Tenko Holic
夜も遅くなり静かな時間が街には広がっていたが、この部屋の住人にとってはそうではなかった。何かに耐えるようにしてベットの
脇に座り体を固くする男。半袖の上から自身の腕を掴む指が、見え隠れする跡を残していた。荒い息が漏れる。獣のように、呻くように、
そして苦痛に耐えるようにして。コンクリートの部屋には冷房がかかっていたが、男の額からは汗がまた一つ流れていた。
「くっ……。」
耐えきれずに小さく漏れる声。懸命に押し殺している苦痛が徐々に大きくなってきたのを感じる。原因ははっきりしている。
-なにせ、本人が言っていたのだから-しかしながらこの世の中にこういった事が有るとは、夢にも、いや夢にすら思いもしてなかった。
彼女に出会うことが無ければ、一生気が付くことすらなかったであろう。世間の理といった表の世界とは違う世界、夢幻の狭間に存在し、
現実と非現実を矛盾すら気にせず取り込んでいく幻想郷なんてものが存在することは。
手が自分の腿の上にいつの間にか落ちていた。余りの痛みに耐えかね、瞬間的に意識が飛んでいたのは、ぼやけた男の頭にも明白だった。
果たしてこのまま耐えきれるだろうか?そんな感情が巡り、ふと弱気になる。意識が飛んでいた間に感じる筈だった分の痛みが追加され、
更に理性を荒いヤスリの目で削り取っていく。残った脳味噌が悲鳴を上げ目の奥でチカチカと光が飛ぶ。耐えきれずにベットに倒れ込み
スマホを探ってリダイヤルの表示を指に乗せる。男の全身に走っていた痛みが、何故だか弱まった気がした。
荒い息を吐き背を丸める男。徐々に痛みが引いていくにつれ朦朧としていた意識が回復し、ゆっくりと元気が沸いてくるようにすら感じた。
強ばった指を引きはがすように、スマホから指を離していく。手から零れた機械から光が消えた。汗を拭う男。憔悴しきった顔に、
勝利の笑みに似た感情が浮かび全身で開放感を感じる男。次の瞬間、男の背が痙攣したかのように丸まった。
「------!!!」
何の前触れも無く、再び男の体を襲う痛み。只の痛みが続いていたのならば、まだ男も耐えられたのかもしれない。同じ刺激は人間を麻痺
させるのだから。しかし一旦痛みから解放されると、それが再び襲って来た時に耐えられないものになる。一度はその解放された安堵を
知ってしまったのだから。なけなしの気持ちは吹き飛び、ただ痛みから逃れようとして全身の筋肉が硬直する。このまま無限に続くかと思われた
痛みに苛まれている男の横で、スマホが軽快な音楽を奏で始めた。画面に表示された文字をろくに確認もせずにスライドさせる男。
予想通りの声が向こうから聞こえてきた。
「大丈夫?○○。」
確信に満ちた声で話す彼女。答える声すらも満足に出せずに、男は僅かに呻くだけだった。
「やっぱり、こんなことだろうと思った通りじゃない。人間の癖に無理するからよ。」
いつの間にか自分の目の前にいた彼女。マンションのドアに鍵を掛けていた事など、男の
頭に入る余地すら無い。
「天子……。」
男の声を聞き少女の顔に笑みが浮かんだ。今までに見たことも無いような表情だった。
最終更新:2020年07月05日 23:24