「こちらが刀になります。」
男の側で控えていた妖夢が手に持ってた小さな刀を手渡した。鞘には覆われていれども、武器として使う
には少々小さすぎるであろうその刀は、明らかに護身用であることが見て取れた。刀を受けて唾を飲む男。
男は緊張のためか、手の平が少し湿ってきたように感じていた。周囲を見渡す男。この後の目的を考えれば、
なるべく万全の状態で臨んでおきたかった。なにせ一世一代の大行事であるのだから。
男の視線と手の動きに気が付いたのだろう。妖夢が手ぬぐいを男に手渡した。本当に勿体ないぐらいの
従者であった。少なくとも男が生きている間には。
普段は風流な石が敷き詰められていた白玉楼の庭は、今日は白い布が敷かれていた。白く何物にも
侵されないその色は、本日は別の意味を如実に表していた。例えそれが、この屋敷にいる僅かな人にとって
であったとしても。それは明確な事実を告げていた。
男が布の上に乗せられている座布団に正座をした。彼女の計らいであろう。この場にはそぐわないような
柔らかな感触であった。姿勢を整え、
幽々子に向かって顔を向ける男。桃色の衣装を着ている彼女とは
相対するように男の衣装は白色であった。
暫く、沈黙が流れた。風が流れ、桜の花片が庭に舞い込む。まるで彼女がかつてこの形になった時のように
男が刀を抜いた。短い刃を自分の腹に突き立てる。しかし、その手が動かない。僅かに布きれ一枚で遮られ
ている生と死の境目が、あまりにも男にとっては大きすぎた。男の全身から汗が浮かびたちまちに肌の上を
流れていった。荒い息が口から漏れる。逡巡する時間。男にとっては走馬燈すら浮かばずにただひたすらに
動かなくなった己の手を動かそうとしていた。
男の戸惑いを見て取った妖夢が、後ろで構えていた刀を鞘に入れようと刃先を返した。彼女の主は未だに
視線を男から外していなかったが、最早彼女からすれば見ていられなかった。一旦場を仕切り直すために、
男に声を掛けようと踏み出した妖夢の足を、低い声が止めた。
それは声と呼ぶには少しばかり低すぎた。獣の唸り声のような、言葉にもならない程の低い声。地を這う
ように命の底から突き上げる、音とも評される声にならぬもの。しかしそれは、男の明確な意思が乗せられ
ていたのだから、やはり声と表現するべきなのであろう。それは彼女へ見せる男の意地なのか、あるいは
苦悶が漏れ出ていたのか。それとも生き物が最後の時に叫ぶ生理的な反応なのか。いずれにしても男は声を
発し------そして刃を突き刺した。
妖夢が刀を再度抜き、男の方へ一閃を走らせた。鞘に収め中断しかけた格好から、まるで居合いのような
形になりながらも確実に男の生命を断ち切った刀は、余りの鋭利さに血飛沫一つ飛ばさずに再び鞘に収め
こまれた。崩れる男の体を支える妖夢。徐々に男の魂魄が体より抜け出していく。一歩、一歩、男の幽体が
足を進めていく。死の世界へと新しく生まれ変わった男が幽々子の面前まで進んだ。幽々子が体を返し、
襖を開け、部屋の奥へ進んでいった。昼間にもかかわらず日の光に照らされていないその部屋へ、
男は彼女に従い進んでいった。
感想
最終更新:2022年02月09日 22:38