「お?おー……」
洩矢諏訪子は遊郭街の一番奥、あの忘八たちのお頭が経営している遊郭宿においていつも通りに、遊女の中でも高級な部類に膝枕などを貰いながら文章を読んでいたが。
そんな事が出来る諏訪子であったが、その時の諏訪子の振る舞いはおそらくは遊女たちにとっては初めて見る姿であるけれども、しかしこの時に置いて遊女たちがやや狼狽を示したのは決して自分たちのケツ持ちである洩矢諏訪子がおかしな様子を示したのが理由ではない。
「珍しいね早苗……ここに来るなんて」
東風谷早苗がやってきたことそれ自体が、狼狽の原因であった。
こういう珍しさにロクな意味は存在しない、だから諏訪子ほどの存在が遊べる高級な遊女たちでさえどこか狼狽を抱いてしまったのだ。

「……何も理由がないと言うわけでもないだろう」
諏訪子は即座に立ち上がり、狼狽を見せつつある遊女たちの前に立って東風谷早苗の前に立ちはだかる、盾のような役割を持ち始めた。
仮に諏訪子にそのような考えがなかったとしても、諏訪子が前に立つ事で突然のそして予想だにしていなかった存在である東風谷早苗から距離を、何よりも精神的に距離を取れることに遊女たちは狼狽から明らかに回復を見せていた。
この部屋に出入り口は一つしかないというのにだ、遊女たちは先ほどよりも安堵した顔を見せていたし、その安堵感の一助には前に立ちながらあも遊女たちを気にしている諏訪子の目配せは間違いなく関係があった。
いや、これぐらいは早苗としても予測していたから……腹は立つけれども予測のお陰で苛立ちを抑える事にやや成功していた。
だがあくまでもやや、であった。他に苛立つような要素が出てきた場合、早苗は我慢できなくなってしまうだろうと言う事ぐらいは、幸いにも早苗は気づいていた。
この仕事はさっさと終わらせるべきだ、遊郭街の事は好きでも嫌いでもないしそう言う施設が必要な事ぐらいは理解している。
けれどもその中心部分に身内が絡んでいるというのが、酷く不快だし腹も立ってくるのだ。
「これ、似顔絵です。この顔と同じ奴を探してくださいよ諏訪子様。遊郭にも出入りしているようなので……はっ、諏訪子様向きの案件かなと思いまして」
「そう……」
早苗は明らかにギスギスした空気を出しながらも、○○の仕事の役に立つからという部分を心の中で前面に出して思いっきり我慢しながら、諏訪子へ似顔絵を渡した。
諏訪子も出来れば、何も聞かずに終わらせようかと思ったけれども似顔絵を見て気が変わった、正確に言うならば似顔絵の絵柄を見て聞かなければならない事に思い至ってしまった。

「稗田の仕事なのか?」
諏訪子は早苗に対して質問をしたけれども、早苗はと言うと憮然とした態度を全く崩さなかった。
「ええ、そうですよ。その似顔絵の男を○○さんが探しているので、私も探す事にしました」
早苗は諏訪子からの質問に対して、稗田と言う名前は全く使わず、と言うか避けるような気配すら見せながら○○と言う名前を強調した。
「稗田○○のね……」
諏訪子は嫌な感触、予測が脳裏によぎってしまったので早苗にわからせるような意味を持たせながらも『稗田○○』と訂正するようにつぶやいた。
けれども早苗は、そんな諏訪子の様子にくっくっくと言った感じで笑みを浮かべて。
「ようやく少しは焦ってくれましたね、諏訪子様」
「お前分かっててやってるんだよな?いや、と言うよりは、私に嫌がらせをしたいだけなんだよな?」
諏訪子の心証の変化に良い気を見せた早苗に対して諏訪子は、せめてこの程度で抑えてくれればと言う様な願望を持たずにはいられなかった。
「稗田○○の事は、私を動かすあるいは焦らせるための、エサでしかないんだよな?そう、あくまでも……本気ではないんだろうな早苗よ?」
「さぁどうでしょう。けれども諏訪子様はともかく、神奈子様には迷惑をかけたくないという部分はありますよ?ええ、それに関しては全くの本心です」
「……じゃあ神奈子のことだけ考えてくれればいい。私は私で、こっちで何とかしておくから。早苗が私のやり方にあまりいい顔をしていないのは理解はしている」
「まぁ良いです。今回は挑発含みとはいえ、本気で何かやるつもりはないですし……ああ、でも喉が渇いたのでお茶ぐらいは貰いますね」
理解と言う言葉を使った諏訪子に、早苗は鼻で大きな嘲笑を作って勝手に湯飲みや急須を扱いだしてお茶を飲む準備を始めた。
遊女の誰かが「あっ……」と言う様な気配を作ろうとしたが、諏訪子の『いいんだ』と言う様な表情を見て、持ち上げかけた腰を下ろした。


