稗田阿求からの寵愛を受けているうえに、稗田家に対する信仰心の恩恵を受けている稗田○○であるならば、たとえ婿養子と言う身分であっても正門を使うのに何のはばかりや遠慮と言う物は必要ないし。
事実稗田○○は、何らかの理由がない限り普段は――そうした方が阿求が喜ぶから――正門を利用して出入りしている。
けれども今日の○○は、裏門を使って自宅であるはずの稗田邸に帰ってきた。
そう、今日はその何らかの理由が……やや大所帯という部分なんかよりもずっと、東風谷早苗と言う存在が特殊な事例として機能していた。
「……じゃあ、東風谷早苗。少し待っていてくれ」
裏門から稗田邸への敷居をまたぐ際にも、東風谷早苗に待っているようにと伝える際に○○は明らかに時間と言う物を作って、慎重に行動していたし、どこか距離感もあった上にいつもはそんなことしないのに上白沢の旦那の服の袖を握り続けていた。
そして早苗に待つようにと伝えた後、行こうと等とは言っていないけれども○○は上白沢の旦那の服の袖を引っ張って、やや急ぎながらそして強引に連れて行った。これも○○からの視点で物を見れば、東風谷早苗から離れたがったと言えるだろう。
けれども東風谷早苗はどこ吹く風、あるいは蛙の面に小便でもかけた様な面持ちであった。
彼女はただ笑って、稗田邸の奥に消えていく○○に手を振っていた。
この場で1人残されることに対して、本当に何とも思っていないような顔しか浮かべてはいなかった。


「勘違いさせちゃ駄目なんだ」
上白沢の旦那を引っ張りながらも、○○は独り言のようにして呟いた。状況的に上白沢の旦那には聞かせたがったのだろうけれども、返答は無くても構わないという具合だろう。
もう勘違いしている気はするが、上白沢の旦那は何も言わなかった。少なくとも○○の行動に間違った部分は存在していない。
上白沢の旦那にとって○○は、同郷ではないけれども同じ立場に立たざるを得ない戦友のような存在なのである。
だから、優しくしたいし優しいからこそ危険な部分に入り込みそうになった場合は、忠告を与えなければという自負心が出てくる。
「それに東風谷早苗と稗田阿求を合わせるべきではないし……○○、1人で歩くのはしばらくやめろ」
だからこの言葉も、友人であるからこそ戦友であるからこその、強い言葉を使っていた。
「分かっている。阿求の事は何をやるか怖い部分が確かにあるが、それ以上にやっぱり俺は阿求を愛しているから」
○○は上白沢の旦那からの言葉に重々しくつぶやいたし、彼の目をしっかりと見ていた。
上白沢の旦那としてはこの目を見れば満足出来たし、それと共に戦友とも言える相手への優しさを出したくなった。
「何かあったら俺が付き合う、出来る限り時間を作る。今まで通り、人力車で寺子屋に乗り付けてくれても構わんよ……稗田阿求の場合は、体の弱さの方も心配だがやっぱり、お前の言う通り怖さという部分があるはずだから」
上白沢の旦那の口からはするりと、○○の都合に合わせると言うような言葉が出てきた。
それを聞いたときの○○の顔は、緊張と予測の不可能さに対して張り詰めた様な表情をしていたのが、間近で見ている上白沢の旦那にはその表情が確かに柔らかくなったと、それを確認できて上白沢の旦那の表情も柔らかくなった。

「あと腕が痛い」
このような冗談を言えるぐらいには、○○の気持ちが和らいだことで上白沢の旦那も言えるようになった。
○○はようやく自分が緊張で張り詰めていて、上白沢の旦那にすらどう考えても無礼なふるまいをしていた事に気づいて、慌ててその手を離してくれた。
「くくく、まぁ頼ってくれよ。その方が俺も安心できる」
上白沢の旦那は先ほどまでのお返しだと言わんばかりに、○○の背中を笑いながらバシバシと叩く事にした。
実にほぐれた様な場の空気が醸成された。
何のいわれや罪もない子供が、無意味にさいなまれているようだと言う最悪としか言いようのない状況に、張り詰めたり苛立ちを抱えていた護衛兼監視役の屈強な者たちも、○○と上白沢の旦那が見せる仲のいい友人どうしの姿を見て、少しばかり笑みを見せてくれた。
その笑みが巡り巡って、○○と上白沢の旦那に対しても良い影響を与えてくれていた。


