手持無沙汰でなおかつ、やるようなことに役割も何もない事に上白沢の旦那は鬱々たる気分を抱いていたし、何よりも先ほど聖白蓮から食らった嫌味、あの子は弔われるにはいくら何でも若すぎると言う言葉が、やはり、聖白蓮ほどのいわゆる良い人から皮肉を食らってしまえばその余波と言うか、打撃と言うのはどうしても長引いてしまう。
どんなにこの尾を引く精神的打撃から回復するまでを早く見積もったとしても、この一件が片付かなければならない、すなわち二人の犯人――そう、上白沢の旦那は自然と『二人の犯人』と心の中で思っていた、どうせ下手人はあの夫婦だ――に相応の罰を受けさせた後だ。
つまり上白沢の旦那がこのまま、特に何もせずに――その間だって妻である上白沢慧音は手をギュッとつないで彼を慰めてくれている――突っ立っているだけでは、この精神的打撃からの回復が早まることなどありえなかった。いわれのない罵倒を受けたがために夫婦ごと、一時的だとは信じたいがたとえ一時的であろうともふさぎ込んだことは、上白沢の旦那の精神的打撃の回復に役立つ事態の収拾が進まない事を意味していた。
上白沢の旦那は何度目かに、ふさぎ込んだ稗田夫妻がこもっている人力車を見たとき、ようやくと言った具合には時間がたっていたのだけれども、自分が結局は○○をこの期に及んでも頼っているですら無く依存していると、上白沢の旦那は気づいてしまった。
やはり自分が、動かなければならない。
上白沢の旦那は再びそう考えた。
じっと、上白沢の旦那は押し黙ったままであった。
妻の上白沢慧音はそんな夫の姿に対して、酷く傷ついてしまったからだと考えて、彼の手をただ優しく、それでも自らの存在感を確かに主張するように強く握りしめていた。実に優しかった、上白沢慧音は。
確かに上白沢慧音の考えた通り夫である彼は酷く傷ついていた、けれどもそれは惨たらしいこの事件だけが理由ではなかった。
自分一人では何も、全くもって状況と言う物に対して寄与をする事が出来ない事に対してこそ上白沢の旦那は傷ついていた。
別に妻である慧音は、一線の向こう側であるからと言うのも理由ではあるけれども、優しいからそんな旦那が気にしている事をやや困りながらも、気にはしていないから大丈夫だと答えてくれる。実際の所で本当に気にはしていないし。それ以上に心配すらしてくれる、気を使ってくれているなどでは無くて本気で心配してくれる。
多分であるけれども、稗田○○だって同じような事を言うであろう。
けれども当の本人が気にしている以上、妻や親友と言ったどれだけ近しい存在が気になどしていないと声をかけて呉れようとも、意味と言う物は無い。
ふつふつと、上白沢の旦那は青年時代以来より忘れていた、あるいは慧音の迷惑になりかねないと自覚しているから忘れようと努めていた、一角の存在となる野心が義憤と共に噴出してきた。
そして厄介な事に、今回はあのクソッタレな、よりにもよって実子を亡き者にした上に父親は酒を飲みながら遊郭で管を巻き、母親の方は○○の心証を良くしようとして却って逆効果だとも分からずに件のお菓子屋の夫婦を罵り。
あまつさえその罵り方は、老婆の方に子供を成せないからだ出る事をあげつらうと言うやり方は、実は稗田夫妻すらも馬鹿にしていると言う事に気付かずに、実子の遺体にも興味を示さずに、帰ってしまった。
そんな連中なんぞ、いやそんな連中は何としてでもどうにかしなければならない。
野心交じりの義憤ではあるけれども、上白沢の旦那は動かねばと言う気持ちが固まりつつあった。
悪い気である、けれどもその悪い気と言う奴は今はまだそこまで大きくもなく、そして不幸な事に上白沢の旦那にはそんな感情を隠すだけの技量は持ち合わせており、折り合いも悪く○○も引きこもっていた人力車から降りてきた。
