「言うに事欠いてそれか!?雲居一輪!!私に夫を蔑みやがって、お前はどれほどの存在だと思っているのだ!?」
上白沢慧音にとっての琴線、絶対に触れてはならない虎の尾、超えてはならない部分。それはやはり旦那に対するいわれもない悪口であった。
彼女自身は別に、意外と耐えれるのだ。自分が強い事を知っているから。
「良い!慧音は俺が止める!!」
幸い、上白沢慧音が振り上げた湯飲みは上白沢の旦那が飛び掛かった事により。宙こそ舞ったが、雲居一輪に激突することはなかった。
「○○!お前は稗田阿求の近くにいろ!!慧音は俺が外に連れ出す!!」
しかしながら雲居一輪は、明らかに上白沢の旦那に対してさげすむ様な表現を使った。
ぶつからなかった湯飲みは牽制でも意思表示でもない、ただの先制攻撃でしかないのは論ずるまでもない。この湯飲みが激突しようが、軌道がそれてしまおうとも、上白沢慧音は第二、第三の攻撃を加える事を既に、決めてしまってる。
これを止める事は、およそ常人では無理な相談だけれども。
「俺なら大丈夫だ!慧音、とにかくここは稗田家に、稗田夫妻に任せよう」
彼ならば話は全く違う、あの上白沢慧音の旦那であるならば。実際、旦那が慧音に対して落ち着かせるために抱き着いた際。
完全にいきり立っていたはずの慧音だったのに、彼女は完全ではないとはいえ正気を随分取り戻して。上白沢の旦那を振り回さないようにと、苦慮している様子がありありと見れた。
「
諏訪子さん!洩矢諏訪子さん!ちょっと助けてくれませんか!?」
上白沢の旦那が、振り上げている慧音の手を真正面から降ろさせている間、○○は飲みすぎてトイレで半分倒れているはずの諏訪子を大声で呼びつけた。
さん付けではあるが、およそ神様に対する態度としてはかなり、軽いものだと言うほかはない。
実際、稗田阿求は少し愉しそうにしていた。神様を呼びつけられる旦那の姿に対してと言うのは確かにある。
けれどもさらに大きな理由、この状況を何故楽しめるかと言われれば。彼女は、増してや人里の稗田邸の中にいるのであれば、彼女は間違いなく歩く聖域であるからだ。そう、彼女は安全だ、どこをどう歩こうとも。
だからこんなにも、いつだって、愉悦を追い求める事が出来る。上白沢慧音もそうではあるけれども、彼女にだって人里の守護者としての恩義を大量に、人里に対して与えているけれども。
結局は彼女の権力の源泉は、ただただ純粋な強さにしかそれを求める事は出来ない。里一番の寺子屋の女教師と言う立場だけでは、ここまでの権力は難しい。
歴史書の編纂も、やはり稗田の持つ歴史にはかなわない。
稗田阿求がニヨニヨとしながら近づいてきても、間違いなく嫌な感じを予想しようとも、上白沢夫妻はそれを甘んじて受け入れるしかないのが実情であるのだ。
上白沢慧音ですら、阿求がニヨニヨとしながら歩いてきたら――不快感がすさまじかった、敵意とは違う――慧音は旦那が自分に抱き着いていきり立っている様子を抑えていると言うのに、全身の筋肉が再び、ビクンと動いて暴発を恐怖する様子が、上白沢慧音に抱き着いている上白沢の旦那には、はっきりと観測できた。
「ええい、もう!ほんとに倒れてるのかこれは!?休みたい方便じゃなくて!?」
間の悪い事に○○は行ってしまった、どうやら鬼と本気で飲みすぎたせいで、すっかりトイレでぶっ倒れている様子の洩矢諏訪子。彼女が来ないことにしびれを切らしたようで、部屋から出て行ってしまった。
確かに洩矢諏訪子は、戦力としては最上の存在だ。シラフであるならば。
お前がいなくなってどうすると、上白沢の旦那は嘆きの感情が出てきた。お前の存在は稗田阿求の次に強力な聖域である場合が、それどころか稗田阿求を抑えられる恐らく唯一の存在だと言うのに。
