○○は平静さを保つのが精いっぱいであった。
とっさに○○が使っている本棚に早苗からの手紙を隠したがために、○○は視線をそちら側に持って行きそうになってしまいそれを堪えるのにまず必死であった。
あんまりちらちらと本棚の方を気にしてしまっては……いや、既に気にしすぎて○○の行動はおかしくなっていた。
ちらちらと見ないようにと言う部分には思い至り、更には努めて見ないようにと言う努力の存在もあり成功はしていたが……それ以外の部分においては、失敗を重ねつつあった。
具体的な部分を言えば、○○は本棚こそ見ずに済ませていたけれどもその余波として自らの友人である上白沢の旦那の方ばかりを見ていた。
「……どうした?」
上白沢の旦那もさすがに、気付き始めたような雰囲気があった。
幸いにもまだまだ、○○の事を信頼しているそもそもが彼相手に疑うと言う概念が少ないために、やっている事が冗談含みの範囲だと思ってくれているのか、半笑いではあったけれどもだからこそシャレとして上白沢の旦那は目の前にいるおかしな行動を取っている○○の事を考えてくれていた。
「……話題が無くて困っている」
さすがに○○がこの場において何も言わないのは、それが最も悪い手段なのは彼も瞬時に理解できるのだけれども。
それに対する効果的な返し方、あるいは回避の手段と言うのがとんと思いつかなかったのが実情であった。
ひねり出せた言葉は○○も自分で自分に対して鼻で笑いたくなるぐらいにお粗末な、そんな一言であった。
だけれども、やはり○○と上白沢の旦那にある少なくない時間を友人として過ごしていると言うこれまでの実績がここで生きてくれた。
「はははは、穏やか過ぎるのも名探偵には毒か」
上白沢の旦那は、彼にしてはやや珍しくかなり崩れた表情と体勢を見せながら、目の前で自分かばかりを見ている○○に対して、全くもって真っ当な友人が友人に対して見せるような表情を朗らかに浮かべてくれていた。
だけれども、そんな上白沢の旦那にも苦手と言うか警戒心を呼び起こす存在と言う物はあった。
また足音がこちら側に寄ってくる音が聞こえてきた。
奉公人では無いのは明らかであった、○○の部屋で止まった後にしずしずと、座って居を正すために動作する音が聞こえなかったからだ。
上白沢の旦那が声を全く出さずに口だけを動かして『稗田阿求』とつぶやいた。
そのつぶやきを行っている瞬間は、上白沢の旦那は誰もどこも、目の前にいる友人である稗田○○の事すら見ていなかった。
それだけ、上白沢の旦那にとっては稗田阿求と言う存在は人里の最高戦力である上白沢慧音を妻とする事が出来ていても、人里の最高権力に対しては狙われるいわれや罪などは存在しないけれども、一定以上の恐怖心を絶対に内包させながらこの人里で生きていた。
ただ……上白沢の旦那には申し訳ないのだけれども、稗田家で動いている奉公人やそれこそ稗田阿求を妻としている稗田○○の場合は事情が違った。
信仰心であった、これらの者が恐怖しない代わりに稗田阿求に対して持っている感情と言うのは。
この信仰心を稗田○○が思い出した時、少しばかり精神が正常な動きに戻る事が出来た。
やはり自分には阿求しかいない、阿求の隣にいないと自分が自分ではなくなる感覚を○○は思い出す事が出来た。
――まだ東風谷早苗の存在は心中に置いてあるのだけれども、彼女の事を決して嫌いにもなれないのであった、自分の感情に嘘をつくのはやはり難しかった。だからせめて表に出さないように気付かれないようにしなければならなかった――
上白沢の旦那は阿求の来訪に緊張感を取り戻し、そして稗田○○は自分の魂がもはや稗田阿求に対して致命的な部分においてまで必要不可欠であることを再確認した。
それらの心持の調整を、どちらともが瞬時に行った。瞬時に行わざるを得なかった、と表現するのがより的確だろう。
「あなた」
阿求は他の奉公人と違って、何の予備動作も無く○○のいる部屋のふすまを開けてくるからだ。
当然だ、稗田邸は現当主であるこの九代目様の本拠地である。
人里の最高権力者が己の邸宅で一体何を気にする必要があると言うのだ、との表現は間違ってはいないが枝葉であると言うのは稗田という家あるいは組織と仲を深める事が出来ている上白沢の旦那には、理解が出来ていた。
(今日も焦ってるな。今日明日の話ではないとはいえ、短命の業がある以上他の一線の向こう側よりも旦那と一緒にいられる時間は、圧倒的に少ないからしかたが無いのだが……)
上白沢の旦那がやや哀れそうに稗田阿求を見て、彼女が持つ短命の業がそもそもで彼女の行動原理に著しく影響を与えている事に思考を向けたが。
とうの稗田阿求は上白沢の旦那に全く声をかける事はおろか反応すら無かったと言えた。