○○の姿はいつもとは明らかに違っていた、良くも悪くも好奇心が旺盛なはずなのに今回の○○からはそう言った気配が見えず、言い方は悪いが、性も根も尽きている無趣味の老人のような気配すら見えた。
○○はまだまだ若いと言うのに。
「すまない」
それに○○が真っ先に謝罪するかのような気配を見せたのだって、上白沢の旦那にとっては○○らしくなくて、もっと言えばこんな○○の姿は見たくなかった。いざその姿を見れば呆れたり苦言を呈する癖に、上白沢の旦那は、彼は○○には傍若無人であって欲しかった。
そんな傍若無人な○○を何とかする、あるいは押さえるような役割に上白沢の旦那は自分自身の存在意義と言う奴を見ていたのだと、はっきりとこの場で自覚した。
「どうした?○○、お前らしくない……ああそうだ、奉公人が一人いないけれども、件のお菓子屋の老婆が心配だからついて行ったよ」
○○に対して、どうか元に戻ってくれと言うような気持ちも込めながら、上白沢の旦那は優しく声をかけた。
けれどもお前らしくないと言う言葉に、○○はちょっとした笑みすらこぼすことは無かった。本当に○○が参っているのだと理解するにはもう、十分であった。そもそもが稗田阿求の身体の事で魅力以外の部分で否定されるのは、逆にしてみれば上白沢の旦那が上白沢慧音の事を様々な意味で否定されるのと同じである。
○○と上白沢の旦那は、その点においては同志とまで言ってしまってもよかった。
一線の向こう側を嫁にしてしまって向こう側が想像以上に危なっかしい精神世界である事は理解しつつも、また振り回されることがあっても、それでもやはり嫁の事を、○○の場合は稗田阿求で彼の場合は上白沢慧音の事を、もはや他の女性など考えられないと言うぐらいには、愛してしまっている。
だから○○と上白沢の旦那はその点では同志とまで言っても良かった。
「……俺も阿求もあの悪意にやられてしまった。少なくとも今日はもう動けない……長引くかもしれない、どうにかしたいのに俺の身体の問題ではないから、どうする事も出来ない」
そんな上白沢の旦那にとっての同志である○○が、まことに彼らしくもなく弱々しくつぶやいてそのまま一番の友人であるはずの上白沢の旦那からの、彼からの言葉も効かずに踵(きびす)を返してさっきまでいた人力車の方向に戻っていった。
少しばかりふらついていた、全くもって異常事態だ。
少しばかりふらついている様子の○○に、辺りの歩哨に立っている奉公人達は様子のおかしさに気づいてざわめきだしたが○○は手を振って大丈夫だと言う風に指示したけれども、辺りに声をかけてやる余裕は無かった。
そのまま○○は、妻である阿求と一緒に人力車で帰って行ってしまった。
「何があったんだ?」
慧音がいぶかしみながら、帰って行く人力車とそれについて行く何人かの奉公人の姿を見ながら、夫である上白沢の旦那に声をかけた。
状況が状況であるから、肩に手を置いたりして慧音がその魅力を上白沢の旦那に与えようとはしなかったが、それでもやっぱり手先の方はそれとなく触れてきて慧音は自分と言う存在を彼に与えてくれていた。
そしてそれに対して、上白沢の旦那だって決して無反応と言うわけにはいかない、なぜなら彼は結局のところで妻である上白沢慧音を愛しているのだから。
「稗田阿求が生来の身体の弱さから子を成せない身体なのは、まぁ、暗黙の了解でありつつも有名だが……あの女、つまりあの兄弟の母親の方が……」
みなまでは言わなかったが、これだけ説明すればもう説明したも同然だろう。
「死んだなあいつら」
慧音は冷たく、そう言い放った。
