だがこれで良いのかと言う気持ちは、○○の中にすぐに湧いて出てしまった。
件の歩荷が退場していったのを確認するや、早苗はにんまりとしながら降りてきた。
阿求の肩を抱いている○○の腕に、阿求が震えるような体の振動はもちろん、喉の奥から怨念にまみれた汚い音も同時に○○の耳には聞こえてしまったからだ。
それらは早苗が着地したときに予想通りではあるけれども、最高潮を迎えた。
阿求の間近に着地した早苗の眼にも耳にも、阿求のすさまじい怨念は感じ取れているはずなのだが。早苗はクスクスと笑っていた。見世物小屋で好奇の視線を向けるような感情が、その時の早苗にはあった。
「
諏訪子様がなんか、慌てて物部布都さんを追いかけてましたから。お手伝いしようかなと……遊郭と人里の両方を渡り歩いてる諏訪子様も、何か、迷惑をかけちゃまずいので。私なら体力もあるので、助手になれない事も無いかなって」
一体東風谷早苗はどういう腹積もりで、ここに降り立っているのだろうか。
「東風谷早苗、貴女の真意を聞きたい」
なのでここは、思い切って質問をぶつける事にした。
「私もストレス溜めてるって事ですよ」
的を射ているのかいないのか、よくわからない答えを出しながら、早苗はため息をつきつつ阿求の方を見た。
「遊んでいるのか?」
○○と同じ疑問を阿求も思っているらしいが、阿求の場合は早苗の遊び方に自分たち稗田夫妻よりも品性や知性の低さを、見て取るというよりはそういう事にしてしまいたくて。い見下したような笑みを浮かべていた。
だがそんな阿求の顔を、早苗は冷笑しながら眺めている。おまけに背は早苗の方が高いから、威圧感は彼女の方が上であったのは阿求としてはまたしても、苛立ちと劣等感を刺激されてしまう。
「ええ、まぁ……○○さんの言う通りで、私もちょっとぐらい遊んで良いかなぐらいには。諏訪子様がふらっふら遊びまわってますから、私にもその権利はありますよ。まぁ私は女を抱く趣味はないので、適当に顔見知りと遊んでいられればそれで」
そう言いながら早苗は○○の方に顔を向けて、穏やかな笑顔を向けてくれた。
顔見知りと遊んでいられればと言うけれども、その範囲は物凄く限定……はっきり言って○○だけだとしか思えないような、早苗のふるまい方である。
「火遊びもほどほどになさいませんと」
阿求が必死に、ギリギリとした感情を抑えながらも早苗に忠告を与える。
「だっさ。人里で一番お金も権力もあるのに、余裕ないんですね」
けれども早苗は忠告ごと踏みつぶしてきた。阿求の眼が見開かれていき、明らかにまずい状況になりつつあった。
○○は慌てて阿求の口元に手をやって、これ以上はだめだから落ち着くようにと、それを行動で示した。
「かわいそう」
早苗はそんな○○の様子に対して、○○の方を見ながらはっきりとそう言った。それは○○への同情と阿求への挑発を同時に含んでいる言葉であった。阿求がこの状況で、何も言わないはずはない。
「稗田で合っても可哀そうなら、どうすれば幸せになれるとでも?」
かなり驕り高ぶった言葉であるが、○○はそこに関しては無視をしてやることにして。早苗に質問を投げかけた。
「洩矢諏訪子が奔放である事への腹立ちと嫌がらせか?東風谷早苗。それにこちらも、稗田も無関係とは思えないのが辛いな」
この質問を受けたとき、早苗は少し悩んだような顔を見せて、少々長考していたけれども。
「わかんないんです。でも○○さんと話しているのは、嫌じゃないんですよ。引っ掻き回すのと同じぐらいに楽しいかな」
東風谷早苗らしくない返事を聞くことになったのが、○○としては最も恐怖心を抱く答えであった。
早苗自身ですら自分の考えが分からないというのは、これはおそらく真実であるから余計に。
引っ掻き回すだけ回して、諏訪子への嫌がらせのつもりなのか……それともあるいは、○○へ向ける朗らかな笑顔、慈愛にあふれる笑顔こそが、早苗の中で優先される感情なのか。
とうの早苗ですら分からない以上、計算もへったくれもない状況だ。○○にとって一番苦手な状況と言える。
「まぁ、私の事はお気になさらずに。勝手に遊んで、勝手に判断して、勝手にどうにかしますから」
