朝と言うのは慌ただしいものだ、それは寺子屋でも例外ではない。上白沢の旦那はやや心苦しいながらも、寺子屋に登校する子供たちは妻である慧音に任せて、自分は少しばかり奥の方で今日使う教材やら課題用紙やらの用意をしていたら。
「こけた!?いつ、どこで、どんな風にこけたらそう言う状況になるんだ。いや、怒ってなんかはいない、けれども分からないことだらけで気になる、ただそれだけの話だ」
慧音の詰問するような、しかしながらそれよりも困惑するような声が聞こえてきたのだ。
確かに寺子屋と言う空間は、多くの存在が一か所に集まる。性格に同じものなんて存在はしない、それらが同じ屋根の下に集まるのだから、揉め事と言うのは日常茶飯事とまでは言わないが、全くもって珍しいものではないのだが。
この時に聞いた慧音の詰問よりも困惑の色が濃い声には、、今までにこんな経験は無かったと断言出来た。
それと同時に、上白沢の旦那の心中には恐れていたことが自分や妻の予想よりも、はるかに早い段階でやってきているどころか、あるいはもうそれよりも先の段階にとまでも言えたかもしれなかった。

そんな心中のざわめき、恐れに対して、上白沢の旦那の動きは直情的になってしまった。
用意していた今日の分の教材を、机の上に放り投げて彼は妻である慧音の下へと、かける以外の選択肢は無かった。
「慧音!」
恐れが心中にある上白沢の旦那は、思わず大きな声を出してしまった。
いや、確かに大きな声にはなってしまっているけれども、怒りなどのこもった物ではない、あくまでもまだまだ心配げに思ったりする、それがこの声の中心であったが。
「いや、違う違う。だれも怒ってなんかいない、私も夫も、どっちも心配しているんだ」
慧音があわてて何かを訂正するような声、それも無理に出した穏やかな声、相手をどうにかしてなだめるかのような声を出した。
上白沢の旦那は、慧音の目線と声の先を見て打ちひしがれる様な気持ちに陥った。やはり、自分の感じていた、事態は自分の想像よりもはやい速度で悪化しつつあると断言せざるを得ないからだ。
慧音が、怯えさせてしまったがために、必死になってなだめすかせようとしているのは二人の生徒、この二人は兄弟であった。
怯えてしまっているのは兄弟の両方ともであったけれども、兄の方がより問題であった。
その子の腕は、明らかに骨が折れたような曲がり方をしていたからだ。

「その腕、どうしたんだ?」
上白沢の旦那は先ほど、大きな声を出してしまった反省として。出来る限り声色を抑えて、優しい声と言う物を作ろうとした。
けれども普段、自然に出てくる優しさと違い上白沢の旦那自身も、今の自分が見せるわざとらしさと言う物に毒づきたくなるが、それも押しとどめるのが優しさを作るためだと、言い聞かせていた。
「……」
腕が明らかに折れている兄は、何も言わなかった。慧音が先ほど言っていた言葉はまだ覚えてる、この子はこけたと言っているようだが……信じる事は出来なかった。
上白沢の旦那は、○○の影響されたかのように、返事をしてくれないのならばこの兄弟の動きや表情を、返事の代わりとして観察する事にした。今回ばかりは○○の影響と言う奴を、上白沢の旦那も有難がっていた。
この兄は口を真一文字に結びながらも、傍らに付き添っている弟に対して、折れていない腕で押しとどめるかのような動きを見せていた。
弟の方は、兄の顔と上白沢夫妻の顔、これらを見比べるようにしながら迷っているようであった。気にするような顔でもあったが……気にしている対象は兄や上白沢夫妻だけではなさそうだなと、上白沢の旦那にはわかっていた。
この弟の顔、いや兄弟両方の表情に対して、恐怖と言う感情も交じっていたのを確かに、理解してしまった。
教師と言う立場ゆえに、かしこまられる事はあっても、恐怖されることはないとしている自分の評価に対しては、うぬぼれと言う部分も無いとは言わないが。
だが、どれほど自己評価を考え直して低く見積もりなおしたとしても。恐怖はされないはずだと、自分たち夫妻に対する評価、これに対する自信はあった。
どれほど考えようとも、自分たちはそこまで傍若無人な存在ではないはずだ。――妻である慧音と阿求の間に転がる感情のどす黒さは、稗田と上白沢両夫妻のみの話だ。他者には関係はない、そのはずなのだから。