「私だってわきまえているさ、私と比べれば稗田阿求は貧相な身体ではあるが、ネタにするのは肉体的魅力で止める分別はある」
稗田阿求の事を、その肉体的魅力の低さから慧音の方が優越感を抱き、あまつさえ隠してはいるけれども馬鹿にすることはあっても、そこまでは一線の向こう側ゆえに時におかしくなる慧音ですら、触れない部分であった。
そんな一線の向こう側ですら、恐れて触れない部分を奴は簡単に触れてしまった、その恐ろしさと言うかともすれば相手の余りにも想像力だとか、そう言う物が欠如した姿にこそ恐れを抱いてしまっていた。
ともあれ最高権力への無礼は、最高戦力をもってしても用語が不可能な状況になってしまった。
(これはこれで、やりやすくなったのかな)
最高権力である稗田阿求はもちろんであるが、最高戦力である上白沢慧音すなわち彼の妻も匙を今この瞬間に投げた。
免状とまでは行かないかもしれないが……それでも、動くための壁は無いも同然と言えた。そもそも彼は、あの上白沢慧音の夫だ、ただそうであるだけで色々な特典が付きまとっている。
今回はその付きまとっている特典に対して、前後関係が逆かもしれないが、正当性を与えたいと上白沢の旦那は、もはや完全にそう思っていた。
上白沢の旦那の心中には青年以来の、野心が今完全によみがえった形であった。
「なぁ」
しかし妻である慧音は、やはり自分の事を愛してくれているからだろう、上白沢の旦那が覚えてしまった青年以来のいわゆる野心に気づいてしまったし、すくなくとも妻である慧音は彼のそう言う部分を好きだとか嫌いではなくて不安視していた。
「私を嫁にしたんだ、それでどうか野心を収めてくれないか。中々驕った言葉だと言うのは分かっているが、人里の最高戦力を嫁にすると言うのは伊達ではないはずだ」
完全に、はっきりと、上白沢慧音は自分の夫に同化その野心の向かう先を自分だけにしてくれと願った。
少しばかり上白沢の旦那が反応したのを、妻である慧音の眼は彼の口角の端っこがピクピクと動くのを見て、行けるかなと言う希望を抱きながら……こんな状況だと言うのに慧音は彼の手をしっかりとした力で、そして艶めかしく指を絡ませながら握ってくれた。
「私は君を守りたいんだ、義務感だとかではないよ愛を持って守りたい。君は私の受け持った生徒の中で一番危なっかしいが、一番他とは違う思想があった。だから気に入ったし、守りたいと、本気で思っている」
真っ直ぐとした視線をもってして慧音は、自らの夫である彼の事を見つめていた。無論の事で指はなおも艶めかしく動いて、彼の指や手に絡みついてくれていた。
彼女は夫の野心を自らに対する情欲へと変換しようと、努力を重ねていた。
悪くないと思ってしまったが、真似事とはいえ上白沢慧音と一緒に寺子屋で教鞭を振るう事が出来る上白沢の旦那は、そうは言っても冷静な部分が多かった、情欲で野心を覆い隠すよりも野心に対して完全ではなくとも満足感を与えた後の情欲の方が、たぎるのではないかと。上白沢の旦那はそう考えた。
ただそれは幻想郷の重鎮が警戒心を抱く唯物論的価値観が、上白沢の旦那にそのような思考をもたらしていたのかもしれない。
「慧音」
握られていない方の手を使って上白沢の旦那は、慧音が握ってくれている手から慧音の指を一本一本、しかしながら出来る限り丁重に外していった。
「野心交じりの義憤だけれども、俺は今回の下手人を処断してやる。子供は特に教育はこちらの専権事項ぐらいに思っているのに、それを邪魔された!」
そして上白沢の旦那は、この時はっきりと野心を口にした、野心交じりの義憤と言う風に表現したのは自分の行いが決して純粋ではないと言う事に対する、ある程度の罪悪感を示した形ではあったけれども、やはり野心の方がはるかに大きかった。どうにも罪悪感は、そして義憤ですらも、もしかしたら秒単位で薄まっているかもしれなかった。
