稗田阿求と上白沢慧音の間に走っていた緊張感に気づけない程、稗田○○は鈍感な存在ではなかった。
○○は慌てて阿求を呼びよせて、せめてこれ以上の悪化だけは防いだが。
かなり遠巻きに見ていた寅丸星の雰囲気から、呆れのような物を見て取ったかと思えば、奥の方に引っ込んでいってしまった。
もちろん……○○自身もわかっている。自分のやっている事があくまでも、対症療法であることは。悪化を食い止めているだけであり、悪化の原因に対しては一切の処置を施していない。
だから寅丸星は呆れたのだ、けれども彼女が呆れた部分の一部には○○自身も密接に絡んでしまっているのだ。
根治を目指せばそれは、○○は自分自身の否定にもつながるのだ。
その否定とは……自分が阿求と婚姻関係を結び続ける事も密接に関係する。
自虐するような感情が出てくるけれども、この自虐が阿求に対する否定だという事にぐらい、○○は気づいている。

「話がしたい」
なので件の歩荷がせっかく目の前にいるのだし、彼と話をすることにして、この感情をごまかすことに、もっと言えば自分でも気づかない位に小さく、あるいは消してしまう事にした。
自虐の感情が阿求の事をも否定したのは明らかで、それで更に自分自身への腹立ちから、○○は若干以上に圧力の強い、怖い顔をしてしまったが。
不幸にも全く責任のない件の歩荷である彼は、可哀そうにも少々以上に怯えたような顔をしていたが。
そこに○○が持つ、あるいは阿求から持たされた力の気配を感じ取り、阿求は少し以上に機嫌がよくなった。

「状況は知っているという事だよな?」
件の歩荷は小さくうなずいた。声がまともに聞こえなかったが、仕方がないと思って自分ばかりが喋る事にしてしまった。もうこの際、相手からの返事があろうとも無かろうとも、どちらでも構わない。
もう○○の中で台本はほとんど出来上がっているし、騒動と騒動が絡み合いかねない現状においては、素早く処理してしまいたい。
実はそれが件の歩荷にとっても一番、安全な結果となるであろうのはまだ彼は知らない。
「二股とはね」
しかしよりによって一線の向こう側を、二名も一気に相手している事には感嘆の念もあるけれども、こういった厄介事の最終解決者としては無駄に話を大きくしやがってという感情もあるので、やや切れ味のするどい言葉を投げてしまう。
やはり二股とみられることは、件の歩荷としても相当に心外だったようで、がたりと立ち上がったが。
○○はともかくとして、先ほどから上白沢慧音と陰に陽にさや当てを続けている阿求は、感情があふれっぱなしでいるから、はっきり言って不機嫌極まりない顔をしている。
人里の人間で、慧音と阿求の間に広がる亀裂を知らない人里の住人にとっては、この不機嫌な阿求の顔は人里の住人にとっては死刑宣告の一歩手前ぐらいまでの圧力と威力がある。
「……貴方はまだ大丈夫だ」
どこまでの意味や効果、あるいはまともに受け取ってくれるのだろうかと言う疑問はあるがそう言いながら落ち着ける事にした。

けれども言いたい事、聞きたい事はどちらも優先させてもらうし。
実はそれが彼にとっても、最も生存率の高い状況なのだ。彼はきっと知らないだろうけれども。
「物部布都をふったそうだね?中々、思い切った事をする。そして次は雲居一輪もふるのかい?」
二股扱いされている事も件の歩荷である彼からすれば、非常に手厳しくて辛い一言であるだけに。
物部布都をふったという事実、そして雲居一輪にも……○○が思った通り、やはり彼女の事もふるつもりだったようで、彼の所作がピンとした。
かなりわざとらしい姿勢の良さになった。これは敬うだとかそうではなくて、恐怖からのそれであった。
だがこの歩荷が恐怖を感じようが、どう思うが、そこは些末として○○は考えずにいる事にしてやった。
それはそれで事情を知らないでいる彼にとっては、非常に辛い時間が流れる事になるけれども……そこは耐えてもらうしかなかった。
それにどうせ、彼が雲居一輪もふってしまうという部分にも、そう悪い判断ではないという思いはあった。
彼には荷が重かったのだ。たとえ付き合っている相手が物部か雲居のどちらか一人であったとしても、似たような状況に陥った可能性が高い。
ならばいっそこじれてくれた方が、彼が逃走と言う手段を取ることに対しての言い訳もある程度たつし。
彼の事は可哀そうだと思っているので、そういう論調を作る事に対してもやぶさかではない。

