意気揚々と、こんな状況だと言うのに上白沢の旦那の状況を心中を言い表す言葉となると、本当にそのような前向きで楽し気な言葉をどうしても使わなければならなかった。
一応、一番の友人である○○からの忠告通り、名を上げる絶好の機会にたかぶった気持ちを押さえるべきだと言う言葉には、確かに従っていると言うよりは従おうとはしていたけれども。
九代目様の夫で、旦那様である○○から注意して見て置いて欲しいと言う懸念を伝えられている、後ろをついて歩いている奉公人達は全員が大なり小なりではあるが、同じように思った、なるほどこれは少し心配になるなと言う思いだ。
それでも上白沢の旦那は、あの上白沢慧音の夫を、妻である上白沢慧音の方が大分に置いて甘いとはいえ人里の最高戦力の夫を続けられることは彼が決して並みの存在ではない事は、間違いは無かった。
懸念を○○から、この奉公人は知らされているがために色々な所作を見て『ああ……あれがそうか』となる事はあるが、それは近くで観察しなければ中々分からない事なのは彼にとっての幸運な事であった。
付き合っている相手があの稗田夫妻であるから、分かりにくいのかもしれないが上白沢慧音の持つ神通力だってかなりの物である、ましてやここは人里の内部であるし……何よりも子供が死んだと言う、今回の事件の話はもう人里の隅々にまでめぐっているそれこそ表の世界からは離されていたり、意図して離れている遊郭にだってこの話は段々と浸透していた。
もうすこしすればあの、一応は実の母親の方が稗田阿求の身体の弱さを子供を成せない身体である事をあげつらったと言う事実も、浸透してしまうだろう。
そして射命丸をはじめとした天狗のブンヤの面々が、今回に限っては話題も話題であるからあまり飛び回っている様子が無かった。
いつもと違って上白沢の旦那が、稗田家の奉公人を後ろに引き連れて往来を堂々とそれこそ喜びと言う、この事件においては似つかわしくない感情を持ちながら歩いているとはいえ、まだほとんどの里人に上白沢の旦那の名声欲と名を上げたいと言う依存症にも近い考えを気づかれていないのは、この事件の特異さが彼の事を助けていた。
件の、あの兄弟の残念ながら実の両親の家にたどり着いた時、やはりあの両親は評判が相当に悪いと○○がにらんだ通りであった。
件の両親の家の戸口は、さすがに蹴破られてこそいないけれども大工ではない上白沢の旦那ですら、一目見てちょっと歪んでるなとすぐに思う事が出来るぐらいに曲がっていた。
中々に暴力的で衝動的な勢いのまま、あのお菓子屋の主人がこの家屋に突入したのは火を見るよりも明らかな、そんな雰囲気が大きく出されていた。
しかしながらそんな暴力的で勢いのみの行動が、きっと大音響と一緒にやってきたはずなのに恐怖だとか不快感と言った感情が周りには無かった。
この家屋の周りで野次馬のようにしてややまとわりついている者たちはと言うと、ようやく状況が好転してくれたと言うような清々しい、そんな空気が明らかに存在していたし。
上白沢の旦那、あの上白沢慧音の夫である彼が明らかに稗田家の手の者と一緒にやってきたのを見て、沸き立つとまでは行かないけれども野次馬たちは興奮の度合いと言うのを確かに高めていた。
その中には○○が聞き込みを行った男性の姿もあった、彼の表情もこの家屋にて住んでいるあの夫婦に対する、ざまぁみろと言うような意識が強くその顔に出ていた。
稗田家の奉公人の一人は、目ざとくこの場に漂っている空気感と言う物をかぎ取っていた。
この空気感は、上白沢の旦那にとってあんまり良くないとすぐにそう思った、名を上げたがっているのはともかく焦っている者にとって、周りからの何と無しに与えられてしまう後押しは少しどころではなく危ないと考えざるを得なかった。
奉公人の一人はスッと、それとない動きで上白沢の旦那の横について彼がキョロキョロと周りを見やっても、その視界に一番見えるのは自分だと言う状況を何とかして、ある程度でも良いから作ろうと努力した。
