「動かない方がいいって、言ったのに…。」
天子が僕の方へ歩いてくる。ゆっくりとした歩みにも関わらず僕との距離が縮まっていくのは、
僕が身動きが取れないせいである。地面の割れ目に上手い具合に足が挟まり、僕は彼女を見上げる
ような格好になっていた。地を震わせることができる彼女にとっては、この程度のことは朝飯前なの
かもしれなかった。あれだけの力を使った筈なのに、天子は疲れた様子も見せずにこちらへ向かってくる。
体重を感じさせない、天を歩むような足取り。地を這う人間とは異なり、天に住む住人である天子。
そんな彼女が僕に手を差し伸べた。地面に倒れ込む僕に向かって。
「はい。」
彼女の細い、綺麗な手が日の光を浴びて輝く。
「………。」
彼女の手を取るべきだと理性では分かっているのだが、いざ手が動かない。何が問題なのか。意地、怒り
拒絶、あるいは畏れ。まぜこぜになった感情が僕の体の中を荒れ狂い、溢れ出る直前でギリギリに押しとどめ
られていた。コップの水が零れそうで膨れあがったまま、そのまま零れずに留まっている。今までの自分の
行いを見透かされているようで、そんなちっぽけな感情に囚われている自分が矮小に思え、そして人間の
力を超える彼女の存在に嫉妬すらしているようで。激情の色がついた細い息が、僕の口から僅かに漏れ出して
いた。
「○○は助けてあげたんだから。ほら。」
周囲の物が崩れ去った中、周りで動いているのは僕と彼女だけに思えた。他の人よりも特段に神様に
認められるような良い事をしていた記憶がない以上、僕がいまここで無事でいられるのは、天子がそう
望んだからに他なかった。そんな犠牲を払ってでも僕は彼女の手を掴むべきなのか。神の怒りによって
滅ぼされた旧約聖書に名前が残る都市。そんな中でも僅かながら神が掬い上げた人はいたように、外界の
朧気な記憶が引っ張り出されてきた。僅かに笑みさえ浮かべている彼女。神の慈愛と怒りは矛盾なく同居
できることを、僕は知ってしまった。
「……。うん…。」
「よろしい、○○。」
彼女の手を掴んだ拍子に僕の視界は曇ってきた。あっさりと僕を引きずり出す天子。一センチも動かなかった
僕の足は、スポンジに挟まれていたかのように抵抗無く地上に現れた。涙が溢れ僕はひたすらに泣いていた。
天子の肩に顔を埋めながら僕は泣いていた。
感想
最終更新:2022年02月09日 22:36