「何を怖がってるの?」
慧音と稗田阿求の間に転がるどす黒い感情を、今は忘れたくて、次なる質問を上白沢の旦那は行ったが。
その際に、気を付けていたはずなのに酷くぶっきらぼうな声色を作ってしまった。
言ってからしまったと思ったが、もう遅かった。
幸いにもこの兄弟は、確かに見せていた怯えがこちら側、上白沢夫妻の方にまで波及しなかったのは、せめてもの幸いではあるけれども。
その幸いがいつまでも続くと思えるほど、お気楽な思考は出来るはずがない。
そうでなくとも、今のこの兄弟が見せている、いたたまれない様な申し訳ない様な、そんな表情を見るだけでも辛いのに。
明らかに腕の骨が折れているのに、なぜこの兄は申し訳なさそうにしていて……弟に至っては許しすらをも請う様な目で見ているのだろうか。
思わず、上白沢の旦那はため息が出そうになったが。
もしもそんな音を、ため息などと言う物を出してしまったら。間違いなくこの子たちはいわれもないはずだと言うのに、また、怯えてしまうであろう。
とはいえ歯を食いしばる様子も、果たして、とはこの兄弟の様子を見れば決して良く等は無いと言わざるを得なかった。

「慧音」
だがこの兄弟のおびえた様子を見るに至っては、一つの決意と言うか決定事項が出てきた。
「今から○○に会いに行く。寺子屋が終わるまで、待ってられん。早ければ早い方が良い」
朝早くから予定や約束も無しに、稗田邸の門をくぐると言う事に慧音は一瞬、大丈夫かと言う様な考えを巡らせたけれども。
「異常事態だ」
旦那からの付け加えられた言葉には、何も反論と言う物が浮かんでこなかった。
「行ってくる、少しの間頼む」
反論がない事を肯定の意思と上白沢の旦那は受け取り、疑問形でもなくはっきりとした口調で言った。妻である慧音からの言葉はまだ無かった。
反論する気はない物の、少し迷う様な、でも行った方が良いだろう。そんな相反する考えが慧音の中には存在していた。
けれども最後には、慧音は小さく手を振りながら夫である彼を、見送ってくれた。


そこから先の上白沢の旦那は、走るの見であった。とにかく一秒でも早く、○○と会って依頼の内容を話して、動いてもらいたかった。
「状況が悪くなった、○○とすぐに会いたい」
息を切らせながらやってきた上白沢の旦那の姿に、門前を掃き掃除していた奉公人も、すぐにこれは並々ならぬ事態だなと考えてくれて、門を通してくれた。

「その、先生。非常にお急ぎで不安なのはお顔を見れば分かるのですが……今九代目様と旦那様は、お客人と話をしておりまして、しばらく待っていただくことに……」
通された客間には誰もいなかった、待つのか……と言う様な上白沢の旦那の見せたある程度の落胆に対して、ここまで案内してくれた奉公人は訳を、それも非常に申し訳ない様な面持ちで伝えてくれた。
そんな様子を見ると、この奉公人にとってもこんな事を上白沢の旦那に伝えるのは、非常に辛いのだなとはすぐに理解できたので。
「そうか、いや、仕方ないな。約束は今日の寺子屋が終わった後だからな」
そう言って待つ事にした、口数が妙に多いのはそうでもしないと不安で押しつぶされそうだから、仕方なくと言うよりは口を勢いによってついて出た、と言った方が正しかった。
この奉公人は、上白沢の旦那がそうは言っても無理をしている、焦っている、と言うのにはとっくに気づいているので。
それでもなお、待たせてしまう事に対する心苦しさがあるのだなと言うのは、この奉公人の場合は表情や声色を確認すれば、上白沢の旦那は分かってくれた。

