「うん」
○○はこの、高齢に差し掛かった男性からの熱い握手に対して、特に動じることなく握手を続けていたが。
上白沢の旦那にはこの時の少しゆらゆらしている、そして言葉数が不自然に少ない○○には、あまり良い予感と言うのは持つ事が出来なかった。
上白沢の旦那は○○の知能を、確かにそれを高いものだと思っているし信じてもいるけれども。毎回毎回、真っ当な意味で使っているとまでは信じ切れていなかった。
特に今回の場合、○○の頭脳はどこか黒々とした部分の思考を伴っているのではないか。
はっきりと純狐の名前を出したこの男性も、明らかに警戒心を持ちながら相手するべき存在ではあるが、この状況でも緊張感に表情を固まらせることなく、何故か微笑を携えながら握手を続けていたし。この男性も男性で、妙に長い握手が時間稼ぎではなくて、○○の精神性に対する高尚さだと思い込んでいた。
まだ冷静と言うか、外野で眺めているような立場が許されている上白沢の旦那にとっては、この両方共が怖かった。
もうそろそろ、止めると言うか、せめて○○に動きを求めるべきかと、○○に声をかけようかといくらかの考えは浮かんでくるけれども。
少しばかりゆらゆらとした様子で、○○が自分の周りをつぶさに、抜け目なく観察を続けているのを見ると、少し声をかける事に気後れと言う物が出てきた。
普段ならば○○の後ろには絶対に存在している、稗田阿求の存在も彼女が見える場所にいなければそこまで怖くはないのだが。それぐらいの友人関係を維持できていると、上白沢の旦那は自信を持っているけれども。
今回の案件に関しては、一線の向こう側である稗田阿求の様子がおかしいのはともかく、いつもならば阿求の暴走やあるいはやりすぎと言う物を防いで、最悪でも小さくしてくれているはずの○○ですら、明らかに動き方が雑と言うか荒々しい。
今の○○のそこはかとない、愁いを帯びているような微笑も、上白沢の旦那にとっては恐怖の対象として機能していた。
そこはかとない、攻撃性を感じた。たとえその攻撃性が、上白沢の旦那や固い握手をしているこの初老の男性には向いていないとしてもだ。
めったに攻撃性を見せない○○がそれを見せる事と、そんな物であっても全力で支援することが決まっている稗田阿求と言う、後ろ盾の存在。
上白沢の旦那は自分が感じる恐怖の源泉は、やはり○○が抱いている攻撃性そのものに対してだろうと、推測するしかなかった。
もっと言えば攻撃性を持つ原因についても、おぼろげでしか分からないからだろう。
……やはり子供が被害者であることが原因か?
少し考えて、上白沢の旦那はそう考えをまとめた。
○○はボソリとしかつぶやいてくれなかったが、少し予想すればわかる事とは言え、やはり稗田阿求はその生来の体の弱さが原因で、子供を成す事が出来ない体であった。
上白沢の旦那にとっては――妻である上白沢慧音が魅力的で健康的な体を持つから余計に――どこか他人事であるのだけれども、とうの稗田夫妻からすれば重くのしかかる事実なのかもしれない。
○○はさほど気にしないだろうけれども、阿求が気にするだろう。そして阿求が気にし続けている事を、○○が気にする。
立派な悪循環である。
しかし上白沢の旦那が、友人である○○の内面について色々と、考えを巡らせている間。○○は抜け目なく、周りの観察をつぶさに続けて。
「お稲荷様を祭っておられるのですね」
ひとつ、会話のきっかけを、○○の場合はどうしても捜査に関する何らかの意味と言う物を、彼の場合は見出しているのが常である。
「ええ、そうでございます!」
その事をきっと知らない、この初老の男性は、自分の信仰心が褒められたと思ったらしく、ますます顔をほころばせていた。
少しばかり上白沢の旦那には罪悪感のような物が浮かんだが、ここで突っつくのはかえってこの初老の男性を傷つける事になりそうなので、黙っておくことしかできなかった。
「ご利益は商売繁盛に五穀豊穣ですから、お店にはピッタリな神棚かもしれませんね」
腹の底はともかく、○○は当たり障りのない事を言いながら、相変わらず抜け目なく辺りを見回している。
「それに安産祈願。無事に生まれてこれるようにと、子供に寄り添ってくれる神様でもありますよ」
けれどもこの初老の男性がつぶやいた言葉、決しておかしな事は言っていないが。
○○はその言葉に対して、何を思ったのか。急に動きが止まってしまったし。
何故かその言葉を言った、当の本人であるこの初老の男性ですら、自分で自分の言葉に動きを止められてしまった。
(……なんだ?)
