「一度、この場を立ち去ってほしい。勘違いされると困るから言っておくが、二度と戻ってこれないと言うわけではない」
クラウンピースではなくて、純狐にでも無くて、○○は
ヘカーティアの方だけを見て淡々と伝えた。
「まぁ……貴方からの注文である、最低限でも気付かれない様にはしてあげるわ。頑張るじゃ貴方は心もとないなと思うだろうから」
「助かるよ……本当にね」
○○はヘカーティアからの、こちらの立場に則った気遣いや行動の確約を得た事で、心の底から礼を述べるしか無かった。
しかしながら気になる事はある、ヘカーティアは丁寧に礼を述べた○○の事は少しだけ、社交辞令として会釈を返してやる程度で、その後はずっと○○の友人である上白沢の旦那の方を見ていた。
「応援してるわよ、貴方の方こそ立場的に、寺子屋の教師と言う部分で頑張らないとならないって分かっているようだし」
更にはこの言葉である、別れの挨拶にしては妙に立ち入り過ぎていてはっきりと言って不穏であるとしか言いようが無かった。
「向こうを警戒させ過ぎた。今はいったん、引いたフリをしておくぞ」
○○は上白沢の旦那が何かを言う前に、ヘカーティアからこれ以上の刺激を受け取る前に彼の手をやや強く、友人が相手であると考えればはっきりと言って乱暴なぐらいの勢いで、引いて行ってしまった。
その際に○○は上白沢の旦那の目を、表情を、それらを目ざとくつぶさに観察した。
……ヘカーティアから応援された、背中を押されたのが良くなかったのは、全くもって明らかであった。
情欲とは違うけれども――いっその事、そっちのが良かったんじゃとすら思う――興奮を覚えている者の顔とは、間違いなく今の上白沢の旦那の顔がそれであった。
「極刑しかありえないとしてもだ、お互いの立場を考えろ」
○○は上白沢の旦那からの返答は全く聞こうとせずに、ただそれだけを一方的に伝えて、奉公人達を呼び寄せた。
「あまりにも物々しくなってしまった、このままでは連中、亀のように首をひっこめたままだろう。俺と上白沢の旦那はいったん離れるが、監視は継続してくれ。ただし、監視をしている事は気付かれないようにしてほしい……何か動きがあったらすぐに俺達に伝えろ。特に、大きな荷物を持っていたらかなり怪しい」
これだけ伝えれば、阿求があてがってくれた者たちは優秀だから、○○の求めや計画をすぐに実行に移してくれる。
そして件の、もはや下手人以外にはありえない夫妻に与えてしまった警戒心をいったん少なくして、あまつさえ隙を見出そうとしている事にも気づいてくれた。
「もう夜も更けてきている、旦那様と上白沢の旦那様はお帰りになられる。護衛を付けよ」
付いて来た奉公人の中で一番の年長者、すなわちこの場では差配を行ってくれる者が周りにも聞こえるようにそんな声を出した。
他の奉公人は、指示を飛ばしている奉公人の方を向きつつも目線だけは目玉の向く方向だけは、しっかりと件の夫妻の方向を向いているのは見事の一言であったし。
「見ない方がよろしいかと、また媚びていますよ、連中ときたら」
奉公人の一人がそれとなく横にを通る際に、こんなことを伝えてくれた。
唯一良かった点があるとすれば、あの夫妻の頭が思ったよりも良くない事であろう、この期に及んでも媚びれば何とかなると思っている辺りが特にそうだし、そもそも頭が良ければこんな事件は起こさない。
「いったん戻るぞ、俺達もずっと外にいるわけにもいかん」
唯一の懸念は後ろ髪をひかれて、もっと言うならば事を起こすつもりが出来上がってしまったとしか言いようがない、上白沢の旦那の事である。
今日は稗田邸に留め置かせてしまおうかとも思ったが……そうなると上白沢慧音も来かねない、何がどうなってこの男と上白沢慧音が一緒になったかは、実は○○ですら知らないのだけれども、上白沢慧音が彼の事を随分と言う表現ですら生ぬるいほどに愛してしまっているから、離れ離れなどたとえ一日でも耐えられるものかと、○○はその結論へとすぐに到達した。
下手をしなくとも上白沢慧音は、自分も稗田邸で旦那と一緒に夜を明かせるようにやってきてしまうだろう。
