お蔵入り
パラパラと彼の机の上にある書類を捲ると、そこに書き込まれた電子の光が仮想空間に映った。VRと言われる
技術は既に現実化して久しいが、ある種の人物は-例えばレトロ主義者などは-未だに頑固に紙の媒体を使用している。
もっとも、紙と言ってもあくまでも神経にリアリティを映しこんで、そこに有るように錯覚をさせているだけなのだが…。
情報化が進んだとしても、人間のものぐささが解消される訳ではなく、むしろ物理的な面積以上の情報を保存できる
ようになったせいで、余計な情報を抱えて捨てられなくなってしまっているだけに過ぎないのかもしれない。
かつては本を捨てればそこには多少の空間が生まれたものの、今ではいくらデーターを削除したとしても、人間の
脳味噌を埋め尽くす程に情報が溢れている。
そんな文筆家の彼の机を呆れるように僕は眺めた。いくらデータとはいえ、これは酷い。まるで国立博物館に所蔵
されている昔の漫画を見ているようである。この世紀になって未だにこれ程なのは、ひょっとして宇宙広しと言えども
彼だけではないのだろうか、とさえ思えてくる。適当なデータを摘まみ上げ一読をする。どう見てもただの小説であった。
恒星を跨ぐベストセラー作家の未発表作品群と言えば、誰か熱心なファンが中身も見ないうちに買いそうなものであるが、
そんなせっかちさんでも、これにはがっかりするであろう。なにせ題名しかなかったのだから。
ふと、悪戯心が芽生えた僕は、彼にデータを放り投げた。手の中で丸めた情報が紙飛行機の形になって飛んでいき、
彼の目の前でまた一枚の紙になる。僕に散々言われて机を片付けていた彼の手が止まった。
「おや、売れっ子作家にも、思い出の作品があるのかな?」
「…………。」
冗談交じりで言った僕の言葉に、まんじりともしない彼。固まっていた彼であったが、急にぐしゃぐしゃと目の前の
紙を丸め、そのままゴミ箱に放り投げた。削除ボックスに入れられたファイルが溶けるように消えていく。
「どうして…。」
何やら彼は絶句していた。
「おいおい、一体どうしたっていうんだ?単なる題名しかないデータじゃないか。」
「違う…、あれは削除した筈なんだ…。昔に…。」
「うっかり復活したか、コピーでも取っていたのではないかな?」
「そんな筈は無い!!」
突然叫ぶ彼。VRのイヤホンが震えた。
「あれは絶対に削除した筈なんだ!なのに、なのに……まただ!」
「いやいや最近もハッキングだって新しい手口が出ただろう?きっとそういう類いじゃないかな?」
「ハッカーは外部接続が無い場所に入り込めるか?」
「いやまあ…そりゃあ、無理だけれどもさ…。でもさ、あれって只の題名しか書かれていない文章だぜ。
それが一体どうして怖がるんだよ?そりゃあ消したはずの文章が復活したら、僕もビックリするけれどさ。」
「あれは駄目なんだ…。アイツが夢の中で俺と演じるんだよ。そして朝になるとそのファイルに続きが書いてあるんだ…。」
「寝ぼけて書いた………。いや、すまん。そんなに本気で睨まないでくれ。」
「だからいつも続きを消して、いつも跡が残らないように消して…、パソコンごと壊しても、また見つけた瞬間の気持ちが
分かるか?!」
「うーん…。中々俄には信じられない話しだな…。」
「そうだろう…。だからこの話しは終わりだ。これで絶対に終わりだ。」
そう言う彼の後ろで一筋の光が現れたのが見えたのだが、僕にはそれを言う勇気がなかった。なにせ消した筈の紙が、
復元されるかのように、巻き戻るかのようにもう一度復活しているのだから。だれが動かしているのだろうか?
この場には僕と彼しかいないのに…。その事実が僕の心を鷲掴みにしていた。
感想
最終更新:2020年11月01日 00:01