実は早苗が扱っていた急須と湯飲みは、まだ誰の口もついていなさそうだから早苗も手を振れたのだけれどもそれもそのはずで、今早苗が扱って飲もうとしているお茶はあの忘八たちのお頭が気に入っている湯飲みだから誰も使えていなかっただけなのだ。
諏訪子もそれなり以上に気に入っている、それこそ抱いたり抱かれても構わないと思っている忘八たちのお頭のお気に入りを早苗が使おうとしているのはどうしようかと諏訪子も一瞬思ったが。
しかしあの男が、その程度で機嫌を悪くしたりするような小さい器ではないし、そもそも今回は使っている相手が東風谷早苗だと知れば何も言わないし思おうともしないだろう。

「無駄に美味しいですね、このお茶」
ズズズとややわざとらしく音を立てながら、早苗はあの忘八たちのお頭が愛用している湯飲みでお茶を飲み始めた。
「そりゃね。あの男が私相手だから色々と、世話を焼いてくれてるんだ」
諏訪子は何となく、意味がないと思いながらもあの男の事を忘八たちのお頭の事を褒めるような言葉を使った。
「ふぅん」
ただ案の定、諏訪子の言葉は早苗のかんの虫と言う奴を刺激してしまった。
「それはただ単に、諏訪子様が馬鹿みたいにここで遊んでいるから多少は特別扱いしてるだけじゃないんですかね?」
しかしまだ、諏訪子の方に苛立ちが向いている事に諏訪子は実に……ホッとしてしまった。
けれども早苗は決してバカではないし、むしろ直感だとかそう言うのは強い方である、そうでなかったら幻想郷で巫女なんてものは続けられない。
だけれども少しばかり、自分がこの遊郭街においての客以上の立場であると言う事を早苗には示したかった。
「そりゃ黒字額を膨らませたんだから、特別扱いもしてくれるさ……言っとくけれども早苗、私が投資した分はもうとっくに回収してるんだよ?」
「守矢神社を遊郭の出先機関にはしないのではなかったんじゃ?」
笑顔なのだけれども確実な苛立ちを表情に乗せながら、早苗は手に持っている湯飲みをいじって遊びながら、とはいってもこれまでもう何度も聞いたようなことを早苗は諏訪子に聞いた。

この早苗の質問のような物が、話合いだとかそう言う意味を持つものではなくてごくごく単純に、うっぷんを晴らすための口喧嘩以上の問題は存在していないのは明らかであった。
けれども諏訪子は、この早苗のいやらしい質問のような話題に対して原則論やいつもの答えとはいっても何も言わないわけにはいかなかった。
それを言う事は、結局は洩矢諏訪子と言う存在が遊郭よりは上に立っていると言う事を示す、そんな重要な意味も持っているからだ。
何よりも遊郭を拡大するような勢力の影すらも、まだ掴めてすらいないというのが現状なのだ、処断できたのはまだまだ小物である、いわゆるトカゲのしっぽしかまだ集めることが出来ていなかった。
故に稗田阿求と言う最大級の遊郭否定論者の動きを観測してくれる、洩矢諏訪子のような存在は絶対に必要であった。
ただそれを全部言ったところで、早苗は余計にイライラするだろうしそれを全部説明するのにも酷く時間がかかる。
「会談場所を提供するフィクサーとたかが出先機関じゃ、まるで立場が違うじゃないか早苗。私は稗田阿求の動きを遊郭の誰よりも近くで観察できて、不味い事態が起こる何歩か前に警告することが出来る貴重な人材何だ。そりゃあの男、忘八たちのお頭も私には目をかけてくれるよ」
自画自賛の気配は強いなと諏訪子も十二分に自覚しているけれども、今はそれでよかったとも考えた早苗からの苛立ちと言うか意識を諏訪子だけに向けておきたいからだ。
「ふぅん」
早苗は返事の上では、軽くて浅い物を使っているけれども自画自賛の気配が強い諏訪子に思う所はあるのか、相変わらず行儀悪く音を出しながらお茶を飲みながらも諏訪子の方だけを見ていた。
少なくとも遊女に対する何やらと言った感情は、あったとしても希薄そうなのが諏訪子としては良かった点の一つであった。
そして次に諏訪子が思ったのは、早苗の持っているあの忘八たちのお頭が気に入っている湯飲みを回収したいという思いだ、急須は振り回すのには向いていないが湯飲みは違うし、急須よりも湯飲みの方に愛着を強く持つのは自然な事だ、諏訪子も急須よりも湯飲みの方の色あせ等をよく覚えてしまえる。
何かの間違いで早苗が、この湯飲みを諏訪子やら壁やらにぶん投げないなどとは、それはまったく無い等とは言えない事であった。
別にここで早苗が暴れたとしても、それで諏訪子の権勢に影響が、今更出てくることなどは無いけれども……そうは言っても可愛がっている男の持ち物が無駄になってしまうのは諏訪子としても避けられるのであれば避けたいというのが、気に入っている男に対する諏訪子でなくとも出てくる感情であろう。