そもそもが上白沢慧音だって自分の妻、稗田阿求と同じく一線の向こう側だ、程度と言う物は同じか場合によってはもっと酷いの認識以外にはあり得ない。
――爆発したのは阿求が最初とはいえ、上白沢慧音も肉体的魅力の低い阿求に対して、醜悪とも言える優越感を抱いてしまっている。
「明日は、こっちから寺子屋の方に迎えに行くよ」
互いの妻を同じ屋根の下に置いておく訳には行かない、それ以外の考えは俎上(そじょう)にすら上がる事無く、それゆえに極めてするりと迷うことなく先の言葉は○○の口から出てきた。
「ああ……そうしてくれると助かる。俺も慧音とここまで離れるのは随分久しぶりなような気がする」
幸いにも上白沢の旦那も妻である慧音の事を思い出したら、少しばかり落ち着いてくれた。
「慰めになるかどうかは分からないが、明日の朝までは家でゆっくりとしていよう。せめて身体だけでも休めないと……」
その言葉はどちらかと言えば、○○自身の為に与えているような言葉であった。
何よりもだ。
○○はやや意を決して、とある方向に……東風谷早苗がいると思われる方向に目をやった。確か最後に見た時は、あの場所にいたはず……とはいえ移動している可能性は十分にあると言うか、移動してほしかったのだけれども。
東風谷早苗はやや、ユラユラとしていたけれども全く同じ場所にいたと言うか、いてくれたと言うか。
何にせよ彼女は○○が自分を見失わないように、それを気にかけてくれていたのは全くもって間違いは無かった。
(見なければよかった)
○○は早苗の気遣いに気付いてしまった瞬間にサッと目線をそらしたけれども、見たと言う時点でもう遅かったのだった。
○○の目には確かに、自分を見てくれたと言う事実をもとに笑ってくれた早苗の姿が、それをはっきりと脳裏に刻んでしまったのだから。
「帰ろう」
上白沢の旦那は既に、一旦帰る事を本人もその気でいるから、○○の言葉はいくらかどころでは無くてちぐはぐな物であったが。
その言葉は○○自身に向けられていたのだから、傍から聞けばちぐはぐであって当然であった。
「おかえりなさい、あなた」
稗田邸に帰ってきた○○、入り婿と自らを嘲っているとはいえ稗田○○は妻である阿求からの確かな愛を受けている。その証拠が、何分前からいたのか定かではないが阿求がとてつもなくきれいな所作で正座をして、○○が帰ってきたら頭を下げてくれた事である。
「ああ……阿求。こんな場所で座ってたら、身体が冷えてしまうよ」
寒さ冷たさが大敵であるはずの阿求の身体で、玄関先で待つことが決して楽な作業でない事は明らかである。
傍には、奉公人の誰かが持って来たのだろう火鉢がパチパチと音を立てていた。風情のある音も今この状況ではどうにも、緊張感を醸し出す神経に障る音でしかなかったが……寒さが大敵の阿求の事を考えれば、暖がちゃんとある事をまずは喜ぶべきであった。
とはいえ、暖があるとは言っても玄関先ではましてや火鉢一つでは急場しのぎ以上にはなってはくれない。
「部屋に戻ろう、阿求。俺も今日はもう、外に出る気力が出てこないし……俺の予測では、何かあったとしても早朝だろう。まさかこんな時間に動き出すほど、連中もそこまで頭が悪いはずは無いだろう……」
「出来ればそうあってほしいですね」
消沈して休息を求めている○○の姿に、阿求も件の夫妻に対する腹立ちが蒸し返ってきたのだろう、今の一言にはかなりの毒とトゲが存在していた。
せめてものまどろみすら邪魔されたとなったら、阿求の怒りは天を衝く勢いとなるのは火を見るよりも明らかであったが……
(悪い予想ほど当たる物だ)
口にこそ出さなかったが、○○はひそかに覚悟と言う物を決めていた。
仮に外れても良いのだ、この予想と覚悟は。その時はその時で、運が良かったとしてもうしばらく横になれる時間が増えたと、そう考えればいい本当にそれだけで済むのだから。
けれども、○○が密やかに心の準備を決めていたのに、彼の妻である阿求が気付かないはずは無かった。
風呂にせよ夕飯にせよ、就寝のための布団の準備にせよが、いつもよりもずっと輪をかけて素早くなされていたのには、○○も気付かざるを得なかった。