反応する必要が無いのだ阿求にとっては、上白沢の旦那が○○に会いに来たのもう知っているならばこの部屋にいるのも分かっている、これ以上どう話を展開させろと言うのだとまで稗田阿求ならば不機嫌そうに答えかねない。
それよりも、上白沢の旦那に見られていようがややの遠慮と気恥ずかしさから目線を背けてもらっていようとも、稗田阿求にとっては一番の存在である○○のひざ元へ滑り込む事の方が……彼女の短い時間を有効活用すると言う意味でも、より重要で高潔とまで言える行為なのだ。
(重要だろうってのはともかく……)
とはいえ上白沢の旦那としても、何らかの宗教的恍惚さすらを持った笑みすらをも、阿求が○○の元に短い距離なのに駆け寄るがごとく向かう中での表情として観測してしまえば。
遠慮とはばかりから目線を少し逸らしていたはずなのだが、そこにいくばくかのゾッとする、下手に触れるべきではないと言う回避する感情が出てくるのであった。
幸いと言うべきかどうかは分からないが、上白沢の旦那が恐怖含みで稗田阿求から目をそらしたので――最も稗田阿求が上白沢の旦那程度に邪魔をされようとも、どうとだってしてくるけれども――ので、稗田夫妻の会話は何の隔たりや遅延を受けずに始まった。
「あなた、射命丸が今週分の遊郭街の動向報告に来ましたが。せっかくですしあなたもお聞きになりますか?最近は依頼の閑散期が期せずして訪れましたし。運が良ければ何かあるかもしれませんから」
どうやら射命丸文は、明らかに――稗田阿求の身体の弱さと小ささを考えればほとんどの女性がそうなってしまうけれども――稗田阿求よりも恵まれていて魅力的な肉体を持っているけれども、毎週毎週あげさせる遊郭街動向調査と天狗の種族としての長い物には巻かれて行く気質が、ようやく阿求からのある程度以上の信頼を得たようで、さすがに二人っきりは不可能だけれども阿求の目の届く範囲であるならば、我慢できるようになってきたようである。
それに依頼の閑散期が期せずして訪れて……○○が飽いたような刺激を探すかのような落ち着かない様子をやはり阿求は何とかしたいと思ってくれていたようである。
――ソワソワしていたとしてもその理由は閑散期が原因では無いのだけれども。だがまだ、幸いにもその事実は知られていなかった。
「射命丸か……」
○○は射命丸の名前を呟きながら何か、感情や思考を転がすようにどこも見ていないのだけれども何も考えていないはずは無い、とそう断言できるだけの緊張感は確かにこの時の○○は有していた。
傍から見れば迷っている風な様子だ、何のかんので射命丸はうさん臭い部分を否定できない存在だから。
しかし○○の考えは、秘密を胃が痛くなろうとも隠し通さなければならない彼は、違った事を考えていた……そしてそれはまた東風谷早苗が絡んでしまった。
えらく都合がよく話が転んでいないか……と、もしかして彼女固有の能力である奇跡を起こす程度の能力とやらが、この場において強力な力学として作用しているのではないかと言う直感じみた疑念を抱くに至るのは、それを抱かずにいろと言うのはかなり無茶な話であろう。
だが。
「カマをかけてみるかな、射命丸に……何もなければそれで構わないし、何かあればめっけものとはこの事だから」
あつらえたような怪奇現象を早苗から教えてもらった以上、そしてその現象が自分を明らかに嘲笑している誰かの入れ知恵によるものである可能性を否定できなかった以上、少々強引にでも関わる必要があったのも○○にとっては事実であった。
小膝に駆け寄ってきてくれた阿求を心苦しくも降ろしながら、○○は立ち上がって射命丸が阿求への報告の為に待たされているはずの部屋に向かった。
「ああ……分かっているよ。ついて行く」
その時○○は上白沢の旦那の事を見なかったが、それでも彼は何か返事のような物を……それも恐れからかすれたような声で、○○では無くて阿求に向かって言った。
この友人のかすれたような恐れたような声を聴いた時、しまったと○○は思った、また不用意に阿求にトゲを飛ばさせて上白沢の旦那と言う友人を苛ませてしまった事にだ。
阿求の考える舞台には常に、名探偵の相棒が必要でありその役目は基本的に上白沢の旦那が負わなければならないと、阿求はそう考え続けている。
何より上白沢の旦那は上白沢慧音と言う、阿求自身と同じ一線の向こう側を妻としている、微妙な塩梅の力学や事情などを一々教えなくても済むので貴重と言えば貴重であるはずなのだが……重宝はしているはずなのに、扱い方に苛烈さがどうしても垣間見えていた。
これもやはり彼女が背負う短命の業が、周りへの穏やかさを奪っているのだろうか。
最終更新:2023年07月23日 01:27