しかしきっと稗田阿求は、いなくなってしまった○○よりも。神様を叩き起こしに行く○○の姿の方が、より重要で阿求の心を満足させる姿なのだろう。
上白沢慧音に何事かを言う前に、あけ放たれたままのふすまを見やって、そうすると阿求の若干嫌らしい笑みはかなり嫌らしい笑みにまで変化していった。
そんなかなり嫌らしい笑みを浮かべながら、稗田阿求は上白沢慧音の方に目線を完全に移動させた。
上白沢慧音に抱き着いている旦那の肌や手には、慧音がまた全身の筋肉を反応させたのを感じ取ったが。
今度のこれは、暴発を警戒しての冷や汗を混じらせた反応とはまるで違っていた。これに近い反応はと聞かれたら、稗田阿求が上白沢慧音に対して、彼女の体を『デカい体』と言って罵った時とかなり酷似していたが。
今は慧音の方を落ち着ける事を最優先に考えるべきだと判断して、彼女の体に対してより一層抱き着くことにした。
この旦那は、ますます慧音の魅力十分な肉体に埋もれていくことになった。慧音は無論の事であるが、それを嫌がる事はない。
ただそうすると、稗田阿求のいやらしい笑顔が少しばかり固まった。
○○が洩矢諏訪子を叩き起こすために出て行ったときに、開けっ放しにしているふすまからは、既に奉公人の何人かが覗き見ている。
穏やかで通っている上白沢慧音から、あんな大きな声が聞こえてきたのだから、そうなってしかるべきではあるが。
何となしに、稗田阿求はこの状況を悪用――彼女の視点で言えば活用――しそうだと上白沢の旦那には予想できたが。
稗田阿求が最も輝く場所である稗田邸で、いったい自分は何が出来ると言うのだ。自分よりもずっと立場の強い存在である上白沢慧音ですら、不意の暴発を恐れるような筋肉のこわばりを見せていると言うのに。
稗田阿求から感じる嫌らしさは留まる事を知らない、奉公人たちは続々と集まって、開けっ放しのふすまから、覗きたいけれども直接覗くことを徐々にはばかりだしたのか、目線が消えた。しかし人気は全く消えない。半端に閉まっているふすまの向こうにいる事は、すぐにわかった。
「起きて!諏訪子さん!!」
今度は○○の大きな声が聞こえた。やはり洩矢諏訪子はトイレで、飲みすぎたせいで倒れていたのだろう。しかしよりにもよってトイレでとは、倒れていても構わないからここにいて欲しかった。
「中々、面白い事になったと。少なくとも私はそう思っています」
相変わらずニヨニヨとした笑顔を携えながら、阿求は慧音の耳元に近づいて行って。慧音と上白沢の旦那にだけ聞こえるような声量で、何事かを言ってきた。
無論、慧音の反応は。
「はぁ!?阿求、お前の立場でこの状況に陥ったら、そんな顔は出来ないと思うぞ!?」
このように爆発したものであった、自分の旦那が明らかに罵倒、あるいは蔑(さげす)まれたのだから、こうなって当然ではあるけれども。
なぜこうなったかがまだ、全くわかっていないふすまの陰に隠れている奉公人たちにとっては。あの上白沢慧音の激昂した場面だけで、恐怖を増幅させるには十分だ。
しかし内実を知れば、果たしてどれだけの人間が真面目に取り合ってくれるだろうか。一線の向こう側は色恋沙汰に対して、必死になりすぎると言うだけの話なのだが……いや、でも上白沢慧音は一線の向こう側だ。稗田阿求と比べればまだ、そこまで遠くではないと言うだけで。慧音も十分、一線をひどく突破している。
一線の向こう側に属する条件の一つには、きっと純粋な力や幻想郷特有の事情がついて回るはずだ。
で、あるならば。稗田家と喧嘩するのが、分の悪いと言う話であると言うだけなのかもしれない。
稗田阿求は相変わらずニヨニヨと笑っている。
「水持ってこい!」