「何をイチャイチャと」
そして義憤の薄さは、この場合では部外者からの特に今は聖白蓮からの心証に大きな悪影響を与えるものでしか無かった。
聖白蓮の後ろには、布にくるまれた一つの大きな……つまりはあの兄の方の亡骸が入っているのが明らかな一つの大きな物体が横たわっていて、てゐがそれを運ぼうとしていた。
聖白蓮が申し出た通り、あの夫妻がまともにどこかの檀家やあるいは宗教施設に帰依しているとは思えないので、聖白蓮を首魁としている命蓮寺が丁重に弔ってくれるのだろう。
けれども子供が不条理に死んだのと、どこか感情が宙をさまよっている上白沢夫妻に対して苛立ちを聖白蓮は感じたけれども、けれども彼女は雲居一輪の一件でスネに傷がある上に、稗田阿求と上白沢慧音の醜いとしか言いようのない嫉妬心と優越感のぶつかり合いを見ていた。
「……もう好きにしてください」
苛立ちと一緒に出てきた幻想郷の、特に人里の権力者の深淵で理解しがたい精神構造と火薬庫としか言いようのない性格に、聖白蓮は苛立ちよりも厄介ごとを回避したいと言う思いの方が勝った。
最初のしずしずと言うたたずまいでは無く、この時の聖白蓮は非常に足早であった。
そして聖と同じことをてゐも考えていたのか、てゐに至っては上白沢夫妻の方向を全く見ずに亡骸を運んで聖白蓮について行った。
「ああ」
上白沢の旦那は、はっきりと言って逃げるような姿を見せた聖白蓮に対して心外そうな声を出した。
「できればもっと批判してほしかった、この野心のせいであるはずの義憤だって疑われて当然なのだから。聖白蓮の目には見えていたはずだ、俺が、はっきりと言ってヘラヘラしていた事は、なのに何も言わなかった。無視された」
上白沢の旦那、慧音の夫の言う通りであった。そして自分自身よりも周りの方を謗(そし)られた方が効くと言うのは、慧音にとっても同じであった、そしてましてや彼女は一線の向こう側である。
これが慧音に対して、夫の野心を肯定するような感情を作ってしまった。
聖白蓮に認めさせたいと思った、私の夫はかなりやれるのだぞと。
「そうだな、お前はかつては野心と唯物論価値観の喧伝と人間はやれるのだぞと言う証明の為に、私の命を狙おうと計画出来るぐらいに、結局実行はしなかったとはいえその計画をいくつも作れる程度には頭がいい……確かに、腹が立って来たよ聖白蓮の態度には」
上白沢慧音の言葉には物騒な言葉が並んでいた、しかもその物騒さが自分に向いていると言うのに楽しそうであった嬉しそうであった。
上白沢の旦那は少し恥ずかしそうにしていたが、物騒さとは相いれない感情であるのは言うまでも無かった。
「今から思えば実行しなくて本当に良かったよ、最高戦力の価値をあの時の自分は過小評価していた」
やめてくれと手を振る上白沢の旦那の顔は、笑っていたが剣呑であった。
しかし今度は上白沢慧音も、夫の手を握って止めなかった。
彼女の表情は、そして態度と言う物は、送り出すような物であった。
「行ってこい」
慧音はそう言ってしまった。
「ありがとう、けれども○○に挨拶だけはしてくるよ、ちょっと俺が動くと教えておいた方がケジメは付けれるだろうから」
上白沢の旦那は満足そうに歩き出した。
上白沢の旦那が稗田邸に赴いた時、確かにいつも通りにその敷居を通る事は出来たし、○○の私室に案内もしてくれた。折悪く私室に○○はいなかったが、すぐに来てくれるとのことだ。
けれども、いつもよりも時間がかかっているなと街ながら思った物のしかたがないとしか思えなかった。