風呂上がりに阿求が身体を拭く物を抱えて、脱衣場に来てくれた事に関しては最初こそ驚いたけれども……そもそもが阿求が真っ先に気付いていてしかるべきなのだから、急いでいる気配のある○○の近くにいて、せめてもの雑談やらを出来るのが、この時ぐらいしか無いと考えたのだろう。
それでも、阿求はせめて自分が○○の風呂上がりの身体を拭いている時ぐらいは、軽い話に終始しようと努力していたのだけれども。
軽い話題を行う事に努力が要すると言う時点で、根本的なところで場の空気が和らぐことなどあり得ないと言う残酷な現実が存在していた。
結局のところで、阿求も途中から軽い話題を探すのを諦めてただただ、○○の身体に風呂上がりで付いた水滴を、これを出来るだけ優しく拭い取る事に集中していた。
もちろん出来るだけたおやかに、柔らかい手つきでありつつも丹念に阿求は○○の身体についた水滴を拭っていた。
結論を言えばそれで良かったのだった、下手に会話を取り繕うよりもずっと、今の阿求の行動の方に愛情と言う物は大いに現れてくれていた。
「今日初めて安堵出来た」
阿求に身体を拭いてもらっている最中に、○○がボソリとつぶやいたこの言葉に全てが凝縮されていたと、もうそう考えても全く過言ではなかった。
人里と言うのは、極端な事を言ってしまえば人里の最高権力者である稗田阿求の庭である。
そこを舞台にして下手をすれば人里の外にまで無理やりに、名探偵である稗田○○の活躍する舞台をこしらえてくれている。
であるのならば、人里の外に今日は出ていない○○は、阿求からすれば○○も自分の庭を駆け回るかのように行動してほしかった。
けれども今日はそうではなかった、この事件があまりにも、子供が不条理に殺されたと言う事実が名探偵と言う役柄を楽しんでいる○○でさえも、今回ばかりはいつものように動こうと言う気を全く起こさせなかった。
それが自宅である稗田邸に戻って来て、ようやく安堵のため息を漏らす事が出来たのは、いつもの阿求ならば入り婿である事に心のどこかで確実に引っ掛かりを持っている○○からのこの言葉に、キャッキャと子供のように喜ぶはずであったが。
「良かった……事件は全く良くは無いけれども……この家の中ならせめて、楽になってくれて本当に、良かった……」
今日の阿求は小さな声でそう呟きながら、まだ湿り気のある○○の身体にひしとしがみついて来ただけであった。
「ああ、阿求……」
○○も小さく笑みを、力や元気はない物の阿求の事を優しく迎えたいと言う感情を出しながらも。
「ああ、でも……俺の身体はまだ濡れているから……冷えると阿求には良くないよ」
そう言いながらも○○は阿求の身体を一思いに、遠ざける事はしなかったと言うか出来なかった。
阿求の愛情を無下にしたくないと言う思いはもちろんあるのだが、いまはこの、阿求からの確かな愛情を感じていたいと言う甘えたいと言う気持ちが非常に、強かったからだ。
そのまま食事をして、朝まで眠る事が出来たらどれだけ良かっただろうか。
いや、○○自身はもう何時にたたき起こされることになろうとも別に良いのだ、問題は阿求だ。
阿求の身体が弱いと言う事も確かに、○○が思う心配の理由の一つではあるのだけれども。
「旦那様、阿求様……!」
奉公人が火急の知らせを届けに、ふすまの向こう側から声をかけてきた時にまったく同時に○○と阿求は起き上がったが。
○○はため息交じりとはいえ諦め交じりの心の準備をしていたが、いや阿求だって似たような心持だったはずなのだが。
それでも阿求はやはり、自らの命数が少ないがゆえに邪魔されたと言う感情が○○よりもずっと激しいもので、声にも出さずに奉公人にも気付かれないように配慮はしていたのだけれども。
頭を思いっきりかきむしっている阿求の姿は、布団が敷かれていて常夜灯のみの薄暗い部屋の中でも、いや暗いからこそ阿求の憤怒にゆがむ表情は○○ですらビクッと背筋に走る、恐怖や衝撃から来る物が存在していた。
「――――はい、お入りなさい」
たっぷりの間を使って、かきむしったから乱れた頭髪をそれ以上に表情を落ち着けてから、阿求は知らせを届けに来てくれた奉公人に入室を許した。
この時には○○はもう、枕元に事前に用意しておいた外出用の衣服に着替え始めていた。
