タグ一覧: にとり 射命丸


 東の空が紫色に染まり始めたのを皮切りに、森には宵闇がみるみると立ちこめた。木の間木の間が暗くなるや否や、あっという間に自分の影さえ闇に融けてしまった○○は、諦観と緊張とが頭の裏を突き上げるのを感じた。
 ○○は旅行先で少々山道を昇り、折り返しに入った時、道を見失った。振り向けば木の間木の間にしっかりと確認できたはずコンクリート道路が、折り返しに入って振り向いたその瞬間、消えたのである。登ってきたのは山道にありがちな丸太組みの階段であるが、これさえも消えた。ただ、急勾配の坂が一本、あたかも廃城の堀切のように下へ続いている。その先は暗く、どこへ続いているのか見えない。縮みあがった○○は携帯を手に取るが、電波が入っていない。やむなく○○は震えながらこの切通を下り、時折携帯を確認しながら10分ほど歩いていた。残る電池残量が3%であることは、○○の精神状態を更に追い詰めていた。
 或る時、勾配が穏やかになり、向こうに何体かの地蔵が立っているのを彼は見た。地蔵の辺りに差し掛かると、道の先に水の流れる音が聞こえた。小川の音である。○○は救いを得た気でそちらへ走るが、すぐに立ち止まった。地蔵の後ろに何かがいた。確かにいた。森の闇に紛れ、何か牛馬のように巨大な影が動いたのである。
熊だと思った○○は、そこで一旦歩くのを辞め、地蔵の後ろを凝視しながら死について考えた。しかし緊張故に目が泳いでしまい、地蔵の顔やら杉の陰影やらをちらと見ていることしかできなかった。時局がわずかでも動くのは、○○が地蔵の下に彫り込まれた松紋を目に留めたときである。それは、この状況を○○が理解するに決定的な手掛かりであった。
 ○○の知る限り、この松紋は、飛騨のとある一氏族以外に使用されていない。その家は滅んでおり、今では城館の位置さえ不明である。何より、○○が旅行しに来たのは飛騨ではない。そもそも○○がいたのは近畿でさえない。つまり常識で考えて、ここでこの松紋を見かけること自体、あり得ないのである。であるからこそ、○○は決定的に状況を理解できた。もはや神隠しであると以外考えられないと。

 ○○は解放感で身軽になっていた。自分でどうこう出来る話ではない。もはや何か頑張る必要もない。ただツアー観光のようにこれから起こることに受け身であればいい。それに、無力で虚無で、堪らない悲しい自由があった。今の○○にはそれがよく合っていた。綿毛のブランコに乗って夕日の向こうに浮き上がり、人生を終えられると思うと神隠しの主犯に感謝したくなった。

 そんな○○の少し悲しい目は、向こうに人影をとらえる。それはリュックを背負った奇抜な子供で、こちらへ走ってきている。その時○○の頬の火照りは止み、現実へ帰った。すこし間をおいて、神隠しの恐怖が○○に迫ってきていた。こんな時間の、こんな山深くで、暗がりから、子供が出てくるはずがない。
 常識と現状との矛盾に、あるいは夢幻の揺らぎに狼狽えている○○の方に対し、彼女はいかなる迷いもなさそうに、「にんげーん!」と叫びながら、さも身軽そうに走ってきている。彼女の背に見え隠れするリュックは、主の激しい跳躍に応え切れず怠惰に浮かび上がっている。彼女の体格では背負っていられないはずの重量が、なすがまま引っ張りまわされているのがよく見て取れた。彼女は○○の近くで速度を落とし、やや仰向けに恍惚めいた溜息をついた。

「はぁ……にんげん。ねえ、にんげんだよね?にんげんだよね?」

 言葉に詰まった。自分で自分を物怖じしない人間だと念じて生きてきた○○であるが、今や明確に怖気づいていた。大人になってからの神秘的体験はそのほとんどが恐怖である。


「えっ、……と……」
「ねえ。にんげん、だよね?」
「……はい、……まあ、はい」
「こんな山の深いとこなんで人間が歩いてんだい?」
「……え、あ、いやあまあ、ちょっとまあ、野暮用……というか」

 ○○は相手の話を聞きながら、相手の出方を伺おうとしていた。この場所もこの子供も、状況からして普通ではないとよくわかっていた以上、するべきなのは状況の把握である。それと同時に、この相手が普通ではないという確信は○○に緊張と警戒を齎していた。この相手が全うな人間だという確信が一つでもあれば、すぐ半べそで縋りたいほど心細い緊張であった。