もうしばらくすれば物部布都が、この命蓮寺に突っ込んでくるようにと言う手はずも打ってある。雲居一輪が今更引くわけもない。
神霊廟と命蓮寺の評判にいくらかの傷がつくことに関しては……かなり申し訳ないが、両勢力の首魁には我慢してもらう事にした。
戦争よりも男の取り合いを演じてくれていた方が、分かりやすくてバカバカしいから、宗教上のいさかいと言う物は小さく済むと考えていた。
どのみち上白沢慧音が暴れた時点で、全てを隠す事は不可能になった。その分の責任と言うか後始末を二つの勢力にぶつけるのは、お門違いだという意見を言われたならばもっともであるが……
稗田阿求と上白沢慧音が互いが互いに、憎しみあいそして馬鹿にしあっているという事実が表に出るよりは、はるかにましである。
この事実が表に出れば人里が割れるとまで言っても構わなかった。
少しばかり、人里が真っ二つに割れる想像をしてしまい背筋が寒くなったが。その恐怖の感情に耐えるために、目を閉じて気を張った。
ますます顔がいかめしくなり、目の前の彼に対する申し訳ないという思いが上積みされるが……致し方ないと、諦めるほかは無かった。

「まぁ、男女関係にまでは首を突っ込まないよ。仕事の関係で色々と調べさせたは貰ったけれども……君が物部とも雲居とも別れようという判断は、肯定するよ。稗田邸であんなことがあってはね」
○○はそんなことを言いながら、自分のあさましいとも言える言葉の使い方選び方に、自分自身に対してため息が出そうであったが。
稗田邸であんなこと、その話題を出したら件の歩荷がいたたまれない様な、責任を感じているような表情をした。
なるほどこういう朴訥(ぼくとつ)な所に惚れたのだなと、○○は理解した。
だがナズーリンの言う通り、稗田○○の頭を少し悪くしたような奴だという評価も、また、事実と言えよう。
これならば悪党の方が、女をとっかえひっかえするような奴の方が、話が分かりやすくて良かったかもしれないが。
一線の向こう側が、しかも今回の話においては一線の向こう側が同時に二人も関わってくるのだ。ただの悪党では御しきれないので、やはりこうなるのが運命なのかもしれない。
しかし一線の向こう側がどうにも強すぎる上に、なぜどいつもこいつも可愛かったり美人なのだろうか。
これは幻想郷にかけられた呪いかもしれないなと、○○は奥歯に込めた力でその感想と言うか恐らくは事実と、ずっと付き合う必要を再認識していた。

「雲居一輪が何をやったかしっているか?」
少なくともこの男性よりは、一線の向こう側を知ってしまった○○はまだ優しい言葉を使えた。彼に一線の向こう側はちと荷が重い様な気がしてならないからだ。
あれらをめとる事が出来る存在は、やはり、自分も含めてそして友人の上白沢の旦那もやっぱりで、おかしくないといけないのかもしれなかった。

○○からの質問にこの男はふるふると、弱々しい態度で首を振って否定をした。
「まぁ……若干ね。雲居さんのお仲間とも少々、考えにもずれが、調べているとどうしても目についてしまって。そう、だから」
○○はやや歪曲的に言葉を、話題を展開していった。ある程度は自白を促しているような形であるし、○○としてはいやらしいやり方であるのも自覚している。
そして目の前の歩荷と○○の考えにもずれがあるのは承知している。
○○の考えている事は、雲居一輪が仲間の配下すら人質に取った暗躍劇。
この歩荷の考えている事は、ただただ夜の話、下ネタだ。
しかし知らないなら知らないで良いというか、そっちのがこの歩荷の気配を小さくできる。
男の取り合いとそれにドン引きした男、この話はこの程度の醜聞で終わらせるべきだ。

しかし裏側で話を出来る限り小さくしているなど、件の歩荷には気づく余地がない。
あの『稗田』○○であるという事実を、横合いに妻である阿求の姿もあるから『稗田』の力は特に強くなっているだろう。
ただしその特に強くなっている『稗田』の力は、阿求1人でも全くそん色ないどころか、むしろ純粋な稗田の力である事ぐらいは頭の端っこで常に、感じ取っているようにしなければならない。
だが依頼にそれは関係ないけれども、稗田○○と言う生き方には密接に関係があるから二律背反は辛くなる。
その辛さが、ギリギリと腹の底からやってくる鈍痛(どんつう)となって顕現(けんげん)してくるが、この鈍痛にせよ辛さにせよ、目の前の彼には関係が無いのも明らかな事であるから必死に隠すけれども。
必死に隠そうとしなければという思考回路がすでに、いくらか以上の無茶をする必要があるから、平常のそれではない。つまりは近くで○○の顔を見ている彼は、件の歩荷は、その平常ではない表情の一部をどうしても、感じ取らなければならないから、ますますいたたまれない表情や感情を抱いてしまうけれども。