ただ、こういう穏やかな状況と言うのはあまり長く続かないのが世の常なのかもしれない。
特に今回の事件はどす黒いものがある。ならばかかわった人物の中に、頭に血が一気に登ってしまっている者がいるのも、それは仕方のない事なのだろうけれども。
「あら○○、お帰りなさい」
阿求の私室に○○が入った時に、阿求が○○に嬉しそうにあいさつをしたのは全くもって予想はたやすい。
純狐がやや血走った雰囲気をまとっているのも、覚悟していた。横にいるクラウンピースがげんなりとしつつも、まだ目に光が残っている事で、帳尻が合うとまでは行かないけれども冷静な光を宿している存在を確認できることは、絶望したり衝撃を受けたりせずに済む。
……そこまでならすべては予想の範囲内であるから、それでよかったのだ。純狐がここにいるのは、○○がそう言う風に差配したから、その記憶がまだ残っているので心の準備と言うのがいつの間にか完了していた。
けれども、○○が最初に聞き取りを行ったお菓子屋の夫婦が、稗田阿求の前にいたのには面食らってしまい、上白沢の旦那はおろか○○までもが『ただいま』と言ったような言葉も出せずに口を半端に開けて……結局閉めてしまった。

そして最初に声を出すという、いわゆる機先と言う奴も○○はその手からこぼれ落してしまう事となってしまった。
「○○様!稗田○○様!!」
お菓子屋の老夫婦――男の方は老人と言うにはやや早いが――が○○の姿を見たことで即座にハッとなって、大きな声で姿勢を正して○○に挨拶をしてくれた。
「あ、ああ……」
○○はこれはまずいという様な顔を浮かべたけれども、浮かべるだけで何をすればいいのかがとっさに思いつかなかったうえに。
「色々、ええ色々と興味深い話を聞けました……この事件、私の方が本気になりそう所ではありません、なります。本気にね」
今度は稗田阿求が、実にキレイな所作であるけれどもそのキレイさがむしろわざとらしく感じるぐらいに、そのような雰囲気を出しつつも、お菓子屋の老夫婦に対して阿求は、あの稗田家の九代目様である阿求が自ら、老夫婦に対して湯飲みにお茶のお替りをいれてやっていた。
老夫婦はあわあわと言った様子を見せながら、今度は九代目様である阿求に対してお辞儀をしていたけれども。そんな喜劇的な様子を見せている老夫婦の事は、そこまで重要ではない。
問題は阿求が、その言葉の通りで本気になってしまった事だ。

○○は目を閉じてしまいたいという様な、そんな逃避の感情を抱いたけれども最後に残った一線。
阿求に自由にさせては血の雨が降りかねないという、懸念などでは無くて事実を懸命に思い出して何とか食いしばっていた。
そして食いしばった結果に出てきた、ひとかけらの思考回路で言葉を発した。
「似顔絵は出来たか?」
種々の事を無視しているような言葉だけれども、下手に付き合うよりはあるいは良いのかもしれない。
何と無しに対症療法で根治は見込めない気もしたが、だからと言って神白砂らの旦那もこれ以上の案があるのかと問われたならば、無いとしか答えられないのが実に辛かった。
そもそも、この一件において○○が目指すべき終着点にはあの兄弟の平穏無事を勝ち取るという部分があるのだけれども、それはとどのつまりあの鬼にすら劣る様な、残念ながら実の両親をどうにかすることが含まれてしまっている。
今更、義憤もあるし○○の性格も加味すればこの一件から手を引くなどあり得ない。つまり本気になってしまった阿求をいなす事も、○○からすれば義務の様な物なのだ。


