「よう」
上白沢の旦那がいつものように――かつてと比べて浮ついたような機嫌の良さが見えるようになってきたが――道すがらにある稗田邸に入って来て、御用聞きとは違うけれども稗田○○の様子をちょくちょく確認に来てくれていた。
特に今日の場合は、寺子屋が休日で休みだからか昼を少し過ぎたぐらいの来訪であった。
「ああ」
一番の友人である上白沢の旦那の来訪を、○○は決して嫌がりはしない。
嫌がりはしないのだけれども……直近の事件で上白沢の旦那が現状からの脱却を強引にそして苛烈に推し進めた結果としての、義憤からの刺殺事件……あれは上白沢の旦那だけではなく○○の方の意識にも強引な変化を強要してしまった。
○○は上白沢の旦那を嫌がりなどはしないのだけれども、彼の方から上白沢の旦那に会いに行く頻度は微妙な減少を見せていたのは、○○は既に気付いていた。

「最近顔を見ていないから、元気かなと思ってな」
心中複雑な○○の事に等気付かずに、道中で手ぶらは不味いと思って用意してくれたのであろう、そして世間のよくある男は塩味で女は甘味とは異なり稗田夫妻の場合は、阿求は塩分の強い物を好みその夫の○○は甘いものを好む、それを知っている上白沢の旦那はまんじゅうを携えて来てくれていた。
「何もないからずっと新聞とかを読んでいたんだよ、何かないかなと思ってね。お茶入れるね」
たまには洋菓子を持ってきてくれないかなと自分勝手な事を考えながら、○○はお茶の用意を始めた。
「暇すぎておかしくなってないか心配だったが、大丈夫そうで安心した。でもまぁ、依頼が無いのは少し物寂しいと言うか面白くないと言うか……」
何か厄介ごとを望むような、野次馬のような面持ちで上白沢の旦那は穏やかな午後の空を○○の部屋の窓から眺めた。
「穏やか過ぎるなぁ……」
「過ぎるとは何だ過ぎるとは」
前までならこの会話は、○○が何か騒動を望んで上白沢の旦那がそれを諫めるのが、それがいつものパターンだったのになと少し○○としてはごちりたくなったが、やるだけ無駄だし何だったら有害な行為にまでなりえるのでぐっと耐えてお茶の用意に専念することにした。
やはり、上白沢慧音がやんわりと穏やかながらも確かな圧力をかけているのと、市井(しせい)の評価がもともと高かったのもあり、子殺しの犯人を視察してしまった事件は、事件として扱われていないむしろ英雄譚のように扱われてしまっているのが……
○○は友人に対してこんな表現や評価は使いたくないのに、上白沢の旦那の増長を招いているのではないかと思えてならなかった。
けれども今はまだ、何だか浮ついたような笑みが多いなと思えるだけだし、その浮ついた笑みを妻の上白沢慧音は間違いなくこう評価してしまう。
以前よりも明るくなったと。

人里の最高戦力がこう思っている以上、もはや稗田○○にすらどうする事も出来ないどころか下手に触るべき問題ではなくなってしまった。
○○はお茶を用意しながら、残酷な事を考えざるを得なかった。
上白沢の旦那にはこのまま温室のような世界に、上白沢慧音の庇護のもとで閉じ込めてもらっておいた方が……いっその事で誰も苛まないのではないかと、その中にはもちろん上白沢の旦那本人も含まれていた。