「分かっていますよ……ええ、もちろん。私の方が失礼だと言う事ぐらいは、本来の約束の時間から考えても、あまりにも早すぎますから」
そう言って奉公人に対して、気にしないで下さいというような態度を取るけれども。その実際では、上白沢の旦那は気にし続けていた、待つことに焦れていた。奉公人の顔をまともに見ないで、手や足が不用意に動き続けているけれども、上白沢の旦那はそれを御することが出来ていなかった。
「失礼いたします……」
奉公人はうやうやしく、と言うよりは非常に済まなさそうな顔をしながら、奥に下がって行ったが。
上白沢の旦那は、そんな様子を見せた奉公人に対して、、優しい言葉をかけることはおろか……そもそも、奉公人が表情では謝罪の意を示していた事にすら、気づいておらず。落ち着きなく手先を指先を動かしていた。
この様子を見た奉公人は、むしろ上白沢の旦那の方に、とてつもない同情の遺志を向けてしまっていた。
せめて客人が早く帰ってくれない物か、とすら考えてしまった。
相手が元々は、里に下りてはこない存在なだけに。そんな、失礼な事を考えてしまった。

上白沢の旦那が依頼人となって、今日に稗田邸にやってくること自体は、話題や噂話なんぞにこそしないけれども奉公人達はみんな、上白沢の旦那が何事かの依頼を持ってくるのは皆が知っていた。
けれども、約束の時間よりもずっと早くに息を切らせながらやってくるとは、どの奉公人も考えてはいなかった、既に上白沢の旦那があまりにも早くやって来たのは、門から堂々と入ったから全ての奉公人が見るか知った。
稀代の名探偵である稗田○○の、その名探偵の相棒様に何があったのか。奉公人たちは、心配そうに見やっていたが。
さりとて、これ以上は名探偵の領分であるし依頼人として来た人間が内容を離すのは、名探偵である稗田○○以外では相棒である上白沢の旦那か、百歩譲ってもその妻である阿求か慧音である。
それをしっかりと理解している奉公人は、何も言わないと言うよりは聞けないでいたけれども。
それでも上白沢の旦那への心配から、オロオロ交じりのお辞儀をしながらお茶を勧めた、もっともその程度して出来なかったのだけれども。

見たところで変わるはずはないのに、上白沢の旦那はチラチラと。壁にかかっている時計と奉公人が出て行ったふすま、つまりは○○が入ってくるときに空けるはずのふすま、この二つを何度も何度も見ていた。
結局お茶も、ついでに気を利かせて持ってきてくれたお茶菓子も、どちらも上白沢の旦那は手を付ける気になれなかった。
食べる気にも飲む気にもなれないからだ、思えば自分は浅はかであるとすら、そういう自己嫌悪すら湧いて来た。
○○にせよ慧音にせよ、だれに聞いたにしたって。こんなにも急激に、状況が悪くなるだなんてきっと、だれにも予想は出来ないよと、話を聞いた人間は慰めてくれるだろうなとは思う。特に妻である慧音は、何が何でも慰めてくれるだろう、そこは信じ切っている。
だが明らかに腕を負った兄と、何故か怯える弟の兄弟を見て何も感じないはずはない。
増してや昨日は、結局、慧音からの誘いがあったとはいえ、何の疑問や考えなども浮かべずに慧音とのデートに向かう事を楽しみにしていた。今日、寺子屋が終わった後すぐに、話を聞いてくれると言う約束も浮かれてしまった原因だ。
今は、自分の事だから余計に、浮かれていた自分と言うのに腹立ちを感じていた。

握りこぶしを作りながら、上白沢の旦那はもう一度壁の時計を見る。
当たり前だが、時間はほとんど動いていない。
ため息が大きく漏れた。
○○に対する、まだ来ないのかと言う、明らかにお門違いな考えが浮かんできたので、急いでそれを頭の外に追いやる為に頭を何度もふった。
約束の時間よりもはるかに早いのに、いきなり来た自分の方こそ礼を失しているのだから。
奉公人達が心配そうにしてくれたり、客間に通してくれただけでも、向こうはずいぶんこちらに寄り添ってくれているのだから。
そう、ちょうど上白沢の旦那の目についた、お茶とお菓子もその気遣いや心配の一部だ。
少なくとも悪く思われていないどころか、まだまだ心配をしてもらっている。お茶とお菓子を見たら、少しだけ感情が落ち着いてくれた。
相変わらずお茶やお菓子に対する食欲と言う物は湧いてこないけれども、全く手を付けないのも悪いと言う事ぐらいは分かっている。
礼儀としてお茶だけでも飲んでおこうと、口をつけた。
そのまま、また待つだけの時間がやってきたが。お茶にうつる自分自身の輪郭と沸き立つお茶の香りを意識することで、出来るだけ感情を落ち着けた。
こういう時、自分自身をあえて見つめると言うのは、なるほど良いやり方だと上白沢の旦那は自虐的にうなずいた。