「抱いた?と、思うんだけれども」
結局ついに○○は、知っていたけれども出来れば彼から聞きたかった言葉を、直接的な意味を込めて口に出してしまった。
男はか細く肯定の意味である言葉をつぶやいた。ほんとに小さな言葉だが、こちらの耳には聞こえてくれたので、許すことにした。
結局許してやった理由としては、抱いたという知っている情報以外にも、か細い声ではあるけれども推測でしかない情報に、確定した情報を与えてくれた事だからだ。

「そうか……最近は抱いていないようだね…………そう、実は雲居一輪からもらった明らかに余分な報酬も、返すことにしたと?」
やはりこの男は雲居一輪もふろうとしている。彼女からもらっているこの命蓮寺での仕事の報酬は、やはり過剰で合ったようで、更には彼もそれに気づいていたようだ。だから、それも返して、終わりにしようという事らしい。
なんだか自分勝手だなと思わなくもないが、一線の向こう側と言う物が何なのかを幸か不幸か、○○はよく理解しているので、件の歩荷である彼が本能的に、逃げたくなったという意思の方を尊重してやった。
それにどう考えても不幸な結末しか思い浮かばないので、逃げたほうが良いだろう。

あとは……明確に雲居一輪もフラれてもらって、物部布都と精いっぱい無様に喧嘩してもらうしかない。
それ以外には射命丸にもまた手を回して、今後の新聞に描かれる両勢力の醜聞を如何にして穏やかに盛り上げて、そして着地させるか。
いっその事、神霊廟と命蓮寺が売り上げに明らかな減少を見せた場合には、洩矢神社にも協力を仰いで、何か催し物の計画やらを新霊廟と命蓮寺に口添えをしても――
色々な事を○○は考えながら、考え事を少しでもまとめるために誰の目線も合わないであろう、空中へと目を向けたが。
ここは幻想郷である、飛べる存在と言うのはさほど珍しくないが――
待ち構えていたような東風谷早苗の姿を、○○は目にしてしまったが、明らかに待ち構えていたという事は、東風谷早苗は○○の事を待っていて○○と目を合わせに来ていた。
東風谷早苗は○○と目が合った瞬間に、ニッコリと笑みを浮かべてくれた。
しかし幻想郷の巫女服と言うのは、なんであんなにも扇情的なのだろうか。そんな考えを抱いていたら。
東風谷早苗は手をひらひらと動かして、○○に挨拶をしてくれたし、その表情も朗らかで慈愛に満ちた物であったが。
あのような顔に見覚えがある事は非常に問題であった。
慈愛に、満ち過ぎている顔だと断言できた。上白沢慧音が夫に向ける顔、あるいは稗田阿求が○○に向けるような笑顔と同じ雰囲気を感じ取ったのである。
○○は、東風谷早苗から向けられている笑顔に、一線の向こう側を見て取ってしまった。
○○の思考回路は一気に凍り付いてしまった、来ることはないだろうと思っていた場所から、手痛い不意打ちを食らったかのような感覚を味わったが、その味わいは猛毒の趣すら存在していたのだから、にべもない事ではあるが。
「は?」
○○がずっと空を凝視しているのを、さすがに阿求も気になって○○と同じ方向に目をやったら。途端に阿求の機嫌が悪くなったが。
機嫌の悪くなったような阿求の顔を見て、早苗は明らかに鼻で、そして獰猛に笑った。上白沢慧音が阿求の事をバカにしている時と同じような雰囲気を、確かにその時の早苗は持っていた。
「でかい肉が飛んでいますね……下品な…………肉塊」
阿求は相変わらず、酷い言葉を、目の前には件の歩荷がいるから叫んだり怒鳴る事こそなかったけれども。
しかしながら、だからこそ阿求のつぶやきはより一層、阿求の中にある劣等感を刺激してしまい、悪辣とまで言えるような言葉を用いてしまわねば、自分自身の劣等感が暴走しかねないのだ。
事実阿求は、東風谷早苗の事をかなりの言葉で罵ったが、やはり自分の身体がはっきり言ってそういう意味での魅力に欠けている事は、上でニコニコとしながら手を振っている早苗の、飛んでいるからこそ揺れる肉体が眼に映し出され続けているから、阿求はぶつぶつと口を動かし続けていた。
○○の耳にすら聞こえない程の小声だが、たぶんこれは聞こえない方が良いとはすぐにわかった。
それよりも、登場人物を少なくするべきだと○○はすぐに思い当たった。
「すこし大事な話をしたい。聞こえないところまで下がっていてほしい」
○○は件の歩荷にそう命じた、彼に拒否権等は無い、言われた通りに椅子から立ち上がって遠くの方に移動していった。





感想

名前:
コメント:




+ タグ編集
  • タグ:
  • 権力が遊ぶときシリーズ
  • 阿求
最終更新:2021年01月20日 21:39