彼女の言葉

 彼は今困っていた。普通の人でも時には悩む事があるだろう。人生の大きな事柄はもちろんのことながら、
その他の小さな選択ですらどちらの言い方にしようかと、あるいはどっちの苦痛を選びたくないのかを、
自分の判断に従ってその時々の選択肢を選んでいく。そこには自分だけの基準があるだろう。あっちの方が
いいだの、こっちの方は好きでないだのそういった諸々の感覚がその人独特の個性を作っている。
 一心にスマホの画面を見つめる彼。何か重大な問題でも起きているのだろうか。オフィスを歩く人の視線に
入らないように、周囲に気を配りながら画面に目をしきりに遣っていた。初夏の部屋は空調を効かさなくとも
大きく開けた窓から爽やかな外からの風が入っていた。薄らと彼の額に汗が浮かび上がる。パソコンのキーボ
ードを叩く音が僅かに鳴り響くこの場所で、彼は只ひたすらに誰かからの返事を待っていた。
 軽快な着信音と共に画面に文字が流れた。弾かれたかのようにスマホをタップし、返信の文字を表示させる
彼。一秒にも満たないわずかな時間だけ映った宛先が、彼女からのものだったのを彼の目は逃さずに捉えていた。
 彼女からの返信はわずか一行であった。例え親しい友人からのものであったとしても少々簡潔に過ぎる、もっと
いえば短すぎるのではないかという文面であっても、彼にとっては天啓に等しいものであった。弾かれたように
彼が動き出す。少し前までは一ミリも進んでいなかった仕事が、あっという間に進み出していた。

 夕方になり周囲の人々が退勤した後、彼はオフィスの中でただ一人自席に座っていた。機械のわずかな音だけが
響く部屋。先程まで部屋に入り込んでいた夕暮れの光が途切れていき、辺りは蛍光灯の光で照らされていた。
「○○さん。」
誰もいなかった筈の場所から声がした。後ろから白い手が伸びて彼の首にかかる。僅かな体重が彼に感じられ、
座っていた椅子が鈍い音を立てて少しだけ傾いた。
「帰りましょうか。」
しばらくの間彼に体を預けていた彼女が言う。彼女の腕をくぐるようにして無言で立ち上がる彼。彼の言葉が
無いことを気にも留めずに彼女が浮かせていた足を付けた。男物の革靴の横に少女の履いたカジュアルなシューズ
が場違いのように並んでいた。男の腕を取るようにして歩く少女。無言の彼に色々と話し掛けていくが、
彼は一言も言葉を口に出すことなく彼女と共に歩いて行く。時々周囲の人が一瞬、不釣り合いの様子の二人に
奇異の目を向けるも直ぐに都会の人波に流れていった。
 ふとスーパーの前で男が立ち止まった。男の家の近くにある二軒の内、昔からよく行く方の店であった。
彼女に顔を向ける男。まるで何かを訴えかけるような顔であったが、言葉を忘れてしまったかのように、彼の
口は開かなかった。ニコニコと彼を見つめる少女。そこに悪意は浮かんでいなかった。
「ふふふ・・・。大丈夫ですよ○○さん。ここに入っても大丈夫ですよ。あなたに悪意は降りかかりませんよ。」
ホッとした顔をして入っていく彼。その心を読んだかのように少女が連れだって入っていった。





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最終更新:2021年06月06日 16:07