「何か面白そうなものはあったか?」
少し向こう側でお茶の用意をしながら、難しい感情をどうにか処理ししようとしている○○の気持ちには及びもつかせずに、上白沢の旦那は笑みを浮つき気味に出しながら○○が読んでいた各種新聞の束を拾い上げた。
「ほう……遊郭街で刃傷沙汰ね」
めざとくもとは思わなかった、と言うよりはやはりさすがに○○も新聞の一面に踊るこの話題には興味をひかれたので上白沢の旦那がまずそれを話題に出すのは、想定の範囲内でしか無かった。
「うん?この新聞……朝刊じゃないのか?いやと言うか、ここにある新聞全部が夕刊の分じゃないか」
「夕刊に出す新聞を直接印刷所から持ってこさせている。それこそ出来上がった端からカラスがここまで持ってきてくれているんだ」
だから○○が上白沢の旦那に対してめざといなとようやく思ったのは、夕刊である事に気付いた時であった。
とはいえ上白沢の旦那は、天狗が発行している新聞なのだから印刷所も妖怪の山に近いはずなのに、それが店頭に売り出されるよりも早くに○○の目の前にやって来ている。
○○がそう簡単にゴシップを吹聴するような性格ではないから、発行人たちも提供しているのだろうけれども、それは提供する際の心理的障壁を低くする方向にこそ働けれども直接的な理由ではない。
どの様に考えようとも、上白沢の旦那の頭には稗田と言う強大な存在を意味するこの二文字が出てきた。
「まぁ」
上白沢の旦那が予想以上に協力的なブンヤたちの動きに対して目を丸くさせて口もやや開きながら○○の方を見ていたら、やはり彼の方から補足と言うか謙遜あるいは自虐的な感情を出しながら口を開いて答えてくれた。
「割と無理はさせている、こっちは情報をいち早く得られるから良いけれどもタダでとは中々ね。それに渋る天狗のブンヤも全くいないわけではない、盗み見られた場合の事も考えてしまうのがまぁ通常のブンヤの思考だからね」
しかしながら結局は、タダではないとはいえ協力をさせる事に成功している最も大きい、着目するべき部分はそこのはずだと上白沢の旦那は痛感していた。
少なくとも組織力では絶対に、自分では勝てない。それを思うと心が激しく沈鬱で重々しくなってしまう、彼の中にある野心は決して衰えている訳では無いのだから。
「とはいえ今回の刃傷沙汰はそこまで大きな問題にはならないよ。射命丸が週1で何かあれば適時に遊郭街の動向を送ってきてくれているから分かるんだが、単に太い客の取り合いでしかない。遊郭でほぼ毎日遊んでいる洩矢諏訪子もいるから、大きな話にはならない」

○○は色々な事を淡々としゃべりながら、やっぱり淡々とお茶とお菓子の用意を続けていた。
淡々としているのにもやっぱり理由があった、上白沢の旦那が浮ついているあるいは心中のぎらついた物にも気づいていたからだ。
だから淡々と、努めて淡々としておいて上白沢の旦那の心中を刺激しないようにと同時に○○自身に対しても尖った物から遠ざかるようにして置いた。
……もしかしたら黙っておいた方が良いのかもしれないと言う疑念は、あったけれども。
だけれどもここからどうやって穏やかな話題に移行すれば良いのかと言う、技術的に難しい問題が大きくあった。
明らかに上白沢の旦那の様子を過剰に気にして、話題を変えて逃げたと思われるのは必定であろうから。

「お茶の前に少しお手洗いを借りるよ」
何を考えているのか、出来れば落ち着くための時間を上白沢の旦那自信が求めているからだと思ってやりたかった、彼が急に席を立ってお手洗いへと向かってしまったのは。
一応、彼の進行方向は○○も確認した。ここでカッとなって帰られてしまってはいよいよ○○でも対処が不可能になってしまう恐れすら存在していたからだ。
しかしまだ幸いにも、上白沢の旦那は真っ直ぐとお手洗いの方向に向かってくれた。稗田邸は広いから、お手洗いを経由して玄関へ向かうのはかなり不自然な動きとなってしまう。
それを言ってしまえば、さっき来たのにもう帰ってしまう行為自体が不自然なのだけれども、だがさすがに……それは無いと思いたかった。


けれども上白沢の旦那が思ったより危なっかしい事と同じぐらいに、○○の方も危なっかしい状況であったのだ。
違いと言えばそれを○○の場合はある程度自覚している事だけれども。それが良いのか悪いのかは、全くもって不明であった、もしかしたら自覚していない方が阿求が陰に陽に○○の行く道から何かを先回りして掃除をしてくれていたかもしれない。

上白沢の旦那が心中にある劣等感と野心を刺激されて、落ち着きに行くためにお手洗いに向かうと言う方便を用いて部屋を出た後、○○も少し落ち着きたくて窓から景色を見ようと思った。
その○○の視線の先には、窓の外から身を乗り出して笑顔でこちらを見ている東風谷早苗の姿があった。
○○は思いもよらない人物の姿に息を呑んでしまった、だが同時に嫌だとは思わなかった事にも○○は残念ながら気付かざるを得なかった、○○は東風谷早苗の事を全く嫌いになれなかったのだった。
出来れば嫌いになれないで終わって、好きにならないように気を配りは続けているが……
ここで笑顔の東風谷早苗に対して、逡巡しながらも固いながらも笑顔を見せてしまった時点で、○○は踏みとどまれるかどうか非常に怪しいのであった。