「あのね、あんたのその、胸ポケットのもんさ。それが気になって気になって。さっきそれ光ったよね?」
「はあ」
「実はあんたさ、土蜘蛛につけられてたんだ。さっきまであんたの周りに十匹はいたよ。でも私、あんたが気になってさ、それ全部追っ払ったんだよ」
「ああ、……ええ、助けてくださって、ほんとありがとうございます」
 頭の中には妙な納得感が渦巻いてきていた。”そうか。土蜘蛛か。そうか。そうか。そうか……”から、”そうか”という言葉が消えそうで消えず、永遠の山彦のように鳴り渡っている。それは殆ど思考停止を告げる鐘であった。
「だからさ、ほら、見返りにさ、うちにおいでよ。見たいし、触りたいんだよ、その胸のもんをさ。……いいだろ?助けてあげたろ?それの話きかせてよ」
「いやいやいや。まあ待ってくださいよ。……えっと、この辺の方ですか?」
「え?そりゃそうだよ見りゃ分かるだろ」
「いやまあ、すいません、地元じゃないんで、わからないす」
「わたしが谷河童のにとりだよ」
「たにかっぱ……?」
「そう谷河童」
「……えっと、たにかっぱさん?それとも何、ホントに河童って言ってんすか?」
「いや、いや……河城にとりだよ……あんたどこの人だよ調子狂うなぁ」

 お互いに要領を得ないこのコミュニケーションが終わるのは、遠くで鈴の音が聞こえた時であった。鈴生りめいたじゃらじゃらという音が、上り坂の遥か彼方から少しずつ近づいてきていた。

「あーあー!んもう!めんどうなことになっちゃったよ……」
「は、はぁ……」


状況を読めない○○の生返事を聞くと、ほどなく”谷河童のにとり”の面持ちに明らかな憤怒が浮かんだ。

「あのねえ!最期くらいねえ!一緒に楽しめばいいじゃないか!黙ってついてきてくれれば良かったじゃないか!いけず!」
「あ、いや、えっと、それで、あれ何ですか?行者とかですか?」
「はああ?! あんたホントどこの人っ……あっ!あんた、もしかして、……」
「はい?」
「もしかしてだけどさ、……幻想郷の人じゃあない?」
「え?」
「……まあいいや、ここで待っててよ。また恩売ってあげる。そしたらついてきよね?人間はホントに久しぶりなんだよ、頼むよ。面白そうなもん持ってるしさ。色々聞かせてよ」

 鈴の音の主が見えた。口ぶりの不審な”にとり”に対して、向こうから走ってくる者はそれ以上に不審であった。全身白づくめの女で、先ほどのにとり以上に俊足である。彼女は何か棒きれを持っているようで、それは棒きれらしからぬ赤銅色の光沢を放っている。やがてその棒切れが抜き身の柳葉刀であると分かった時、護身にかこつけて意地を張るのは自分にはもう無理だと○○は悟った。
 襲いに来る白い女の方へにとりが走っていく間、非常識に頭を揺さぶられ脳震盪を起こしつつあった○○は何の口も挟まなかった。そんな受け身でいるしかない○○に対し、めくるめく非常識はまた襲い掛かるのである。
 にとりと白い女との間で走りが緩み、両者が何かを話し始めるのを遠目に見ていた○○は、急に羽音を聞いた。それも、今まで聞いたどんな羽音よりも太い、低い、大きな羽音であった。音の方へ振り向いた○○が見たものは、黒い翼を生やした女である。行者姿と言うには何かがおかしく、人間だと思うにも翼をはじめあらゆる違和感が見て取れた。夕日に輝く彼女の目は○○を一直線に見据えて下から上へ、舐め上げるように物色している。

「なんの騒ぎですかぁ? あやや? あやややや?」
「いや、どうも……」
「ええ少し小耳にはさみましてね。外来人なんですか? 外の世界からいらっしゃったんですか?」
「そう、みたいすね。少なくともこの世界で暮らしたことはないですね」
「申し遅れました私、清く正しい射命丸文です!あなたのお名前は?」
「あ、○○です……」






感想

名前:
コメント:




タグ:

にとり 射命丸
+ タグ編集
  • タグ:
  • にとり
  • 射命丸
最終更新:2021年06月06日 15:24