若干以上にハラハラとした感情を出しながら、それでいて表に出さないように早苗には気取られないようにと気を配りながら諏訪子は。
早苗がグイっと飲み干したのをしっかりと確認したら。
「ああ……飲み干したのならば、持ったままだと面倒くさいだろう」
と言って早苗から湯飲みを回収、あの忘八たちのお頭の……諏訪子からすれば可愛い男の子のお気に入りの持ち物を確保して守ってやりたいと、そうとまで思っていた。

だが早苗は決して頭が悪いわけでは無いし、むしろ直感だとかそう言うのにも恵まれている存在だ。
諏訪子もこの時、と言うか遊郭街にいる間はシラフであるはずがないし遊郭に出入りするようになってからはシラフである時間の方が少ない。
この時も遊女からしこたま、鬼程ではないけれども神様だからそんじょそこらの存在よりは多くの酒を飲んでいたと言うか、飲んでしまっていた。
その事実は早苗に何か妙なものを気づきやすくさせてしまうには、十分な物であった。
「ふぅん……」
早苗は思わせぶりな態度を取りながら、手に持っている湯飲みを諏訪子の顔を見比べていた。
諏訪子はこの時点で、早苗がいくらかは気づいてしまったことに『ほぞ』と言う物を噛むそんな感情を抱いたけれども。
「高いんですか?これってもしかして」
せせら笑うように湯飲みを扱う早苗の姿を見て、一番知られたくない部分はまだ知られていないと諏訪子はホッとした。
「じゃあ返しますね」
けれども投げつけてくるのは、シラフではない諏訪子には予測するのは中々瞬時に行うことが出来なかった。
「うわぁ!?」
珍しい声が諏訪子から出てきた、甲高くて焦っていて必死な表情だった。好いているとまで言えるかどうかは分からないけれども、可愛がっている男の持ち物それもお気に入りの持ち物を壊してしまうかどうかの瀬戸際であるのは、聞し召している諏訪子の頭でも理解できた。
しかし理解するのが酒で聞し召している今の諏訪子の限界であった、しっかりと握りしめて受け止めるのは至難の業であるけれども壊したくないと言う思いが勝っており、身体全体で抱え込んだけれどもそれが限界と言えた、諏訪子は忘八たちのお頭のお気に入りが壊れないように抱えたまますっ転げてしまった。

転がった後の諏訪子は、湯飲みの全体を丹念に見まわして傷などがないかを確認した後は早苗に何か文句を言おうかと思ったけれども、感情が乗りすぎると諏訪子は自分で自分の状況を理解してしまったので、黙って立ち上がって湯飲みをいつもの場所に安置しに動いた。
その際に、急須の方も回収しようとしたけれども早苗はスッと動いて諏訪子から遠ざけた。
諏訪子が身を乗り出したりすれば、取りに行ける程度だけれども……無理に取りに行くのも必死さから何かを見て取られるかもしれないと思って中々できなかったが。
早苗はこの、諏訪子がどうするかと逡巡している間に諏訪子以外の方をつぶさに観察していた。
「これ諏訪子様の持ち物じゃありませんね?」
「…………早苗」
諏訪子は何も言わずに早苗に対して、急須を渡すように静かながらも確かに迫ったけれども。
「諏訪子様のカバンを含めた持ち物は向こうに、窓際に新しく作られたと思しき棚にまとめられています。酒瓶やら酒器やら、あるいは書類と言った私物と思しき持ち物も一緒に。でもこの、諏訪子様が守った湯飲みも取り戻そうとしている急須の安置されている場所は……ちょっと違う。前々から作られていた棚に置かれていますし、棚の使い方も贅沢です。他の器を全く置かずに、この急須と湯飲みだけの為に棚が一段使われている…………ここにいる遊女は諏訪子様ほどの存在が遊んでいるんですから高級な遊女ですからそれらの持ち物かなとも思いましたが、だったら他の湯飲み以上に贅沢な安置のしかたが解せません、これだけ遊女がいればそれらの私物はどうしてもひとまとめにしてしまう、なのにそれが成されていない、諏訪子様の持ち物は向こうに置かれているからこれは諏訪子様の持ち物でもなさそう……諏訪子様、誰かに熱上げてますね?具体的にはこの湯飲みと急須の持ち主に」
「…………」
諏訪子は何も申し開きをせずに、黙って早苗が持っている急須を取り戻そうと動いたが。
もう半分答えを言っているような物であった、この道具の持ち主に熱を上げていると言う早苗の指摘……あるいは、稗田○○のような推理に対してだ。

