毎週の定例行事である遊郭街の動向報告書を射命丸は、稗田邸に持って行った際にいつもの部屋に通されて、この館の主である稗田阿求の事を待っていた。
その時の射命丸は1人っきりでありなおかつ、いい加減稗田邸への訪問にも慣れて来ていたから足を延ばして姿勢を崩した状態で稗田阿求の事を待っていた。

稗田邸の主である稗田阿求がやってきた時はさすがに居を正すが、それだって最初の時と比べれば随分と、楽な姿勢だなとだいたいの者が見ればそう言う印象を抱くだろう。
射命丸としては遊郭街を取り仕切り、また拡大させまいと動いてくれている件の、遊郭宿を経営する忘八たちのそのお頭が遊郭街全体を統制して、また遊郭と言う組織が動き回れないように締め付けている様子を事実だけを淡々と伝えるだけで良い、本当に楽な仕事となりつつあったのが大きい。
稗田阿求としても、あの忘八たちのお頭が遊郭街の拡大を阻止しなければ生き残れないと実感している事、そしてその実感を原動力に拡大阻止に動き、またそれに成功している事は厳然たる事実である。
一線の向こう側となっている存在が、権力を持っている場合が多いとはいえ総数としては少なくいわゆる通常の存在が男女ともに多く、渋々と遊郭と言った存在を認めている事に加えて。
そんな渋々存在を認めている遊郭街が、ギリギリの一線とお目こぼしによって存続を勝ち得続けようと尽力している忘八たちのお頭の事も、やっぱり阿求は渋々に渋々を重ねながらも彼が有能であることを認めなければならなかった。
ここ数か月は、阿求が射命丸からの方向を読みながら渋々と忘八たちのお頭は上手くやっているのだなと、それを確認する作業の場としての機能しか見られなかった。
それが射命丸に対して楽過ぎてこれでまぁまぁな金額のお駄賃をもらっているのが、それに対するいくばくかの恐れ、その程度の悩みしかもっていなかった。

「やぁ、射命丸さん」
だから、稗田○○が部屋のふすまを開けて入ってきた時――当然の事で、妻である稗田阿求もいるとはいえ――には、足を延ばしてそれこそバタバタさせてストレッチのような物をしていた自分の、あまりの間の悪さ運の悪さを呪いたくなった。
更に言えば丈の短いスカートを、どうせ稗田阿求が夫である○○には会わせないだろうと言う、これもまた慣れと言うよりは舐めた考えから、露出の少ない着衣を着替えが面倒なのでいつもどおりのミニスカートを履いて来た自分の考えの甘さを、射命丸は大いに呪うしか無かった。

稗田○○が入ってきた瞬間、射命丸のボケーっとまではいかないが魅力を隠すことを忘れただらっとした姿に、射命丸の目には稗田阿求がはっきりと口角の端をヒクリと動かす姿が見えた。何というか理不尽極まりないなと、射命丸はそう思うしか無かったのだけれどもこんな事が言えるはずも無かった。
だけれども○○は……多分これが彼なりの優しさと言うか処世術なのだろう。
「報告書を」
としか言わなかった、あくまでも射命丸が持って来た情報にしか興味を見出していないと言うそう言う態度を貫いており、射命丸の顔すら見なかった。
せいぜいが射命丸の持ち物、特に今回は傍らに書類束を置いていたので、○○の視線はそこのみに集中させていた。
これは○○にとっても幸運であった、体のいい視線の逃げ場が存在させられるのだから。


「ええ、まぁ、はい……」
無論の事で射命丸は報告書を○○に渡す以外の動作を、極端な事を言えば許されてはいなかった。
この状況で稗田○○を見る勇気が、稗田阿求の不興を考えれば出来るはずも無くさりとて稗田阿求もやっぱり怖い。
射命丸は目線の安定させ所を求めているうちに、稗田○○の後ろ側にいる上白沢の旦那と……彼に関しては目線すら会う事が無かった射命丸の方が目線を通らせたのに。
上白沢の旦那は初めから、この場で自分は徹底的に気配を消して置物になろと試みているのが明らかな、どこも見ていない虚空を見つめるような表情で天井ばかりを見ていた。
敵にはならないが同時に味方にも絶対になってくれない性質の存在と化していた。