やはり、あの悪意にさらされた事により稗田夫妻のどちらともが不調を抱いてしまったようで、その事実は奉公人達にも右往左往とさせるのには十分であった。
奉公人の一人に至っては、阿求が冷たさや寒さを体の毒にしていると忘れて、冷たい飲み物を用意してしまって年かさの奉公人に、ご夫妻に何か飲み物をと言う思いは汲んでやるが冷たい物は厳禁だと、注意されているのを見かけもした。
それを見たとき、○○は決して身体は弱くは無いのを思った、なのに○○は阿求に合わせて他の奉公人と同様に自分も冷たい物を避けてぬるいか熱いものを飲んでいる。
○○から財産を横領していた犯人達を、稗田阿求にバレる前に動き出す前に始末するために、そして始末した後の半ば呆然とした状況で、手を下したと言う事実を何よりも血の匂いを上書きするために酒を飲んでいた時に、ビールを飲んでいたぐらいか。
そんな例外中の例外を除けば、常日頃から○○は気をやって冷たい物は飲んでいない、細かい気配りや気遣いの存在を思わせるには十分であった。
……ここに来てまた上白沢の旦那は自分が慧音と比べて小さい存在だと、それを気にしてしまった。
無論慧音は気にしない、むしろこちらが色々と気にしている事を不安視する立場だ。今回は聖白蓮に侮られた事を発端に、そして事件が寺子屋の領域にも食い込むことを理由に見送ってくれたが、果たしてそれがいつまで続くか分からない、○○が調子を戻せばやっぱりと言う感じで慧音が自分を止めに来るかもしれない。
再び慧音から、がっしりと手を握られたとすれば自分はそれを振りほどけるだろうか、そう自問自答したが多分無理と言う答えしか出てこなかった。
どうしても振りほどいて、この野心を実現して落ち着かせるために再び動く自分を想像できなかった。きっと慧音は野心の代わりに慧音自身を与えてくれるだろう、いつも通りの事だし、彼が慧音を受け入れてしまってもやっぱりいつも通りなのだ。
……それでは駄目だ。○○の友人であり名探偵でもある○○の相棒の立場に、特に相棒の方は稗田阿求から無理にそうさせられたとはいえ、○○の近くにいる事を悪い風には思っていないが。
自分に功績の一つも無いのはやはり、我慢ならなかった。
「すまない、待たせたな」
上白沢の旦那は己の内側にある野心について、じっくりと見つめ直して肯定した辺りで、ようやく○○がやってきた。
その第一声は無論の事で、待たせたことに対する謝罪であったが気にはしていなかった。
「いや、いい。あの女の出した悪意は間近で聞いていたから、体調がおかしくなっても不思議ではないが……お前よりも稗田阿求の方が心配だな」
上白沢の旦那がそう言うと、○○は目をパチパチとさせながら少しばかり狼狽、そんな気配を見せた。
「ああ……まぁ君なら大丈夫か。今の阿求は興奮しすぎているからあんまり良くない、俺みたいに一次的に気力を失ってしまって何もできないよりは、マシなのかもしれないが……それでも身体の弱い阿求の事を考えれば、暴れすぎるのも体力を無駄に消費してしまって良くないから……寝かせたよ」
寝かせたと言う言葉に、中々剣呑な物を上白沢の旦那は感じ取ったが、剣呑さを彼が感じたことを○○は打ち消したがっていた。
「薬は使っていない、ただ休んだ方が良い横になった方が良いよと、何とかそう言い聞かせて阿求には休んでもらった……薬を使わずに済んだのは本当に良かった、本当に良かったよ、本当に」
やはり○○はまだまだ、本調子ではないと上白沢の旦那はこの短い会話で断言できた、○○は会話のような事をやりつつも、どこか、上白沢の旦那の事を見ていなかった。
いまだって本当に良かったと言っている時、いや実際にその通りなのだろうけれども、だけれども本当に良かったとうわ言のように何度もつぶやいている○○は、まだ精神的な疲弊から回復したとは上白沢の旦那にはとても言えなかった。