どうせ、奉公人がこんな常識外れの時間にやってくる理由と言えば、今の段階ではたった一つしか思い浮かばないからだ。
「奴ら動いたか?だとすれば本当に頭が悪いな……いやそもそも頭が悪いからこんな状況を招いたとも言えるか」
奉公人が入ってきた時には、もう○○は着替えを半分ほど以上に終わらせて質問すらかけるほどに事態の中に再び入り込んでいた。
ただこの時、いくらかの覚悟と心の準備をしていたとはいえ阿求と同様に○○だって機嫌は悪かった。奉公人に対して初めて見せるm、明らかに雑でトゲのある姿であった、たとえ奉公人に対しての物では無いとは言えども、一瞬返事を躊躇するには十分であった。
「早く」
ただ一番機嫌が悪いのは稗田阿求であった。今回の事件は嫌なところだらけだ、無理も無いのだけれども。
生来の身体の弱さから子を成す事が出来ない阿求に、この事件を突きつける事がどのような反応を引き起こすか何も考えなかったのだろうか。
子供を二人も殺して、あの夫妻は阿求の堪忍袋の緒を切るどころかずたずたに引き裂いてしまった、最も本人はまだ気づいていないだろう。
ただ……気付ける程度の知能があればそもそもこんな事にはならないとは断言できた。
「は、はい!旦那様のおっしゃられた通りで、あの夫婦が動き出しました。旦那様が予測された通りで……大荷物を持っていなければまだ、監視に留めておいたのですが――」
恭しくもそれ以上に無礼を詫びるようにしながら、奉公人は状況を説明してくれた。
「何かを捨てに行くような感じか?」
○○が明らかに吐き捨てるように言った。
「……そう表現せざるを得ません。連中の向かっている先も、あまり性質の良くない連中がゴミを焼き捨てている場所でございますし」
奉公人にとっても嫌な物が出てきたのか、○○ほどではないが悪い感情を吐き出していた。
チラリと○○は壁にかかった時計を見やる、日の出まではまだまだ時間があって早朝と言う事の出来ない時間であった。
「こんな時間にゴミ捨てね」
もはやこのあまりにも早すぎる時間が、連中の後ろめたさを象徴していた。
「現場を抑えてくる。阿求はそのままでいいよ、温かくしておくんだ」
○○は阿求にそのまま寝ていていいから、とも言おうと思ったが……多分寝ないだろうとしか思えなかった。寝ていなさいと言えば却って気を病ませそうな気すら、○○は瞬時にそう考えてしまった。
どの道で阿求は自分のやりたいようにしかやらない、起きて待っていたとしてもそれは純然たる阿求の意思である、それを邪魔する事や考えを曲げさせることは、○○にすら出来ない。
「とにかく、まだまだ寒いんだから。温かくしなさいね」
結局○○は繰り返し、阿求にはせめて暖かくしておきなさいとそれしか言う事は出来なかった。
だけれども出来る限りの事はやりたい、行きしなに○○が使っていた寝間着を阿求の肩にかけてやった。
どれぐらい意味があるかは分からないが、少なくとも寒々しい玄関まで○○を見送りに行くことは防げた。
――できればそれすら負担になると○○は思っているから、やらなくて良いとすら思っているが。阿求は相変わらず所作正しく座ってお辞儀をしながら、向かっていく○○の事を見送ってくれた。
「ええ……」
外を出た際に、奉公人が何人か○○の事を待ってくれているのはとても頼もしく思える光景のはずなのだけれども。
頼もしいはずの奉公人以外に、見える姿が、東風谷早苗の姿があったのには深夜ゆえの、またこんな深夜に起き上がる羽目になった事の苛立ちが多少なりとも、○○に辟易としている感情を表に出すことになってしまった。
もちろん奉公人達だって、東風谷早苗が相変わらず首を突っ込み続けている事に何も思っていないはずは無いのだけれども。
この人里の中でも特に精鋭と言えるのだけれども、飛べない存在と飛べてしまえる東風谷早苗を比べるのはやや酷と言える物であった。
「間違いなく強いでしょうから……」
奉公人の一人が、○○に宥恕(ゆうじょ)を希う様にそっと言葉を出してきた。実際問題でこの奉公人の言った通りなのだから、だいぶ困ってしまう。
「まぁな……まぁ良い。損にはならないはずだ」