「こちらに」
似顔絵の存在自体は、阿求も武器になると思っているからだろう特に裏などを探ったりせずに、○○に一枚渡してくれた。
「うん」
だがその後にまた、奇妙な間が出来てしまった。
はたから見れば、○○は出来上がった似顔絵をじっと見ているのだけれども、一番の友人であるとの自負心が存在している上白沢の旦那には何か、それこそ次の穏当なふるまい方を考えているのだなと理解できた。
……最も、上白沢の旦那ですら分かる事が○○の事を溺愛して権力も金も人員も、何もかもを与える事によって自分との差と言うか溝を埋めようと努力している稗田阿求が、気づかないとも思えないと言う残念であるが強力な予測もすぐに出てきたけれども。

「ああ、まぁ。似顔絵とにらめっこしていても何も起こらんか。悪いがこいつを裏門で待っている…………洩矢神社にも協力を得よう。せっかく興味本位とはいえ手伝うと言ってくれているのだから、あの人に渡せば諏訪子さんにも渡るだろう」
たっぷりの時間を使って○○は考えた末、似顔絵の一枚を上白沢の旦那に渡した。
その際に○○は極めて慎重に言葉を選んでいた、特に東風谷早苗の名前は絶対に出さずに洩矢神社と組織名だけを出していた。
これぐらいの配慮と言うか警戒心は、同じように一線の向こう側である上白沢慧音を嫁にしているこの旦那からすれば、即座に気づくことが出来る。

「洩矢諏訪子!」
だが稗田阿求と言うのは、どうしても上白沢の旦那はおろか○○の想像の上までをも行くような存在であった。
阿求は○○の出した諏訪子と言う名前に、やたらと反応していた。
○○は目線を右往左往とさせながら、自分は何か不味いときに不味い事をやってしまったのだろうか?と記憶をさぐるけれども何も見つからなかった。
「洩矢諏訪子さんならば、適任ですよ!その似顔絵の男は遊郭にもふけっているようですから、遊郭街の事を見張ってくださる諏訪子さんにご助力いただけるのでしたら、百人力なんてものじゃありませんよ!」
けれども阿求から出てくる言葉はと言うと、喜色にまみれた言葉であった。しかしながらその喜色、場にそぐわないと言うしかなかった。
やはり稗田阿求はこの一件に対して本気になった以上に興奮している、それも質の悪い興奮であるとしか言いようがない。

「まぁ確かに、大物ですからね洩矢諏訪子は」
上白沢の旦那は似顔絵を手に取りながら、ちらりと稗田阿求の顔を見た。
しかし阿求はもういつもの顔に戻ってしまっていた、クスクスと笑うばかりの微笑を携えた顔しか見えなかった。けれどもそれは、腹の底を知られないための顔とも言える。いわばよそ向けの顔だ、○○以外の者がいるこの場ではいつもそう言う顔だ。
上白沢の旦那に言える事は一つだけであった。何もわからない!それが悔しくてしかたがなかった。
「じゃあ、渡してくるよ……○○、後でまた会えないか?」
完全に気落ちしながら上白沢の旦那は、似顔絵を一枚だけ持ちながら一旦その場を後にしようとした。
上白沢の旦那からすれば、ひらひらと揺れるこの似顔絵の髪が恨めしかった。今の自分のように揺れてばかりの様な気がして。
だから上白沢の旦那は○○を求めたとも言える。表向きは情報の共有だけれども、上白沢の旦那はただひたすらに心細かったからとしか言いようがない。
「ああ、また後でな」
○○は上白沢の旦那からの、後でもう一回会いたいと言う言葉を拒否することは無かった、それこそ○○だって心細かったからとも言えよう。
ただ上白沢の旦那は、身勝手な感情だけれども余計に自分が情けなくなった。
似顔絵を東風谷早苗に持っていくだけだなんて、子供のお使いですらない程に難易度の低い仕事だ。
なのに自分と違って○○は、一触即発ですら生ぬるい存在であろう今の稗田阿求とサシで話す必要があるのだから。仕事の難易度が段違いすぎて、上白沢の旦那は稗田邸の廊下を歩いている最中に、涙が出てきてしまった。