その勝手にどうこうする中身が問題なのだが、早苗はもちろんの事それを理解しているので、こんなあいまいな答えを告げるのみであるのだ。
けれども気になるのは、早苗の表情がコロコロと移り変わる事である。稗田阿求の方を見ているときは獰猛さと冷ややかさを隠さずに、○○の方に顔を向けるときは、向けきる前に目を閉じて表情の方を整える動きを見せてから、さっきまでの表情が影響しているのか少し固いながらも、だけれども明るい表情を作ろうと苦心していた。
「媚びるな。私の夫に」
早苗の笑顔にやはり阿求はカチンときたようで、何か一言残さねば気が収まらないと言った様子で、まくし立ててこそいないが怒気は恐ろしい程に存在していた。
「媚びてませんよ」
しかし早苗は……こんな場面を作るのだから、覚悟と言う奴は既に決まっていると言っていい。増してや喧嘩を売っている相手が、あの稗田阿求なのならば腹が決まっていない方がおかしいと言えよう。
「可哀そうだと思っているだけです」
けれども早苗からのこの一言には、稗田阿求も小首をかしげていた。
「それはつまり……○○が、それとも私が、可哀そうだと?」
「両方」
早苗は非常に簡潔に答えた。
しかし阿求は頭に大量の疑問符を浮かべながら早苗の事を見ていた、これは稗田阿求の自己評価の高さにつながる事象と言えよう。
「○○が、可哀そう?分かりませんね、何でそうなるのかが」
稗田家の権力と財産を無尽蔵に○○に与えているのに、なぜ○○が可哀そうなのだと早苗は思うのだろうか、増してや言うのだろうかと言った塩梅だ。
なるほど確かに、稗田家は人里の中では頂点に立っている。人里の外で合っても、その影響力は計り知れない。ただ○○にはそこまでの事をする気がないだけで、その気になれば土地の一つはいくらでも理由をつけて焼き払えるだろうな、と思う事はしばしばある。
……それだけの権力に飲み込まれているのだ、○○は。望んでそうなったとはいえ、たまに寒気がするのは否定できない。
そして少し目線と言うか軸足を変えてしまえば、その権力は自分自身の身を焼き焦がしてしまいかねないし。自分は最初から最後まで、阿求の舞台にに立つ必要もある。
それを念頭に置いてもう一度○○は、早苗の顔を見た。
早苗も○○からの視線に気づいて、こちらを向いてくれた。やはり阿求に向けるものと違って、柔らかくしようという努力が見える表情だ。
「だから、私の夫に媚びるな」
「ほんとに可哀そう。両方とも」
そう言い残して早苗はその場を離れたが、完全には立ち去らなかった。そこら辺をぶらぶらするような歩き方で、こちらを見つつ、何かを待っていた。
一思いに立ち去らない早苗に、阿求は明らかにイライラして舌を鳴らしていた。
だが早苗はまるで臆することなく、ぶらぶらとしながら待っていた。稗田夫妻の方はもちろんの事で、横目どころかしっかりと見ながらであった。
「たぶん、そろそろ……物部さんも健脚だろうから」
早苗が時計を目にやりながら呟いた、その場面を見ていないし、事情を知らない稗田夫妻にはわからないが、早苗は彼女が物部布都を見かけた時間をしっかり覚えてそこから何分経ったかを確認していた。
「おまけに走っているから、歩くよりずっと早くここに到着するでしょう」
早苗のこの言葉は、ちゃんと夫妻に聞こえるように喋った。
「物部布都が来るのか!?」
○○は今のこの場面から解放されそうだという、そんな期待も胸に抱きながら声を出した。
「ええ、さっき喫茶店でお茶してたら見かけたので。まぁこの状況で物部さんがここ以外に来る場所はないだろうなと。それから、諏訪子様もいましたよ」
「いや、それは頼んだから良いんだ……」
この状況に対する劇的な変化が近い事に、○○は少しばかり息を吹き返しながら、境内の出入り口を見やった。
こんな状況にワクワクするぐらいしか、逃げ場のない○○に対して、早苗はますます○○の事が可哀そうになってきた。
そして先ほど、勝手に考えて行動すると言った通り、早苗はもう少し○○に付き合おうと。
今はまだ、稗田阿求に命を狙われない範囲で○○に近づくことを決めた。
自分の感情に確かな評価を与えるためにも。
ただの思い付きや気の迷いであるのならばならばそれでいいし、本気になれたのならばそれは幸福な事だから。