稗田○○が洩矢諏訪子を復帰させるために、飲み水を大声で求めているからだろう。なんだかバタバタともしている。
やや苦戦しているが、神様を叩き起こすために出張っている姿は、ただの人間がそれをなす事すらできないだろう。
そもそも神様を叩き起こせると言う時点で、だいぶ人間離れしている。
なるほど今は、稗田○○の独壇場を、稗田阿求以外の者の目にも触れさせている。稗田家の奉公人たちはますます、稗田○○に対して、名探偵であるどころか神様すら叩き起こせる旦那様と言う信仰心を抱いてくれるだろう。
稗田阿求が稗田○○にもっと、名声も権力も名誉を与えたがっている事を考えればこれは最大級の愉悦であろう。
金なら既に大量に与えているから、あとはその金に対して玉の輿(たまのこし)の成金じみた匂いを消すことだって目的なのだから。
一挙両得だ。
「慧音、落ち着こう。ここは稗田家の中だ。それに奉公人たちが集まってきた、分はどんどん悪くなっている」
1人だけ楽しそうな稗田阿求の姿に、慧音は熱を溜め続けているが。今ここがどこである事を思い出させたら、さすがに少しばかり、抱き着いているからよくわかるが全身のこわばりを、嫌々とではあるが抜かしてくれたのが分かった。
「そのデカい体、邪魔くさい気もしますがどうやら男性が好む体と言うのは理解しています。忌々しい事に」
けれども稗田阿求からの言葉の酷さたるや、けれども慧音は慧音本人に対してならば意外と耐えれる。だから今まさに、旦那をそしった雲居一輪の方向に怒りを向けたのだ。
ならば今ここで何も言わないのは、人生における恥となる。相手がたとえ稗田阿求であろうとも、自分は何かを言わなければならない。
「悪いか、稗田阿求。確かに慧音は俺に良くしてくれている。だが俺が求めたくなるような姿を維持する努力を知らんだろう」
「そりゃまぁ、私は貧相な体ですから。確かにそっちの意味では貴方は得していますね」
だがさすがは稗田阿求という所か、即座に言い返してきた。自分の体の貧相さを言葉だけでなく、衣服の襟(えり)をいじったりしながら笑っていたが。
やはり自分の体の貧相さこそが、稗田阿求にとっての最大の泣き所なのだろう、自分で言いながら明らかに機嫌が悪くなっている。
「けれどもね」
だが稗田阿求には最大の武器がある。
「私は稗田なのよ?せっかく私の夫の、○○の相棒にしてやってるんだってことを、自覚なさい。別に○○が他の相棒を選んだなら、そっちを選ぶわ」
彼女は阿礼乙女、稗田家の九代目、稗田阿求だ。今の言葉は脅しではない、本気だ。ただいまはその手段を取っても、利益が無いからやらないだけだ。
「諏訪子さん!ええ!?さっきの騒動も聞こえてないって!?じゃあ説明するんで、聞きながら加勢してください!!来て!!」
○○が諏訪子を完全に起こしてくれたようだ。案の定、トイレで酔いつぶれて倒れているのか寝ているのか、よくわからない状態になっていたようだ。
しかしもうすぐ連れてきてくれるだろう。
そろそろ終わらせるべきだと稗田阿求は考えたようだ。
「けれども慧音先生、私だって貴女と同じような存在ですから。夫に色々と与えたがる貴女の気持ちはわかりますわよ?お互い夫の立ち位置をより良い場所に、より高い場所に上げるための努力は惜しんでいません。だから貴女のデカい体を利用しましょう。そのお体に触れる事を許される存在は、まぁ子供は抜きにしても、この旦那さんぐらいの物ですからそれを利用しましょう。ごめんなさいね、私お前に嫉妬しているのよ。牛女。どうせお前はその体でどうにかできるんだから、私より簡単でしょ?」
多分この日この時が、それ所か彼女の人生の中で一番。稗田阿求の見せた最も嫌らしい顔だと上白沢の旦那には断言出来た。