諏訪子が前に出れば早苗も一歩後ろに行って、そんな形で早苗は諏訪子との急須の取り合いに面白さを感じて興じていた。
「さっきの推理に対して、答え合わせできますか?諏訪子様」
そして早苗は楽しそうに諏訪子からの答えを求めていたが。
「容疑者がそう簡単に推理の答え合わせしてくれると思うか?それは中々手に入らない物なんだよ、よしんば私の物でなかったとしても高級な物品が危ない目に合っているのを、座したままでいるわけにはいかないだろう?」
「ああ、まぁ……そうですね。じゃあまぁこれの答え合わせは今度で構いません、でも答え合わせは絶対にやりたいので……これは持って帰りますね。似顔絵の男、探しておいてくださいね諏訪子様」
そのまま早苗は急須を持ったままで、諏訪子がいる部屋を後にしようとした。
「待て早苗!!」
可愛がっている男のお気に入りの持ち物を、持って帰ろうとする早苗にはついに諏訪子も思い切った行動を取らざるを得なかった。
「答え合わせできたら返すって言ってるじゃないですか~」
けれども早苗はまだまだ、と言うか諏訪子を苛ませることだけがほとんど目的なので実に楽しそうな気配をまるで崩していなかった。
「返せ!」
諏訪子は必死になるけれども、その姿こそが早苗は見たいので諏訪子からすれば必死になればなるほど彼女にとっては不利であった。

「洩矢様!?洩矢諏訪子様!?」
奥からも誰かがやってきた……あの忘八たちのお頭である。ここはあの男の経営している遊郭宿であるから彼がいる事自体は不思議でも何でもないのだけれども。
「ああ、大丈夫大丈夫!早苗の事は私が何とかするから……それよりこの似顔絵の男を探してくれないか?こっちの仕事で悪いのだけれども」
「ああ……」
忘八たちのお頭は、諏訪子から似顔絵を受け取りながらも彼ほどの忘八たちのお頭と言う立場に座れている彼が、早苗が遊ぶように持っている急須をしかもそれが自分のお気に入りの逸品である事にはすぐに気づいた。
それ以前に今の早苗に注目をしない物が、えらくなれるはずはなかった。
「大丈夫、大丈夫、早苗の事は持っている物も私が何とかするから……ええっと、あんたも何かあるのかい?」
何とか忘八たちのお頭を下げようと諏訪子は努力したけれども、彼は中々帰らずに手に持っている書類の方を気にした。ここで言う事は出来ないなと思いつつも、どうやら何事か持ち上がったらしい。
次から次へと、諏訪子は心中でそう毒づくしか出来なかった。

「…………ああ、なるほど」
だが早苗は、諏訪子と忘八たちのお頭の間の目配せを見て気づいてしまった。
「これ、忘八たちのお頭さんの持ち物なんですね。だったら納得、諏訪子様の部屋は貴方もしょっちゅう入るでしょうから私物を置いてあっても不思議ではない……きっと高いんでしょうね」
けらけらとしたような雰囲気を出しながら早苗は急須を取り回しながら、なおも遊んでいた。
「ああ……東風谷様。そうですね、高いですね。それ以上の意味も無いとは言いませんが」
「あっそ」
早苗は軽い返事をしたと思ったら。
「じゃ返します」
今度は忘八たちのお頭に対して、急須を投げてよこした!
「うわぁ!!」
お気に入りの一品であるものが中空を舞えば、忘八たちのお頭ほどの存在でも声を上げてしまうし。
「熱!?」
急須にはまだ不幸な事に、お茶が少し残っていた。熱湯ではなかったがまだ十分な温度が残っていた。
「あっはっはっはっは!!」
早苗は大層笑いながら、諏訪子や忘八たちのお頭から離れていった。
だがある程度歩いたところで、くるりと振り向いた。その時の早苗の視界には、熱湯とまでは行かないが熱いものを被った忘八たちのお頭をせっせと介抱する諏訪子の姿があった。
「あ~やっぱり」
早苗はただ一言そう言ったのち。
「さっきから諏訪子様、乙女の顔してたから。そうじゃないかなと思ってたんですよ。やっぱり諏訪子様、この男に熱上げてたんですね」
そして明確な事実を早苗は、諏訪子に対して指摘した。






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最終更新:2021年06月06日 16:16