「○○」
上白沢の旦那は、これは自分が動く余地が想像以上に大きそうだと、そう思ってしまった事による喜びを必死になって抑え込みつつも、○○に伝えようとした。
「こっちもこっちで稗田阿求の事が心配だ……○○、君は稗田阿求の横についてやった方が良いと考えるよ」
おかしなことは何も言っていない、どの奉公人がこれを聞いたとしても――上白沢慧音の夫だからと言う事もあるが――おかしいと思ったり言う事そのものがおかしいとなるだろう。
けれどもその内実は、上白沢の旦那が一番よく分かっているけれども、○○に大人しくしてほしい動かないでいてほしい、今回ばかりは自分が目立ちたいかその邪魔にならないでと言う何とも自分勝手な理由であった。
だからこそ上白沢の旦那は落ち着いて、慎重に言葉を重ねたのだけれども……体のちょっとした震えや○○からの返答をまだかまだかと、上白沢の旦那は焦ってそのような姿を見せてしまっていた。
「…………」
宙をややさまよっていた○○の目線が上白沢の旦那に向いた時、○○は彼の眼を表情をそして雰囲気を見るために全体を、時間をかけて見ていた。
上白沢の旦那は、はやり過ぎたかと己の心を
「そうだな、心配だよ」
どっちに対して?と上白沢の旦那は思ったが口の端っこを動かすことなく、耐えられたことを彼は自分で自分を褒めたかった。
「…・・・阿求のそばについていたいのは全くもって、本音だからね」
○○はそう言うと、また少し考え始めた。余計な事を言いかねないと上白沢の旦那は分かっていたので、ずっと○○の方だけを見ていた。
「ああ……」
ずっと見つめられている事に○○が気づいて、短く返事のような声を出した。
「そうだな……現状、俺はあんまり動けない。阿求が興奮している事もあるけれども、俺だって精神的な痛手から回復したとはちょっとまだ言えない」
だからしかたがない、と言うような雰囲気を○○から感じたが上白沢の旦那は何も言わなかった、大丈夫そうだからだ、自分が動けそうだからだ。
「頼むよ」
重々しい言葉であったが、○○からある種の免状をもらった瞬間でもあった。
「ああ!任せてくれ!!」
上白沢の旦那は少し我慢しきれなかった、大きな声であった。○○の表情に怪訝な物が出てきたが、先の言葉を撤回はしなかった。
「うちの奉公人に何人か、付いてもらうように頼むよ……一人でやるのは色々と、大変だろうし。俺もあの人たちの手は借りているから」
それを言う時の○○は、上白沢の旦那に対して一歩寄った。圧をかているのだと言うのは明らかであったが、○○も友人が相手となるとやはり弱くなってしまいかけられた圧力はこれ一回のみであった。
「大丈夫だとは思うが」
どういう意味で?と思ったが、心配の向きがどのような物であるのかは、もう○○は気づいていると見てよいだろうから、自嘲気な笑みを思わず上白沢の旦那は出してしまった。
「ああ…………」
少し長めのため息のような物が○○から見えたが。
「目立つのは好きなのか?」
○○から思ってもいなかった質問をもらった、けれども今更この質問をはぐらかす必要性は感じなかった。
「ああ、求めている。野心、あるいは名声のような物が欲しい」
なので上白沢の旦那は正直に答えたら、○○は少しだけ笑ってくれた。悪い意味のない、ちょっとした微笑であった。
「そうだな、それを批判する権利は俺には無いだろう。分かった……心配と言えば心配だが、阿求の方が心配だから頼むよ」
「ありがとう」
ある意味でもなんでもなく、確かな免状を○○から得た上白沢の旦那は素直に礼を述べるのみであった。
感想
最終更新:2022年02月09日 22:27