上白沢の旦那にとっては、疑問符の付く光景であるのは言うまでもなかった。
初老の男性が口走った言葉は、お稲荷様には安産祈願のご利益もあると言うのは、別におかしなことは何も言っていないはずなのに。
○○は何とか抑え込もうとはしているけれども、狼狽したような様子は隠しきれておらず。かと言ってお稲荷様が安産祈願のご利益も持っていると言った、とうの本人である初老の男性ですら、どこか愕然としたような、悲しさを携えてしまっていた。
これは上白沢の旦那も疑問符ばかりが出てきてしまう。
「だれか、お客様が来ているのかい……?」
2人の男が、愕然としていたり狼狽していると、奥からしわがれた声が、明らかに老婆の声が聞こえた。
「ああ!」
初老の男性はその老婆の声に対して、息を吹き返したように奥へと引っ込もうとしたが。
もう奥の方へ向かうための、一段上がった場所には老婆が立っていた。
どうやらこのお菓子屋は、表の方は店であるけれども、奥の方は住宅として機能しているようであった。
事実この老婆は、寝巻のような楽な服装をしていた。
「……まさか、稗田様!?」
老婆は、年齢もあるのかもしれないが、少し息苦しそうな声を出していた。そこに稗田○○と言うこの人里では最大級に重要な、お偉いさんの登場は、少し体の弱そうな老婆にとっては毒ともなりえる驚きになりかねなかった。
○○もすぐにそれに気づいたらしく、狼狽からはとっくに回復して、即座にこの老婆の身体をおもんばかるべきだと考えてくれて。
稗田○○の姿に驚いて、ヘナヘナと座りこんでしまった老婆に対して、初老の男性の次に駆け寄ったが。
「ああ、ああ。お気づきになられてくれたのですね、稗田様。あの哀れな兄弟の事を、見ていてくださったのですね」
老婆の方は、少し気になる事を喋っていた。初老の男性と同じような事を、感極まったように、この極まった感じは少し恐ろしさを感じる。
「ああ、そうなんだ!純狐様と同じように!!」
そして初老の男性も、この老婆の感極まった様子をおかしいと思わず、むしろまだ健康な分明らかに鼻息を荒くして……再び純狐の名前を出した。
再び出た純狐の名前に、○○はピクリと反応したが。すぐに老婆の方に顔を戻した、少し息遣いがおかしいように感じたからだ。
「何か飲み物を、水かお茶を飲んだ方がよさそうだ」
○○は老婆の背中に手をやって、さすりながら優しい声をかけた。
○○からの指摘に初老の男性は、はっとしたような顔を浮かべて事実を理解した。
「お茶を持ってくる、その、稗田様……」
「ああ、大丈夫だから」
○○は努めて穏やかで優しい声を出して、飲み物を持ってこようとする初老の男性に、気にしないで行くようにと言う態度を取った。
「純狐はよく来るのかい?」
初老の男性や少し感極まりすぎて、息を切らしたような老婆に対する態度は、優しさは間違いなく存在するけれども。
だが○○の思惑は上白沢の旦那は、すぐに理解した、出来るだけ一対一で会話したいのだ。余計な茶々や、あるいは口裏を合わせると言う行為を防ぐことが出来る。
上白沢の旦那は、○○の計算高さに少し身震いしたが、優しさの存在も事実であるから困る。
結局上白沢の旦那は、黙るしかなかった。また稗田阿求からは、相棒っぽい顔してるだけでも良いから、○○の横にいる事を上白沢の旦那は求められている。
稗田阿求の考える舞台に、ハリやサマと言う物をもたらすために。
きっとここで手帳を出さずにボーっとしていても、何も言われないだろうが。癪なのは確かなので、懐から手帳を取り出して、少しは動く事にした。
そう言えばと思って、東風谷早苗の方も確認しておいた。
彼女はゆらゆらと揺れながら、辺りに積まれたお菓子に対して、わー懐かしい感じーと言ったような顔を浮かべながらも、○○の方をしっかりと観察していた。
厄介な奴め、と言う言葉が真っ先に振って湧いたが。今は観察以上の行動を、東風谷早苗からは感じない。
で、あるならば。こちらからちょっかいを出すと言うのは、あまり良い手段とは上白沢の旦那には思えなかった。
また東風谷早苗と下手に接触を持つことそのものが、妻である上白沢慧音のかんの虫と言うのを刺激しかねない危険性も認識していた。
幸いなのか不幸なのか、どちらとも取れるけれども、東風谷早苗は上白沢の旦那にはあまり興味を抱いていない。
となれば、触れないのが上策か。ややもすれば呆れや諦めの感情もあるが、まぁ、良い。
