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 都会の夜であっても深夜になると辺りは静まっていた。夜になると騒々しく足を踏みならす上の階の住人も
今は動きを止めているようだった。ガラス越しに部屋に浸透してくる春の夜の冷気を年代物のクーラーで
誤魔化しながら、照明を落とした部屋の中で僕は一人、パソコンの光に向かい合っていた。
 キーの音だけが僅かに響く。無機質な軽い音を立てて、文字が画面に次々と映し出されていった。
小説というには単純で、然りとて文章と断じるには長すぎる。とりとめの無い意思の羅列が行列を作って
いった。
「具合はどう?」
声が僕の中に響く。いつものように、いつもの彼女が、以前のように僕に声を掛けていた。
-まあまあかな-
声を出さずに彼女に答える。目では見えない、そしてそこに存在しない筈の彼女に向かって、
僕は会話をしていた。普通に考えれば単なる狂人なのであろう。誰もが少しは心の隅に持っている、
存在しない神仏の存在を宗教的に信じているという程度ではなく、僕はそこに彼女が居ると信じて、
あまつさえ見えない彼女と会話をしているのだから。
「流石に書いてくれたね。」
「まあね。」
何故だか夜に眠れなくなり夢うつうの状態になった僕の前に、彼女が現れて特注のお願いをされたのならば
断る訳にはいかないだろう。あどけなさが残ると評されるであろう彼女の恐ろしげな顔は、それでもやはり
美しかった。決して僕の目が狂っている訳ではないだろう。頭の方は若干自信が無いが。
「今日は大丈夫だね。」
「そうだね。」
彼女のお墨付きが出た作品を掲示板に放り込む。玉石混交のネットの激しい渦の中に飲み込まれた作品が、
反応を波立たせて海底の奥底に沈んでいった。
「やっぱりこんな作品は天界では味わえないわね。」
彼女の嬉しそうな声がした。無味乾燥の世界に天の世界の住人である彼女によってもたらされる蜜。
毒にも似た感情が、また一つ僕の心に溜まっていく気がした。
「ああ、そうそう○○…。」
彼女が唐突に僕の真横に姿を現した。
「貴方の頭は正常よ。目と同じ様にね。」
いよいよ起きている時にも彼女が見えるようになったことに、僕は感謝をするべきなのかもしれなかった。





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最終更新:2021年06月06日 15:44