「これは、東風谷早苗」
ぎこちない笑顔と声ではあるけれども、○○は窓から身を乗り出してと言う来訪者としてはあまりにもおかしな事しかしていないはずの早苗の事を、迎え入れるような立場を取ってしまった。
もうこれを訂正したり修正するのは難しいだろうし、○○からしてもそれはやりたくなかったと言うのが実際の所であった。
「○○さーん」
そして早苗も、○○が突然自分の姿を見つけたことに驚きこそしたけれども、悪感情を抱いていない事にとても気を良くして、キャッキャとした雰囲気で窓枠から更に乗り出して、室内にいる○○に対して笑顔と、彼女の健康的で魅力的な姿を惜しげもなく披露していた。
確かに○○は早苗の事を拒絶しなかった、けれどもこれ以上の深入りは危険だと言う認識はあって然るべきであったので、立ち尽くしたままでその距離は一歩たりとも縮めようとはしなかった。
「ふぅん……」
○○の中にあるせめてもの防衛本能に対して早苗は少し以上に悲しそうな顔を、恐らくは○○に見せたくて演技が何割か存在している風に左右に揺れたりしながら浮かべていた。
……残念ながら早苗の胸はかなり、大きかった。左右に揺れる早苗の動きに合わせてしなやかに、そして扇情的に揺れ動く部分の存在には、○○はどうしても無視を続ける事が難しかった。
やはりこういう時は不格好でも、わざとらしくとも、○○は目を閉じてしまうのが最も効率的な手段であった。

「ああ……まぁ良いか。今回はそんなに時間取れないし、上白沢の旦那さんが席を立てばなと思ったら立ってくれただけで、十分か」
○○が目を閉じた時に早苗は、今日はもうこれ以上は無理そうだなと認識したのか、悲しそうな声をさらに強くしつつも諦めたような気配も見せた。
「それより○○さん、多分○○さんが気になりそうな……まだ事件にまでは発展していませんが、人里の名探偵が乗り出す理由は十分、いくらでも作れるかと。それに私は諦めてませんからね、○○さんに外の知識で挑発してきた奴を追いかける事も含めて」
○○は目を閉じているので早苗がどのような顔をしているか分からないが、しかしながら何かが、薄い紙きれのような物が空を切る音はしっかりと聞こえた。
なので目を閉じたままでも、○○は早苗が何かを渡したがっている事にはしっかりと気づく事が出来た。
「そこに置いておいて」
かすれるような声で○○はそう言うだけであったけれども、早苗は拒絶されなかっただけでまだまだ先があると考えられるので笑顔を浮かべていた。
「はい」
パサリと言う音が、眼を閉じている○○の耳にも聞こえた後は少しばかりの風が吹いた。

○○は風の吹き方で、何となく早苗が今回は大人しく去ってくれたなとは思ったけれども。
だけれども○○はどうしても恐る恐ると目を開かざるを得なかった、早苗はそんな性格をしていないとは分かっている物の○○自身に対する執着がどうしても見えている以上、いつもとは違うだまし討ちをやらないとも限らないと考えてしまったからだ。

だが幸い、早苗は長期戦をはじめから想定しているようなのでまだまだ彼女は、そこまでの変容を見せていなかった。
つまりは今回の所は、○○にメモ書きを渡すだけで帰ってくれた。

ゆっくりとした動作で、○○は早苗が残していったメモ書きを拾い上げた。
「ああ……」
メモ書きは○○さんへと言うとてもきれいな文字、それが早苗の中にある○○への執着心を現わしているかのようであったけれども。
やはり一番の問題は、内容の方であった。
けれども早苗に感謝しなければならないのは厳然たる事実であった、早苗が外の知識を使って挑発している謎の人物の事を、○○がシャーロックホームズが好きだと気付いてわざわざそこになぞらえて挑発している輩の事を、諦めていないから自分はいち早くこれを知る事が出来た。
そのメモ書きの内容は、比較的安全で人間も遊びに出かけられる原っぱのあたりで、光る獣が出没したと言う情報を書いてくれていた。
早苗のメモ書きはこう締めくくられていた。
何だかバスカヴィル家の犬と似ていませんか?
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最終更新:2023年07月23日 01:23