それに上白沢の旦那としても、○○が何をやるかの方が気になるし、素直な気持ちで見守る事が出来る。
それにちょうど、この老婆が話始めようとしていた。
「はい……純狐様は哀れなお方です。大昔に実のお子さんを、よりにもよって身内に亡き者にされたと言うのに……いえ、だからこそ小さな子供に良くしようと思われたのかもしれませんが。だとしてもあんな目に合っておきながら、他人の子供や……さらには私どもにもお優しく」
「そう……純狐はいろんな子供と、よく話したりしてたの?」
「はい……ですが最近は、とある兄弟の事ばかり心配しておりました」
「その兄弟ってのは……」
そこで○○が上白沢の旦那に目配せした。名前を言ってくれと言う事だと、理解できた。
子供たちに関することは、ましてや寺子屋の生徒だからと言う事もあり、○○だけが差配をするのはと感じたようだ。
上白沢の旦那は○○の、この、確かに優しさなのだが旦那はこれをお情けのようにも感じ取ってしまった、それに罪悪感を抱きながらも、二人の生徒の名前を伝えた。
今朝がた、兄の方が骨を折って寺子屋にやってきた、あの兄弟の名前だ。
「そう!その兄弟にございます」
老婆はハッっとしたような顔を浮かべて、その後に急に心配を深めた顔をした。
「何かあったんだな?」
後ろには、飲み物を持って戻ってきた初老の男性がいた。老婆もこの初老の男性も、何かに気づいたようだ。
そもそも、何もなければ自分たちの店には、稗田○○が来ない事ぐらいは2人とも理解していた。
「隠すのも悪手か」
○○はぼそりとつぶやいたが、そこに迷いと言うのが無かった。やはり今の○○は、頭に血が上っている。
「兄の方が腕の骨を折った状態で、今日寺子屋にやってきたんだ……それで、気になってね。調べる事にした」
この事実を述べるときの○○は明らかに、落ちた声になっていた。劇場的な感情にふたをして、少なくともこの場では出さないようにと言う、強い配慮が見えた。
けれども、もしかしたらその配慮はいらないかもしれなかった。
「ああ!なんてことを!!」
件の老婆が、明らかに激昂を始めて。
「鬼でも子供は可愛がるぞ!!」
飲み物を老婆の為に持ってきた初老の男性は、老婆よりは壮健であるからか、怒るための気力や体力も十分であるから、○○が押さえていた分の感情までをも引き取ったような気配すら見せていた。
特にこの初老の男性の怒りぶりたるやすさまじく、せっかく持ってきた飲み物をこぶしの荒ぶる動きによって、全てこぼしてしまっただけではない、そこそこ冷たいはずなのにそれが引っかかってもまだ、自分が飲み物をこぼしたことに気づいていなかった。
少し、恐怖すら上白沢の旦那は感じてしまい、あとずさりを見せてしまった。
けれども東風谷早苗は、やはり強者であるが故の余裕と言うか物怖じしない部分があるのだろう。
激昂に激昂を重ねるこの初老の男性から見える圧力に、まるで負ける事はなくスッとした動作で、表情には若干の警戒心や心配と言ったものを携えながら、○○の側に寄ろうとした。
○○を守ろうと動いているのだろうか?そう思ったとき、何となくイラっとした感情が上白沢の旦那には出てきた。
この舞台に稗田阿求の要望により上らされている事に、確かにいくばくかの呆れや、勘弁してくれと言う感情はあるけれども……厄介な奴めと感じている東風谷早苗に、この舞台を取られるのは、やはり、腹が立つと言うのが正直なところだ。
そう思うと上白沢の旦那は、物怖じしていたはずの感情が消えて東風谷早苗の前に出る事が出来た。
「間違いなく私の方が強いですよ?と言うかこの中なら私が一番強い」
思うなどでは無くて、自信満々に東風谷早苗は言った。事実だから余計に腹が立つが、そういう問題でもない。東風谷早苗が相棒と言う物にこだわりを見せているのは、分かっている、だけれどもこの席に自分以外の者がいることに耐えられない、今更ながら上白沢の旦那は、この舞台に対する愛着のような物が芽生えてしまった。
「だとしてもだ。稗田阿求が指名しているのは俺だ」
上白沢の旦那は、はっきりと、自分がこの席を明け渡さない事を稗田阿求の名前まで使って主張した。
虎の威を借りる狐のような気分になってしまったが、やはりこの席を取られたくないと言う気持ちの方が強かった。
「ちっ、まぁそうですよね」
幸い、東風谷早苗は稗田阿求の名前を出されたら、彼女は退いた。しかし舌打ちの剥いた方向が気になる、上白沢の旦那に対してはこの舌打ちが一切向いていなかったのは、気になった。