何か言いたいことは言いたいのだけれども、特に東風谷早苗本人に。だけれども○○は短い言葉で、東風谷早苗がまだついて来ている事を無視することに決めた、何よりも時間があまりにも惜しいのであったから。
文句を言われると思っていた奉公人達は、大きく安堵のため息を……漏らすことはしなかった、それだけは何とか堪えるようにと言う心配りぐらいは出来て当たり前であった。
だからこそ稗田家の奉公人として選ばれたのである、第一今回の事件では稗田夫妻のどちらともが苛立ちをためている。
その事は東風谷早苗も気づいていた、だから○○についていけて嬉しいと言う気持ちは表に出さずに努力していたが……。
努力すればするほどに、東風谷早苗はその内面に置いて、○○のそばを動き回れることの嬉しさを強く認識してしまうのであった。
物々しさは指揮する存在の感情に大きく影響を受けているのは、明らかであった。
さすがに稗田家ほどの者たちが動いているのだから、野蛮なやり方、たいまつを掲げておかしな念仏を唱えるなんてことは無かったが。
懐中電灯を振り回しながらも整然と動く様は、より狂信的な物を感じるには十分な威圧感が存在していたし。
その後ろ側で必死に喜びの感情を隠しているが、どうにも浮かれている東風谷早苗の姿も合わさると、いよいよこの集団の物々しさ以外の恐ろしさが、感情的な部分つまりは不気味さが際立ってしまうのであったが。
状況をいくらか以上に知っている者たちは、稗田○○を先頭にして物々しく動き回る様子を見ても、頼もしさを感じてしまうぐらいであった。
それゆえに人里は稗田阿求にとっての庭なのである。
そして稗田家の恐ろしさと威光と言うのは、人里とは違う経済圏ともなれるはずである遊郭を支配している点からも、上品な世界だけの上品な話以外も存分に可能な事を意味していた。
稗田家の目から見れば、ゴミがたまったらうらぶれていて人気のない場所に持って行って、全部焼いてしまう何て乱暴なやり方は、乱暴すぎて白眼視すらするのだけれども……そんな世界にすら稗田家の力を行使することは可能であった。
性質の悪い者たちがゴミを焼きに来る場所に、既に先回りさせていた稗田家中の者ではないが、色々と弱みを握っていたりまたは直接的に金を渡して、協力させられる者たちはいつだって確保していた。
だから今日この時だって、何かあったらここに捨てに来るだろうとは、嫌な物だが予測していたから、連中が何か持ち込んでも中々焼けない状況を作るのはたやすかった。
○○たちがやってきた時、案の定と言うか手はず通りと言うべきかは分からないが、件の下手人夫妻は事前に配置されていた者たちと、早く順番をまわせと言いながら押し問答をしていた。
うらぶれた場所なだけあり、またゴミを焼くための場所でもあるから……煙以外の臭いも鼻を突いて来て普段は稗田家と言う、この人里で最も上品な場所にいる○○は表情が歪みに歪んでしまったし、それは付いて来てくれている奉公人達だって同じであった。
「残念だったな」
○○は勝ち誇った気持など、まるで浮かべる事も出来るはずは無く、ただただ怒り心頭と言った様子で「この桶の中身を全部調べろ!」奉公人達にそう命ずるのみであった
「ふん。子供一人隠すには十分な大きさじゃないか?」
奉公人達が桶の中身をぶちまけながら、そしてその量が桶の大きさの割に入っているゴミの量が少ない事も、傍証ではあるがここまで来ればダメ押しに近い印象を辺りの者に与えるのみであったけれども。
「……何もありません」
嫌な言葉が聞こえた。
「なんだって……」
○○はうわ言のように、めまいのような物も感じながら立ち尽くしてしまった。
「今日の今日だぞ……明らかに急いでいる、何かあるだろう」
○○のうわ言はまだ続くが。
「分かってます!子供の持ち物まで今日の今日に焼こうとしている連中が、何も隠していないだなんて思っていないのは私達も同じです!!」
○○にとって幸いな事と言えば、奉公人達もこいつらが何も隠していないはずは無いと、そう考えてくれている事であったが。
大きな桶――子供一人隠せそうなぐらいに大きな――を奉公人達がゴロゴロと、何度も裏向けたり元に戻したりしているが、ごみの中に子供の本や持ち物まで乱雑にぶち込まれていたのに、何も見つける事が出来なかった。
