええ、信じますよ。早期に知っていたら、隠す方が悪手だと理解されるはずですからね。それより私が知りたいことがもう一つ」
「……ああ、何でも話す。結果的に、ネズミを保護してくれたんだから」
なるようになったというか、星回りと言うやつは稗田○○の味方をしてくれているのかもしれない。
ナズーリンの口から出た保護という言葉は、それを裏打ちすることが出来るだろう。
射命丸を脅したほどなのだから、ナズーリンの配下だって、雲居一輪は人質に取るだろう。
天狗の射命丸相手よりも更に直接的な言葉を、血なまぐさい言葉を、もしかしたらナズーリンは受け取っていたかもしれない。
「物部布都と接触しようとしたとしか、私は聞いていないのですが。最終的にそれは成功しましたか?それともやらなかった、あるいは――物部布都はナズーリンさん、貴女の存在を感知しましたか?目が合うとかで」
この場合の稗田○○の狙いというか、最も重要視している部分は上白沢の旦那としてもすぐに気づけた。
物部布都がナズーリンの存在を認識しているかどうかだ。しているとしていないで、どのような問題、あるいは変化がこの場において起こるかは。残念ながら思い当たらなかった。
「……十中八九気づいているだろうね。目が合った回数も、両手両足の指を使っても足りない」
これを聞いたとき、稗田○○が少し難しい顔を浮かべた。宙を見ながら、机に指をコンコンと叩きながら、絵図を描いているようではあったが。あまり芳しくはないようだ。
「ナズーリンさん、ネズミはまだ何匹捕まっていますか?それによっていくらか話が変わるのですけれども」
「……あと10匹」
「射命丸さんが集めた情報と同じ数だ、それは良い。問題はそのネズミさんたちに、命の危険は?」
「ある」
ナズーリンからの言葉は、非常に重々しい物であった。稗田○○も予想はしていたろうけれども、いざ聞かされると道のりの難しさを眼前に叩きつけられて、表情は重々しくなる。
「じゃあ時間はかけれないな。物部布都に対して、結果的に有利な状況に放り込みかねないが……命の危険となるとな。射命丸さんにはもう指示を与えてあります、いつでも動けます」
「頼む、動いてくれ!別口の依頼と考えてもいい、費用に糸目はつけない!!」
動けると稗田○○が言うと、ナズーリンの表情が変わった。無論、色目ではない真剣な表情だ。配下の事をそこまで考えているという事だろう。
甘いなとは思ったが、印象は良くなった。けれども一線の向こう側を相手にするには、彼女のような性格は、大きく不利に働いてしまう。
既に雲居一輪と物部布都は、好いている男の利益になるならば最早なんだってやれる。命すらも、好いている男と自分以外の物ならば。
きっとただの石ころか、それ未満だ。
「分かりました、ナズーリンさん。けれども別口の依頼ではなくて、この依頼の延長線で考えますよ」
そう言って○○は――上白沢の旦那には断言出来た、この時の彼は○○だった――立ち上がって、外に目線を向けたが。
急にはたと思い至って、稗田阿求の方に向き直った。稗田阿求に向き直った時の○○は、『稗田○○』だった。
「射命丸文に行動開始と伝えてくれ、残った十匹も今すぐ救出してくれと」
上白沢の旦那は二度手間だと鼻で笑ったが、それでも構わないのだ。むしろ二度手間を『稗田○○』が敢えて選んだことで、射命丸は助かったのだ。
射命丸と稗田○○が、二人っきりにならずに済んだ。稗田阿求が緑色の感情や、妄想に支配される可能性を限りなく少なくしたのだから。
とはいえ、ここまでくると最早滑稽なものに上白沢の旦那には見えていたし。
よくもまぁ付き合い切れる稗田○○に対して、興味と少しは何か言えと言う腹立ちが交互に彼の中に出てくる。
そしてこの腹立ちの原因の何割かは、外に見える稗田阿求が冷や汗を流しながら頭を下げている射命丸に対して、また何枚もの1円札を浴びせているからであろう。
一体彼女はこの数日だけで、いったいいくらもの金額を、稗田阿求から無理やり渡されたのだろうか。
金額もそうだが、稗田家の格式と言う物を考えると。明らかにこれは射命丸の弱みとして機能してしまう。
そのうちに上白沢の旦那は段々と、細かい腹立ちの方が優勢になってきたので。
もう一杯何か、飲み物がないとやってられなくなってきた。
お品書きに手を取る前に、上白沢の旦那は『稗田○○』に対して目線を合わせたら。○○であってもきっと気づいてくれたろうけれども。
「ああ、もちろん。二杯でも三杯でも、おごるよ。上白沢先生も、どうぞ遠慮なさらずに」
この言葉を言う目の前の男は、○○ではなくて。『稗田○○』であった。
腹が立ったので、一番高いものを頼んでやった。
上白沢の旦那が、友人が見せてくる○○と稗田○○の使い分けに対して、腹を立てながら飲み物を流し込んでいたころ。
場所は遊郭街……それも奥の方、洩矢諏訪子や星熊遊戯が遊ぶような場所であった。
そんな場所で、物部布都は人型に切り分けられた式神だったり、鳥の形をした式神だったり。
多種多様な生き物の形を模した式神を前にして、その内のいくつかを耳に押し当てながら。一人でほくそ笑んでいた。
「あの肉欲まみれの生臭尼め、やはりこらえきれずに天狗やあの者を理不尽に嫉妬する輩以外にも、実力行使していたな。同門であるはずのナズーリンとやらがこちらを見ていた時にピンと来たが……思った以上の拾い物であったわ。まぁ、首魁からして乳を自慢するような服装をした輩だからな」
そして……雲居一輪の事だろう。彼女の事をボロクソにけなしながら、勢いで聖白蓮の事も酷い言いようで表現しながら。
物部布都は、耳に押し当てていた式神を破り捨てた。出来るだけ細かく、元の形が何だったのかも分からないほどに破り捨てた。
それと全く同じ時に、稗田○○や上白沢夫妻の足元に存在していた人型の紙人形が。
ビリビリの細切れになっていった。この残骸(ざんがい)をだれが見ても、紙ナプキンだか何かの残骸としか思わないだろう。
感想
最終更新:2020年06月11日 22:01