早苗が命蓮寺の境内をぶらぶらとしながらも、稗田夫妻、特に稗田○○の方を気にしながら動き回っていた。
いっその事阿求が帰れと言えば、早苗は帰ってくれたかもしれなかった。けれども阿求の中の何か、意地と言う部分だろうかそれとも誇りと言うべきか。とにかく阿求は心中の苛立ちに対して抵抗していた。
早苗から目線こそ外さないが、口元こそゴニョゴニョと動いて怨嗟の感情を反すうしているのが分かる程度だ。
○○もたまに阿求から、気になっている――決してやましい意味は無いと阿求に分からせるために、阿求の肩を抱き続けながら――早苗の方に目線をやるが。
やはりどっちに転ぶかはどうやら早苗にすら分からないようだけれども、○○に対する好意的な感情は本物であるらしく、○○と目線が合うや否や、早苗はにこやかに手を振ってくれた。
まだよく見かける程度の知り合いに対するそれ、だとは思いたいが、阿求以外の女性から尊敬ではなくて好意を受けたり、増してや○○の方から阿求以外の女性に対して良い顔をする事こそが問題そのものであるし、場合によっては男が相手でも阿求が嫉妬を燃やすのは、先ほど上白沢の旦那のいた場所に強引に入って来た事から立証済みだ。
けれども東風谷早苗は、洩矢諏訪子の奔放な動きに頭を痛めている。
幻想郷内での立場上昇が源泉、巡り巡ればそれは洩矢神社の立場も上向くという事は早苗にも恩恵があるとはいえ。
洩矢諏訪子と言う身内が、役得を精一杯その身に浴びようと遊び歩いている姿は彼女の苛立ちや腹立ちの原因だというのはすぐに分かるし。
既に洩矢神社には、洩矢諏訪子には、何度も協力を依頼している。間接的かもしれないが○○だって東風谷早苗には、迷惑と言う物をかけてしまっている。
そんな彼女からにこやかに、挨拶程度の意味かもしれないけれども、そのように柔らかく対応してもらえたのならば。
○○としても少し手を振ったり、笑顔のような物を出したりして返礼と言う物を出してやらねばとそれぐらいの理性と道徳は存在しているけれども。
「ッ!?」
阿求の身体が小刻みに震えだしたのが、肩を抱いている○○にははっきりと感じ取れた。
精密機械が崩壊する前兆のように、不穏で不気味な感触が阿求の肩を抱いているゆえに、○○は全身でそれを感じ取らざるを得なかった。
片手でだけ抱いていた阿求の肩を、○○はそれだけでは足りないと思い阿求の正面に立って、つまりは○○の視界から東風谷早苗を外した。
「げせ、下世話な、下世話な言い方ですが……あなた、私以上に金も権力もある女がいるとお思いで?」
阿求は感情の制御が全く上手く行ってないようで、流暢(りゅうちょう)に言葉を話す事にも難儀していた。
どうやら射命丸ほどには見下せないようだ、東風谷早苗の事は。
だが東風谷早苗は、そんな気はしていたが阿求の事も自分を苛立たせる存在として認識しているのか。
「あんまり○○さんに無茶させちゃ駄目ですよー?」
こういいながらちょっかいをかけてきた。出来るならば今はやめてほしかった、けれどもどのような態度を○○が早苗に対してとろうとも、○○の脳内で描かれる予想に良さそうな物は一つも浮かんでこない。
たまらず○○は、近くにいる上白沢の旦那に対して助けを求めるかのような視線を送ったが。
一番の友人である彼は、かなり前からこの状況に精神をやられてしまっているようで、ずっと目を閉じているうえに。
その閉じられた目の上から、上白沢慧音の艶めかしい手先が彼のまぶたの上に覆いかぶさっているのも、はっきりと確認できた。
友人である彼ならば、ここで声を出せば何らかの助力を得られるという、それぐらいの自信と言うか付き合いはあると信じているけれども。
彼よりも彼の妻、上白沢慧音の方がずっと怖いのは一線の向こう側をめとった存在の共通項であろう。
なにをどうしようとも、妻である女性の方が怖くなってしまう。
更には○○の妻である阿求が、ぎゅっと○○の衣服を握りしめて感情の爆発こそ起こしていないが、悲痛な感情は痛いほどに感じ取ってしまう。
○○の胃袋は針を刺したように痛いけれども、これは現状が悪いこと以外にも阿求の事を好いているからこその、胃袋の痛みだと○○には即断できた。
感想
最終更新:2021年01月20日 21:43