「何か隠しているでしょう?」
東風谷早苗も、○○の姿を見れたら――それも成功する姿――十分と考えていたのに、まさかこんな状況に陥るとは思っておらず、見ているだけで良いやと言うような態度だったはずなのに思わず件の夫妻に対して声を出したが。
それで分かった事もあった。
「何ニヤケてるんですか!?」
傍証に次ぐ傍証であるけれども、早苗が気づいてくれた事でこいつらが無実のはずは無いと、○○からすれば勇気のような物を得る事が出来た。
……問題があるとすれば○○に勇気を与えたのが、稗田阿求では無くて外の女である事なのだが、今はまだそれが問題になる事は無かった。
東風谷早苗からニヤケている事を指摘された夫妻は、何とか取り繕おうとしたけれども普段からそこまで真面目ではないこいつらが簡単に真面目そうな顔を取り繕えるはずは無かった。
早苗の言葉でサッと○○は件の夫妻の事を見やったら、嫌なニヤケ面は案の定で隠し切れてはいなかった。
「何かあるはずなんだ」
○○は相変わらずうわ言のように、そして奉公人の中に加わるようにして自分も大きな桶を調べ始めた。
早苗は自分も加わろかと思いつつ、もう一度だけ夫妻の方を見たら『探せるものなら探してみろ』と言わんばかりの、嫌な表情をまた見る事となってしまった。
早苗も最初の○○について回る事が出来る嬉しさは、もう霧散してしまってこいつ等が余計な事をしないようににらみ付け続ける事にしてやった。
しかしながら早苗としては、それはそれで嫌な物であった。
余計な事をしないように抑える役割の存在が必要な事は理解しつつも、ショックからフラフラとしている○○の横に付いてやれない事は全くもって辛かった。
早苗はそんな二律背反を抱えながら、早苗はフラフラと大きな桶を転がすように調べている○○を、せめてこいつらの目に見えにくくすることを考えて立ち位置を調節した。
本当なら眼前に立ちはだかってやりたかったのだが……あんな下卑た連中に自分の、そうは言っても顔も体も自信があるその姿を、間近に晒したくなかったのだ。こんなやつら、ましてや男の方に対してであった。
――○○ならばともかく。
早苗は自然と○○なら別に構わないのだがと、考えてもいた。
「――二重底?」
だが、○○は見つけてくれた。少なくともこの時の早苗や、奉公人達はそう考えていた。
「二重底だ!!」
○○がそう大音量で叫んだ時、奉公人達と早苗は色めき立ったのはもちろんだけれども、件の夫妻が動揺していたのを早苗も奉公人達も、見逃さなかった。
これはもはや傍証では無くて、確実な証拠と言えた。
「底をこじ開けろ!!」
○○からそう言われなくとも、あの夫妻の動揺した姿を見た奉公人の一部はもう既に作業を開始していた。
やはり底をこじ開けられるとまずいようだ、オロオロとしながら何か声をかけようとしていたのだけれども、早苗はあんな人間が○○の近くに寄るのを許せなくて、思わず蹴り飛ばしてしまったが……それを指摘したり非難する者は、最初にここに稗田家によって配置された筋者らしき人間ですら、何も言わずむしろざまぁみろとすら思っていた、そんな表情を浮かべていた。
「――――いました」
合ったでは無くて、いたと奉公人の誰かがそう表現してくれた。品の良さを垣間見させる一言であった。
「旦那様」
奉公人の中で最も年齢を感じさせる、明らかに場を取り仕切る物が恭しく○○に声をかけてきた。
この時にはもう、他の奉公人達だけではなく最初に時間稼ぎをしてくれた、稗田家に使われている筋者ですら、件の夫妻を取り囲んでくれていた。
「あの連中、どうしましょうか」
○○はその時、地面にへたり込むように座りながら両手で頭を抱えていた、最も無理は無いと皆が思っていたけれども。
それでも、奉公人に声をかけられた際には意識が覚醒して、こちらを向いてくれた。
○○の目には、奉公人の一人が弟の方の死体に哀れだと思ったのだろう、持っている手拭いで汚れをせめて少しでも取ろうと懸命に作業してくれていた。
「見える場所に置いておきたい。稗田邸の離れに突っ込んでおいてくれ……今すぐやってくれ!!」