幸いにも上白沢の旦那は、中途半端な位置で開けっ放しになっている戸口を最後まで開けるかしようとしていたが、歪み過ぎていてうんともすんとも言わない様子に、ちょっとした呆れた笑いを浮かべながら中に入っていった。
上白沢の旦那に気づかれないようには、最大限に気を配ったが辺りの役者がやってきたと言う空気をそれに上白沢の旦那が気付かずに済んだ、その幸運を目ざとい奉公人はかみしめていた。
「ああ!」
しかしながら幸運は長く続かなかったと言うか、結局は上白沢の旦那の心理状態を薄氷と言える危ない状況になるのは、運命だったのかもしれない。
先にここに突っ込んできた件のお菓子屋の老夫妻がいるのだから、この二人は間違いなく信心深い存在である。
純狐とそれの抑え役の
クラウンピースもいたが、クラウンピースは純狐を抑えるのが限界であったし、純狐がこの状況を止めるはずはない。
「あら、来たのね」
純狐はユラユラとしながら、そう言うのみであった。しかしユラユラしているだけのはずなのに、圧はすさまじかった。純狐が本気になればたかが人間なんぞ、そこまでの存在だ。
そんな存在が今はこの老夫婦の肩と言うか、完全な後ろ盾となっている。
純狐、稗田家、そして上白沢の旦那、信仰している対象が完全に味方していると言うのは心地いいを通り越した感覚を味わわせてしまうだろう。
稗田夫妻に対してはもちろんであるけれども、人里の最高戦力である上白沢慧音に対する畏怖や信仰だって存在しており、半自動的にその夫に対する敬意や信仰に類するものも有していた。
「お出でになってくださったのですね!」
仰々しいとまで言えるほどに恭しく頭を下げる、件のお菓子屋の主人だ。その後ろには彼よりも少しばかり年上の老婆、彼の妻もいたがその彼女だって信仰の態度と言うのは夫である彼と大差はないどころか、むしろこの短時間でより深まった可能性もある。
稗田阿求は明確に彼女の肩を持っているからだ、仲間意識まで阿求は彼女に持っていた。子供を成せない身体と言う生来からのどうしようもない部分を理由として。
信仰心のある存在にとって、稗田阿求から肩を持たれると言うのは恍惚になってそれこそ人格の変化すら与えてしまうだろう。熱狂的になってしまうには十分な材料である。
今回来たのは○○では無くて上白沢の旦那であるけれども、それでも信仰心がある存在が熱狂的になるには十分だ。
稗田○○は既に、阿求が可能な限り手を尽くして名探偵であると言う事を喧伝している。その余波によって上白沢の旦那の名声も高まっている、上白沢慧音の夫であることも加えて道すがらで会釈を何度も受けるような立場に立つ事が出来ている。
とはいえ本人は今の状況に対して、まるで満足はしていなかった。
彼の中では、今の名声はあくまでも友人である○○と妻である上白沢慧音の、そのおこぼれであるとしか思っていなかった。
だから、思わぬ悪意をぶつけられて稗田夫妻がともに、一時的に動けなくなった今、彼は動き出してしまったのだ。
○○は優しいし阿求はそんな状況ではないから、悪い風には思わないけれども皆が皆、上白沢の旦那の名を上げたいと思う気持ちに好意的と言うわけではなかった。どんなにマシでも不安に思う者はいるとしか言いようがない。
○○から懸念を伝えられているこの奉公人達は、表情こそ稗田家で奉公を行えるだけあってましてや裏の仕事も頼まれる事があるから、こういう熱狂的な感情からは実は信仰心が最も高い集団であると言うのに、遠いどころか遠ざかろうと言う努力すらしていた。
ああ……○○様の、旦那様の懸念が当たりそうだ。
今の状況を見て奉公人達はみんな、そのような事を思わざるをえなかった。熱狂と言うのはどうしても短絡的な動きや思考になりやすい、この奉公人達はそれを十分に理解している者たちばかりであった。
「ああ……○○の代わりで済まないが、まぁ会いたくないだろう○○も、あんまり。だから私が来た」
言葉の上とそして行動でも上白沢の旦那は、熱狂的な姿を見せる老夫婦の事を落ち着けるようにそして謙遜するような言葉を出したけれども、その内心における興奮に関してはどうしても否定できなかった、本人だけでなくこの場にいる者全員がである。