どうやらかなり前から思っていたらしい事を全部、言い放つ事が出来て。稗田阿求は非常に清々とした表情をしていた。
一体明日からどうするつもりだ、こいつは。しかし上白沢と稗田家の立場の強さを考えたら、きっと、隠してしまうのだろうなと思いながらも。
上白沢の旦那は更に、可能な限り強く慧音の体にしがみついて、歯止めとしての役目を全うしようと努力した。
けれども力以外の部分を問題として、この旦那は慧音の暴走を止める事が出来ていた。慧音は自分に抱き着いている、上白沢の旦那の手などに触れた。
そこまでは行かなくとも、寒いなと思ったときは慧音に抱き着くことがたまにあった。慧音はその時の事を思い出して、どうにか自分を落ち着けているのは旦那の目には明らかであったし。
稗田阿求の目にも、上白沢夫妻の間にある何らかの閨(ねや)なのだとは簡単に予想できた事であろう。
少し稗田阿求の口元が歪んだ、それは稗田夫妻の間には閨(ねや)が少ないからだ。
「一つ助言を与えますわ」
一体どこが?と言いたかったが。稗田阿求から直々に稗田の威光を振りかざされたら、上白沢の旦那としてはどうしても、身も心も二の足を踏んでしまう。
「そのデカい体は戦闘力も十分高いんですから、暴れなさいな。家具などが多少壊れても神霊廟と命蓮寺に請求しますから。でもお前の体に触れていいのはこの旦那だけなんだから、旦那に止められたらとまるでしょう?里一番の暴れ牛を唯一止めれる男と言う称号は、中々重いかと存じますが?」
そして二の足を踏んでいるうちに、稗田阿求は恐ろしく酷い事をつらつらと述べていきやがった。
しかし慧音の目線は、雲居一輪の方向に移動した。
稗田阿求の言う通りにすると言うのは癪(しゃく)だけれども、だけれども雲居一輪のひどく無礼な言葉を忘れているわけではない。
だけれども雲居一輪にとっての幸いな事柄は、慧音の目線が移動したことを把握している存在が、上白沢の旦那だけではなかった事だ。
「南無三!!」
横合いから聖白蓮が割って入り、雲居一輪を思いっきり殴り飛ばしてしまった。なるほど、上白沢慧音に突っ込まれる前に、首魁自ら罰を与えておけば、多少はと言う事だろう。
聖に殴られた雲居一輪は、障子をぶち破りながら庭先に転がってしまった。生きてはいるだろうけれども、完全に伸びてしまっている姿であった。
「ちっ……まだ喋りたいことは合ったのだがのう」
全てを言い終わっていない物部布都は、やや残念がりながらも。洩矢諏訪子よりは飲んでいる量が少ないからか、よろよろではあるがまた起き上がろうとしたが。
豊聡耳神子は、聖白蓮がここまでしたのだから、返礼が必要と思ったのだろう。
物部布都の鼻っ柱を、布都の方は全く見ずに裏拳で殴った。
雲居一輪よりは冷静な物部布都は、まだほくそ笑んでこそいたが。黙ってはくれた。けれどもどうせなら気絶してほしかった、飲みすぎてつぶれた洩矢諏訪子のように。
けれども上白沢の旦那にとって最大の幸いは、今の雲居一輪が全く色っぽくなかったことだ。下着も見えなかった。
体に自信がひどいぐらいにある慧音ならばともかく、稗田阿求が更に緊張感を増していくのを見るのは、もはや寿命が縮む。
こんな空気を作っているのが、体が弱くて短命の業を持っている稗田阿求と言うのが最大の笑いどころではあるが。
「しっかり捕まっていろ」
しかし稗田阿求の今の表情や感情を確認する前に、慧音から声をかけられた。
目は閉じなかった、けれども慧音の表情は確認した。片目をつぶってウィンクをしてくれた。
そして上白沢の旦那は、慧音に捕まったままでまだ無事な方の障子に突っ込んでいった。
適当に暴れた後、自分は慧音にそろそろ止まろうと言うだけで良い。
ああ!なんて簡単な仕事なんだ!!
感想
最終更新:2020年07月13日 22:35