最初は静かに呟いていたけれども、それは決して穏やかだから静かなのではなかった、急に感情の激流がやってきたのか最後の方で○○は、感情を堪え切れずに叫んでしまったが、それがむしろ奉公人達の正義感や義憤を刺激して、件の夫妻を実に乱暴に扱わせる事となった。
ただその時、奉公人達と一緒に筋者もあの夫妻を収容するために向かっていこうとしている時に。
○○は蒼白とした表情ではあるが、じっと早苗の事を見ていた。
もちろん、早苗にだって思慮はあるしこんな状況で○○が何か乙女心やロマンスを刺激してくれるような、そんな言葉をかけてくれるとは思わなかった。
むしろ緊迫した様子しか、早苗はこの時の○○から感じる事は出来なかった。
そしてほとんどの人物がこの場を離れて、あの夫妻を連れて行ったのを皮切りにしたように○○はある場所を指さした。
「見てくれ東風谷早苗、これの意味は君にしか分からない」
○○に言われた通り、早苗は指さされた場所を見れば……案の定であった。
そこは桶の木片の一部で、文字が書かれていた。
その文字は――幻想郷にはそれも人里には似つかわしくないアルファベットであり。
Frances Carfax(フランシス・カーファックス)と書かれていた。
文字の周りにはお仕着せのように何か、まじないを感じさせる模様が描かれていたけれども、それはまったく意味が無い。
むしろ文字を見つけて欲しくて描いているのではないかと言う疑惑まである、はっきりと言って神秘性も荘厳さも感じさせられない、派手な物であった。
「え!?あり得ない!!何でこのキャラクター名が書かれてるんです!?」
「……裏がある。そもそも連中に、二重底を使うような知恵があるとは――それ以前に置けに隠す知恵も怪しいな」
○○は嘲笑しているつもりなのだが、裏の存在に対して○○は素直に嘲笑すら出来なかった。
フランシス・カーファックス。
もちろんこの名前には、外の出身だからこそ衝撃を受ける、それも○○と早苗の趣味が無ければ分からない部分が存在していた。
それは二人ともが好きなシャーロック・ホームズの物語に起因する部分であった。
レディ・フランシス・カーファックスの失踪と言う短編がホームズ譚には存在する。そのお話のトリックと言うか結末は、悪党が金を持っているフランシスを二重底の棺桶に閉じ込めて埋めてしまおうと言う、そんな物語であった。
これ自体が問題なのではない、問題は幻想郷でその話を知っている人間が果たしてどれだけいるかと言う問題だ。
少なくともミステリーや探偵小説が好きな○○と早苗は、そのキャラクター名の持つ意味を理解できるが……この二人がこの事件を真似ることはあり得ない、ならば他の者だと自動的にそうなってしまう。
そしてその裏側は、あの夫妻に対してこれは見つかりにくくするためのおまじないですよとでも言って、上手く書かせたのだろうけれども。
――この裏側は間違いなく、○○に対して挑戦している事が最大の問題であった。
「どうするんですか?」
早苗は○○に、この裏側の存在をどうするか質問してきたが。
その質問に対して○○は再び、頭を抱えてしまった。その姿は先ほど、座り込みながら頭を抱えている時と似ていた、ただ単に座っているか立っているかの違いしか存在はしていなかった。
「まだ話せない……調べはするが、黙って調べる。こんなあからさまな敵意と挑戦状、阿求を刺激してしまう。こんな刺激、身体の弱い阿求には間違いなく毒となってしまう」
「――そうですね」
○○は半分泣いたような声と言葉で、今はまだこの事実を表には出さないで密やかに調べる事にすると言って、早苗も同意したような言葉を出してくれたが。
「奥さんの身体、とっても弱いですからね」
○○はまだ気づいていなかったが、気付けるような精神状態でもないが、早苗の反復した言葉をそれ以上に声色を誰も聞いていないのは、幸運と不運の両方を内包していた。
ただ、今の早苗にはまだ、八坂神奈子には迷惑をかけたくないと言う部分があった。
(あ……
神奈子様、神社を抜け出したの気付いてたら心配するな)
いやらしく反復しつつも、まだ、正気な部分が早苗には存在していた。
感想
最終更新:2022年02月09日 23:28