「ははは」
射命丸が目線の置き場をどこにすればいいか、それが分からずに悩んでいると報告書を読み進めていた○○が、笑ってくれた。
少し射命丸はホッとした、この状況ならこの場にいる者がつまり射命丸も含めて、稗田○○に対して目線をやる事の意味付けとしては十分であるからだ。
「あの男、忘八たちのお頭はそれなり以上に頑張っていると言うか……まぁ必死と言うべきか。こっちに目を付けられるぐらいならば、遊郭内でやや暴君と思われる方がマシと判断しているのか。だとしてもいきなり相手の私室に音も無く乗り込むを通り越して待ち伏せとは……そこから先は質問攻めと言うのは恐ろしいけれども、彼からすればやましい事が無ければ全てに答えられるし、実際に潔白だったら彼の方から頭を下げて謝罪して後々にうまみのある仕事などを割り振っている辺り……支配者としての特性と気配りはあるんだな」
少し上機嫌そうに、実を言うと○○はあの忘八たちのお頭に対して頂点に立てる存在がそんなに生半可なはずは無い、と言う評価のような物は与えていたのだった
それと同時に、頂点に立てる存在が全く何も怖い所が無い、なんて事もやっぱりありえないと言うのは重々理解していた。
ただその能力と恐れの混在こそが、○○の忘八たちのお頭に対する評価や注目に値すると言う魅力につながっている部分もあった。

「……そうですね」
稗田阿求はと言うと、今のあの男でなければ遊郭街は統制できないだろうと言う実際上の問題で、渋々に渋々を重ねて今の忘八たちのお頭を評価しているに過ぎなかったので。
あの男でなければ大分話はこじれるだろうと言う部分に置いて、阿求は最愛の夫である○○と同じ意見を持つ事が出来たのは確かに重畳であり、とても多幸感を得る事が出来ているのだけれども。
やはり同じ意見を持つための対象が、渋々存在を認めている遊郭街であるのがたまらなく腑に落ちない微妙な気持ちを抱かせるようで、阿求の言葉は夫である○○がしゃべり倒した後だと言うのに『そうですね』の一言をしぼるだけで、それすらも出てくるまでに微妙な間と言う物が存在していた。

「まぁ……遊郭街に関してはあの男が目端を効かせているのが分かればほとんど十分だろう」
そう言いながら一応、○○は阿求に射命丸からの報告書を渡したけれども、阿求の中にある○○がそう思うなら自分もその意見だと言う――逆でも通用するのだが、○○も阿求の出した意見には逆らわないどころか盲信する――決定事項を覆したくなくて、通りいっぺん程度にぱらぱらとめくるのみであった。
毎週毎週作らせるこの報告書、不釣り合いなほどに実入りの良い仕事とはいえ毎週報告を持ってこさせる射命丸には、○○は少し悪いなと思いつつも、悪いなと思っているのならばこそさっさと○○は思っている事をやりたい事を実行して、この場でかかる時間を短縮するべきなのであった。
ただそのために行う事が、射命丸に対してカマをかける事だと言うのはかなりの問題なのだけれども。
けれども○○の中に罪悪感らしきものは……実は少なかった。
良いだろう別に、射命丸よお前は長生きできるんだからこの場で感じる圧力程度の時間なんてことないはずだ、と言うような吐き捨てるとまでは行かないものの全体から見ればとても少ない割合なのだから付き合えよと言う、割合では測り切れない部分を無視している、間違いなく乱暴な気持ちを○○は抱いていた。

「で、まぁ。射命丸さん」
射命丸からの遊郭街動向報告書は、全くもって通りいっぺん程度の確認だけで――これ作るのに毎週2日とか3日ぐらいかけてるんですよと射命丸は言いたかった――稗田○○だけでなくて稗田阿求ですらもが、報告書への興味を早々と無くしてしまっていた。
(何の為に報告書作ってるんだろ……いや定例報告何て大きな動きが無い方が良いもんだけれども)
射命丸は何も憎まれ口などは絶対に声には出さなかったが、やはり2日以上はかけて作っている報告書への興味が薄い場面を見せられては、感情の動きを穏やかになどは出来るはずは無かった。
だが射命丸にとっての不運はそこにあった、この状態で腹芸がいつも通りに出来るはずが無かった。
「何か面白そうな事、目立った事ってありましたか?」
○○はやや急き立てるように射命丸に対して質問をしてきた、間と言う物を出来るだけ少なくしたかったと言う○○の意思は明らかであった。
ただそれはまだ、稗田阿求にとっては依頼の閑散期だからちょっと○○が焦れている程度の認識であったし、この場においては誰の敵にも味方にもならないと決めてしまった上白沢の旦那はと言うと○○の急き立てるような様子にはとんと気付かなかった。

