手の鳴る方へ

 息が荒い。自分の肺が動き振動が体を伝わり、吐いた呼吸が耳の鼓膜を体内から揺らしていく。

乱れた呼吸を整えるように深く息を吐きそしてゆっくりと吸い込むと、少しずつ自分の中で乱れていた感覚が

戻ってくる感覚がした。あと少し、もう少しで自分の心が落ち着く。そう思った時だった。



「○○さん。」



彼女の声が聞こえた。意識せずに-反射的に心臓が跳ねた。姿は見えないのに耳にかかるほど近く頭の骨を

突き破って入ってくる彼女の声。落ち着こうとしていた鼓動が再び唸りを上げて動き出す。生存本能に突き動か

されて圧倒的な強者に怯えるように。まるで不思議の国に迷い込んでしまい自分が小さな兎にでもなって

しまったかのように。辺りに素早く視線を巡らせて周囲を探る。闇に沈んだ都市は人の発する光はほぼ途絶え、

孤独に光る電灯だけが僅かにこの辺りを照らしていた。ゾクリと背中に走る悪寒。背中を伝わり全身を駆け巡り

そして指先に至るまで、いない筈の彼女の視線が僕を舐めるように射すくめていき恐怖に手足が痺れていく。

 逃げなければ、そう思考が焦り考えようと方法を探すも強烈なプレッシャーによって体が動かない。

息が短く口から漏れるように吐き出されていき、足が震えて最早立って居られなくなり、そこにあった電柱を

掴もうと手を伸ばした。

「どうぞ○○さん」

後ろから伸びた彼女の手が僕の体を掴んだ。柱に伸ばした手は空を切りバランスを崩した僕の体は重力に従って

冷えたアスファルトの方へ傾くが、そのまま彼女の体が僕の体重を支えていく。片手を加えて僕を後ろから持ち

上げるようにする彼女は、明らかに自然の釣り合いを無視した影を地面に写し出してていた。



 彼女の体の柔らかな感触が感じられた。彼女が僕の胸に手を持っていくと、全身の震えがとまり暴れている鼓動が

穏やかになっていた。僕の体を撫でるように手を動かしていく彼女。それは一種、獲物を手に入れた猛獣を思わせるものだった。

ならば彼女によるこの落ち着きは、さしずめ喉に食らいつかれて窒息していく過程なのかもしれない。

たっぷり時間を掛けて僕を撫で終えた彼女が、僕の横に立ち手を握った。首筋に彼女から伸びた赤いコードが巻き付き

服の下に音も無く隠れていく。彼女は何ともいえない笑みを浮かべていた。

「ねえ、○○さん。やっぱり○○さんは私の方に来るんですよ。こうやって手の鳴る方へ」

心を読める彼女は僕に言い聞かせるように、そう言った。





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最終更新:2021年06月06日 16:09