けれども、やや落ち着いたとはいえ。やはり上白沢の旦那は、焦れている事に変わりはなかった。
外から歩行音が聞こえてきた、いやそれぐらいであるならば、まだ朝方であるから稗田家の奉公人達は慌ただしく、あれやこれやの仕事に奔走している。
だが、この歩行音は全く違った。なぜならばこの音は、上白沢の旦那が待っている子の客間の前で止まったからだ。
ようやく来てくれたと言う嬉しさからつい、神白砂の旦那の口からは声が漏れた。
「○○!?すまない、約束よりずっと……」
けれども、違った。これがもしも奉公人の誰かだったら、お門違いも良いところだけれども上白沢の旦那はつい、機嫌の悪い所を見せてしまいかねなかったが。
「残念だったわね、稗田○○じゃなくて」
やってきたのは、驚くことに博麗霊夢であった。あの博麗の巫女だ。
そうか、○○がと言うか稗田夫妻が面会していた客とは、博麗霊夢だったのか……さすがは稗田家だと、上白沢の旦那は気が動転して全く普通の事を考えてしまった。

「多分、あんたが稗田○○に依頼したいって言ってる事と。私が今日、稗田夫妻に伝えたと言うか……まぁ、阿求の認識では稗田○○への依頼か。だから阿求の認識で言うわ。私の依頼と貴方の依頼は、多分、似ていると言うか被っている部分がある」
けれども博麗霊夢からのこの言葉、しかも断言する調子の言葉には。動転して普通の事を考えてしまった、そんな感情や感覚も、○○へ依頼しなければと言う物に戻ってきたが。
それと同時に、博麗霊夢に対する疑問も浮かぶのは必然であった。
「どういう事だ?俺が○○に依頼をしようとしているのは、この際知っていても構わん。何の根拠があって博麗霊夢の依頼と俺の依頼に、被っている部分があると?」
けれども博麗霊夢から出てきた答えは。
「勘よ」
酷いものであった。
「はぁ!?」
思わず、上白沢の旦那は柄にもない大きな声を、それも荒っぽい声を出した。何となくあたりの空気が張り詰めたように、上白沢の旦那には感じられた、ここには奉公人も多いから誰かが聞いたはずだ。
けれども、博麗霊夢は全く動じていなかった。
「私は博麗の巫女よ、博麗霊夢よ。勘が良くないと務まらないの。今回は、異変程大きくはなさそうだけれども、何かめんどくさいなぁ……と思ったから。それを阿求に言ったら、半ば無理矢理に稗田○○に依頼しなさいと言われちゃって。まぁ、博麗の巫女の依頼もこなすって言う、箔が欲しかったのね」
ここまで自信満々に、自分の正しさを信じている存在が目の前にいては、呆れから口がぽかんと開いてしまう。
納得は出来ないが議論は無駄そうだ、と言う考えしか浮かんではこなかった。
「ああ、そうか」
決して友好的ではない口調であったが、さすがは博麗霊夢であるから動じた気配はない、それよりも。
「上白沢慧音は大事にしなさい。あんたの性格は、唯物論的価値観と思想と哲学が、幻想郷とは合わない事はもうわかっているはずだから、大きなお世話かもしれないけれども」
友好的でない事をさっさと理解して、どこかに行って欲しかった。
「今更な話をするな」
上白沢の旦那は、目線をそらしてそう言い放つのみであった。
「まぁ、それでも、私の勘でよければ今回の一件のヒントと言うか突破口みたいなものは伝えられる。本命は純狐で次点はクラウンピース、あるいは両方。ヘカーティア・ラピスラズリは黙認してる状況ね……まぁ、死にそうになったら博麗神社に来なさい。その時はこらしめておくから」
会話にならないなと、博麗霊夢はようやく思ってくれたらしくて帰るような気配を見せてくれたが。付け加えてくれた言葉には失笑しか出てこなかった。
それも、博麗の巫女ご自慢の勘と言う奴か?と言おうとしたが。これ以上会話を繰り広げたくはなかったので、失笑を浮かべるだけで済ませておく事にした。
この話が正しいかどうかは、○○に聞けばいい。客人が、博麗霊夢がもう帰るのであれば、すぐに○○とも話をする事が出来るだろうから。






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最終更新:2021年05月30日 22:02