(さて……しばらくは俺1人で何とかしないと)
上白沢の旦那が廊下を歩いて行く音が聞こえなくなるにつれて、○○は自分一人でこの場を取り仕切る事に覚悟を決めて行った。
今回の阿求は間違いなく煽る側だ、どうしても心配は募るがやるしかない。
そのためにはまず、この場の登場人物を減らす必要がある。出来る事ならば阿求と自分の一対一の対応にまで持っていきたい、出来る事ならば今すぐに。
「さて純狐さん、一応洩矢神社に協力は取り付けていますが……どうします?何かあるでしょう、腹積もりと言うかやりたい事と言うか」
まずは一番危険な存在である純狐を追い出したかったので声をかける、その際にクラウンピースが何となく目配せを寄こしてくれた。
「友人様」
そうクラウンピースは純狐の事を呼ぶけれども、クラウンピースからの目配せはまだチラチラと続いていた。
「とりあえず似顔絵はばらまかれるでしょうから、何かやりに行きましょうよ。まぁ何かってほんとふわっふわな言葉ですけれども。稗田邸でお茶飲んでるよりは、動いてた方があたいも何か良いかな程度なんですけれども」
クラウンピースはたくさんの言葉を用いながら、行動の方でも純狐をゆさゆさと揺らして立ち上がるようにと促していた。
クラウンピースと完全に意思の疎通が出来たかと言われたら、○○はそこまでの自信は持てていないけれども。
けれどもクラウンピースは、この場に純狐を置いておくことはまずいぐらいには考えてくれていた。それだけでも○○からすれば非常にありがたい物であった、この場で一番稗田と言う物を無視できる、あるいは縛られないような存在がいなくなってくれるのは、気の持ちようが大いに違ってくる。

「そうね」
クラウンピースからゆさゆさと揺らされた純狐は、しばらく彼女から揺らされたままでと言うか揺らされる感触を多めに楽しんだ後、優し気な声を出して立ち上がった。
純狐が立ち上がった時、お菓子屋の老夫婦はもちろんで阿求すらも明らかに見惚れるような顔をしてため息をついたけれども。
○○は純狐の持つ美貌だとかため息が出るほどにきれいだと言うのとはまったく別の意味で、ため息をついてしまった。
幸いにもこの、ため息の意味が違う事に気づいたのはクラウンピースだけであった。彼女だけはまだこちらにチラチラと目配せをして、言葉は使えないけれども何とかしようと言う意思の交換には成功している。

「遊郭街をぶらっと歩いたら、またそっちに戻るわね。色々と情報も仕入れる事が出来るだろうから、待っててね」
うろん気であるがそれがまた却って美しさを際立たせているような姿の純狐が、お菓子屋の老夫婦にそう言いながら歩きだした時、老夫婦はハッと我に返って頭を深々と下げて純狐の事を見送った。○○と阿求には必要の無い動作であったので、○○が道を空けているだけで済んだ。
「あ、一銭焼き食べたいから用意しといて~!」
クラウンピースはそんな、はっきりと言ってお気楽な事をお菓子屋の老夫婦に頼んでいたが、それが何らかの時間稼ぎであることは明らか出った。
事実○○はクラウンピースと、その際に置いてしっかりと目配せが出来たからだ。
言葉がつかえない以上は、だからどうしたんだと言われる様な事であるけれども。こういう時に同じような考えを持っている存在と言うのは、何度確認してもやり足りない物である。心細さを埋めたいのだ。




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最終更新:2021年06月06日 16:05