自分を軽く思っているのか、それとも稗田阿求に対する敵意の方が上回っているのか。
(どっちでも嫌だな)
上白沢の旦那の感想は、これしかなかった。どう転んでもロクな事にならない、そもそも東風谷早苗が出しゃばってきた時点で、そうなる事は運命づけられているのだろうけれども。
しかし今は、目の前の事件に集中するべきだろう。骨を折ったあの兄が、残った弟も含めて、心配なのだから。
「この件は任せてほしい。純狐にも会いに行こう、まぁここら辺で俺たちが動いていたら、向こうから会いに来てくれるだろう」
○○は激昂を迎えてしまったこの二人を抑えるように、立ち上がって老婆を初老の男性に任せた。
「この次はあの兄弟の家に向かおう……その前に、あの兄弟について知っている事があれば教えて欲しい。特に知りたいのは、あの兄弟の暮らしぶりかな」
○○からの最後の質問に、激昂の中で件の二人は息を吹き返した。
○○の表情が一瞬のうちに、まずい時に聞いてしまった、と言う物に変わったのを、上白沢の旦那は見逃さなかったが、激昂している二人は気づかなかった。
件の二人は、老婆は初老の男性に興奮しすぎてもたれかかり、初老の男性はそんな老婆をしっかりと抱きかかえていたが、激昂と怒りと……そして何よりも○○に対する信仰心が気力を維持させているのか二人ともしっかりと○○の方を見てくれていた。
「我々が食事を与えていなければ、もっと酷い事になっていたでしょう!」
初老の男性は、はっきりと断言した。○○は少し思い返すようなしぐさをしたが、あの兄弟は寺子屋の生徒であるから、上白沢の旦那の方が早くに反応できた。
「二人とも小柄だなとは思っていたが……そのう、その口ぶりだと。あんまり考えたくはありませんが、食事をまともに?」
「取らせてもらえていなかった!!」
今度は老婆の方が激昂して叫んだ。○○はその様子を聞いてばかりだったが、こめかみに指をあてて……二人に影響されたように怒りを溜めていた。
「まぁ、結論は調べてから出すが……はっ!」
全てを調べてから、結論を出すまでは推論をあまり表に出さないで思い込みに支配されないようにと、○○は気を付けているが、今回ばかりはもう完全に当たりをつけてしまっている。
今回の調べる作業は、ただの確認作業に近いものを感じた。
だがワナワナと震えだした○○を見て、寺子屋の生徒の為に本気で取り組んでいる事に対する感謝の念は存在しているけれども。
激昂を抑え込もうとしてくれているが、漏れ出している様子に、危ういものを感じ取ってしまうのも事実であった。
この危うさをどうすれば、もう少しは抑える事が出来るかを考えた時、○○は急に話し出した。
「繰り返しになるが、この件はこの稗田○○に任せてほしい……あなた方ご夫妻は、ここで、今日も子供たちの様子を見守ってください」
「え?」
○○が場を引き取ろうとしたとき、上白沢の旦那似は気づかなかったことを○○は口に出したので、上白沢の旦那は思わず疑問の声を○○に対して向けた。
「どうしてそう思った?」
○○にそう聞いたとき、○○は気恥ずかしそうな顔を浮かべた。
「自分を鑑みれば、そう動くだろうなと言う行動ばかりを彼はしていた。この老婆、つまり奥さんは体が弱い、その事を旦那さんはとても気にしているんだ。もしかしたらと思ったが、今のお互いに抱き合うようにしながらも、旦那さんの方が奥さんが不意に転んだりしないように必死で体を抱えるようにしている……その抱き方は体の弱い人間をおもんばかる時の抱き方だ。俺もよくそのような動きを、阿求が立ち上がったりするときにやる、必ずやる。もしかしたら仲のいい姉と弟と言う可能性も考えたが、今の熱っぽい感じは夫婦のそれだ」
○○の朗々とした解説が、これが正しいかどうかの答え合わせは、この二人、つまりは夫妻の少し気恥しそうな表情を見れば、答え合わせはもう完了していた。
「どうぞお幸せに」
○○は夫妻に対して、満足そうに声をかけ。
「行こう!時間が惜しい!!」
そして○○は急に動き出した。
慌てて上白沢の旦那は○○を追いかけた、途中で同じように追いかけだした東風谷早苗と肩がぶつかった、上白沢の旦那は東風谷早苗が対抗意識を抱いているように感じたが。
件の二人は、つまり夫妻は、きれいな所作でお辞儀をしながら稗田○○を見送っていた、上白沢の旦那と東風谷佐那の間に出来た溝(みぞ)には、幸いにも気づいていなかった。
感想
最終更新:2021年06月06日 15:40