そして射命丸がこの日一番の悪運を引いてしまった。
報告書へのぞんざいな扱いからの不満により腹芸が出来なくなってしまった射命丸は、少しばかり次の新聞のネタに使えそうな事柄を思い出してしまった。
そう言えば最近、遊女が変な獣だか妖だかただの集団錯乱なのかよく分からない騒動が、何度かあるなと言う事を思い出した。
何故この時に限って思い出してしまったか、だってそちらの方がずっとすっと楽しいからだ。少なくとも新聞製作を一時中断させてでも用意している報告書へのぞんざいに近いような扱いをされた後では、清涼剤が欲しくなる。
どのように紙面を彩ろうかと言う所まで考えたところで、これは出来るだけ自分の腹の中で隠しておきたいと、遊郭街の動向調査をしている傍らで見つけた役得のような物だからだ。
だけれども、天狗の射命丸がそう簡単に稗田の不興を買うはずが無いし、買わないように全力であると阿求は分かっているとはいえ夫には射命丸とあまり会話をしてほしくないのが、隠しようが無いし我慢できない素の感情であった。
なので阿求はずっと、○○よりも強烈に射命丸の事をつぶさに観察していた。

「何かあるんですか?」
阿求の声は隙間に入り込むように絶妙の間で出された、射命丸が醜聞とはいえ紙面を躍らせれそうな楽しい話題を見つけた瞬間であった。
さすがは稗田家の、阿礼乙女の九代目様と言うべきだろう。
それだけでなく阿求は○○よりも前に出てきた、○○にはこれ以上前に出て来なくて大丈夫だからと片手では○○を優しくなだめるようにしながらも、射命丸を見ている阿求の目は血走っていた。
我慢するつもりだったのかもしれないが、我慢しきれなかったと言う事らしい。あるいは射命丸がすぐに答えを言わなかったことも、まぁ、関係が無いとは言い切れないだろう。

「言え、何か思ったなら言え」
阿求の口調が段々と高圧的になり。
「判断は夫が、○○がします。貴女からのお話が夫のお眼鏡あるいは嗅覚に反応するかどうかは」
ついには、と言うよりはまたしても阿求は夫である稗田○○を持ち上げ始めた。
ただ射命丸にとって悪い運が減少を見せたのはその瞬間であった、阿求の脳裏でまた○○が面(おもて)に立って何かを調査し捜索して、解決する絵が見えたことによる愉悦が阿求の中にやってきたからであった。
「ふふ、ふふふ」
あまつさえ阿求はすべてを置いてけぼりにして愉悦から来る、どう考えても純ではない笑い声まで上げ始めた。


どこも見ていなかった上白沢の旦那も、稗田阿求が愉悦から笑み所か笑い声まで上げだせばさすがにその方向を見る。
だけれどもと言うべきか、上白沢の旦那は淡々としていた。
○○ですら急に愉悦から笑い出した阿求の背中に手を回して、また温かいお茶も前に出して落ち着くように気を配っていたけれども。
そんな光景を目の前にしても上白沢の旦那は淡々と、無表情を貫き通していた。
嘲笑も恐れも、ありそうな感情が何もなかった、とにかく物の如く感情も気配も停滞させてそれでいて稗田阿求が求める役柄だけはやり通す事でこの場を乗り切ろうと言う算段だったのだ。
そしてこの場を乗り切ると言う部分には、射命丸が稗田阿求をこれ以上刺激しないと言う部分も含まれていた。
「稗田阿求の溜飲がどうやら下がったらしい、今のうちだと思うぞ射命丸文」
上白沢の旦那は射命丸に対してそれだけ言ったら、また彼はどこも誰も何も見なくなった、眼は確かに開いているのに、彼の視力は健康体のはずなのに。
射命丸文は人間と言う物が怖くなりそうであった、これは忘れようがない光景だ。
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最終更新:2023年07月23日 01:30