その事実は件の、あの兄弟のどうやら実の父親も気づいていた。この男は、件のお菓子屋の主人が勢いのまま突っ込んでいっただけあり、はっきりと言ってボロボロであった、この男の方が若いはずなのだけれども酒と遊郭におぼれている男よりは、毎日において子供の相手を行っているお菓子屋の主人であるこっちの方が、老境に差し掛かっているとはいえ体力に関してはずっと上だったと言う事だろう。
とはいえここでの問題はと言うと、この酒と遊郭におぼれているこの男ですら、上白沢の旦那が内心で抱えている興奮と言う奴に気づいてしまった事だ。
「なんだよ、楽しそうだな」
一番まずいのは、憎まれ口を叩いた事だ。稗田家そのものではないとは言え、その旦那様の盟友を相手に、よくもまぁとはついて来ている奉公人達も思ったが。
怒りよりも前に頭の悪さに対する呆れと言うのがあった、あるいはもうこの男、ある程度の部分では諦めてもいるのかもしれなかった。
「お前みたいなクソッタレを殴るのは、まぁ確かに楽しいな!」
とはいえ頭に血が上っている状態の、このお菓子屋の主人は我慢と言うのも中々出来なくて直情的であった。
「弟の方はどこだ」
お菓子屋の主人の方が、またしてもこの男をぶん殴ったのを見て上白沢の旦那は一応止めたが、それは会話に支障が出るからと言うだけでぶん殴ったこと自体は、問題にしている風は無かった。
会話が終われば、聞きたいことが聞ければ、間違いなく何があっても上白沢の旦那は止めなかったであろう。
だからなのかもしれない、この男がさっきは憎まれ口を叩いたのにいきなり黙ってしまったのは。
目的としている情報や状況を得る事が出来れば、最後の一線を踏み越えてくるかもしれないと言う恐れが、どうやらこの男にはあるようであった。
裏を返せば自分のやっている事が、世間一般においては決して受け入れられない事である、そこに関しては理解しているのにあの兄弟を肉体的にも精神的にも苛んでいるのは、驚きではあるけれども。
子供の事が好きではなくとも、世間から責められないように腹の底を隠して、何もしないでいたり遠ざかっておくと言う事すら出来ないこの男は、いや妻の方は今のところここにはいなくて見えないけれどもこの夫婦は、欠陥があるのかもしれなかった。
「はぁ……」
何分か経った折に、駄目だこいつは何も言わないなと判断した上白沢の旦那は諦めた声を出した。
「そもそも○○が最初に来てたんだ……焼き直しだったな」
そう言いながら上白沢の旦那は純狐の方を見やった。
「一応○○も、あからさまにヤバいと言うか荒っぽい動きが大っぴらに起るのは、良くないと思っている」
「そうね」
頭に血が上っているのは純狐も同じはずなのだが、以外にも彼女は上白沢の旦那の言葉に対して、理解を示した。
「白昼堂々は、不味いわよね」
しかしながら純狐が続けた言葉と、表情に浮かんだ獰猛さを携えた微笑を見れば、理解の程度はあまり深くは無かった。
けれどもこの際、たとえ浅くともまったく理解してくれないよりはマシと思うべきだし。
「ここに見るべき物はないわね」
そう言いながら純狐は、相変わらずユラユラとしていたが純狐程の美人となると何をやっていても様になるのは、良くも悪くも目を引いてしまう。
ただ純狐は慣れているのか、それか些末と思って問題にしていないのか稗田家の奉公人達や上白沢の旦那ですら少し以上に見とれた様子を見せても、一切の反応が無かったけれども。
唯一の例外はお菓子屋の主人にボコボコにされた、この男だろう。何かまた、遊郭で見られた時と同じようないやらしさを感じたのか。
手も足も出ていないが、この男は部屋の端まで吹き飛ばされた。それは純狐がちらりと見ただけで、そうなった。
「○○は大っぴらには嫌がっていたが……時間の問題かも」
その様子を一部始終見ていた上白沢の旦那は、思わずそう呟いた。
奉公人達の考えも同じで、底が抜けるまでの時間はそう長くないだろうとしか思わなかったが。
さっさと底を抜いてほしいと思う者だっている、お菓子屋の夫婦だ。この夫妻の目つきは、態度は、焦れているようであったから。
感想
最終更新:2022年02月09日 22:43