「場所はこの辺りです」
射命丸は懐にて常に持ち歩いている地図を広げて、ペンでその場所を指し示した。
「ギリギリ人里の外か……ギリギリ結界や各種法術が利いていそうだが、よくやるよ」
○○は日ごろから色々と、調査の為に歩いているし誰かを方々にやって情報を集めさせているお陰か、地図を見ただけでそこがどこであるのかを瞬時に理解していた。
「あと、そこは珍しく開けている場所ですが。稗田家が開かせたのです、何かおかしなものが人里に近づいた際に隠れる場所が無い方が、見つけやすいですしこちらが備えているぞと見せつけられるので都合も良い。人里の外に住んでいても人里で遊びたければ正規の手段はいくらでもありますから、ここを通ってこっそり来る意味もありません」
そこに稗田阿求が補足を入れてくれたのであるけれども、普段ならばともかく今回は遊郭街の隠れた乱痴気騒ぎがあるからか、だれがどう見ても不機嫌そうであった。
本当にこの女は、遊郭街に対する敵意はもはや妄執としか言えないなと上白沢の旦那はシラフであるはずなのに腹の底で結構な暴言を紡いでしまったが。
すぐに自虐的な感情に上白沢の旦那は苛まれることとなった、遊郭街に対する妄執としか言いようのない敵意は、自分の妻だって抱いているからだ。
しかもよりにもよって人里の最高権力と最高戦力に妄執からの敵意を抱かれるのは……哀れな気持ちが湧き上がるのは確かであった。
「連中……乱痴気騒ぎもそうだが阿求の疳の虫を二回も踏みつけているのか……」
○○はやれやれとも言わず、ため息だって漏らさなかったが、妻である阿求が明らかにその丈夫でないはずなのにその上小柄な全身に対して、力を大きく溜めているのを見て取ってしまい、顔を歪めてしまった。
ただそれは、心配しているから顔が歪んだのであった。
もちろん真っ当に阿求の心身の状態を心配しているのが八割がたの感情だけれども、もう二割ではあろうことか――本当に、気付かれたくない事ばかり増えると○○は心中で頭を抱えた――あの忘八たちのお頭の事を心配していたのだった。
忘八たちのお頭がこの乱痴気騒ぎを、さすがに感知こそしているはずだけれども止めれないのには何らかの理由があるはずだ、それを思うと少し同情してしまうのが実際の所なのである。
(阿求のついでとはいえ、あの男も少しばかり助けてやるか……)
あの男に対する同情の源泉は、やはりあの男への評価が大きかった。
「遊郭街がどうにかなる分には、実を言うと稗田家としましてはかなりどうでも良いのですが……」
阿求から話を引き取るように、○○は話し始めた。
そして次の段落と言う奴に行く前に射命丸の顔を見た、怯えこそはしてくれずに済んだけれどもやはり話題が阿求の疳の虫を刺激しているだけに、射命丸の緊張の度合いはどうしても高まる。
「ご友人が心配だと言う貴女の事を無視も出来ない、これでも私はお人好しな所があるので」
お人好しだからとのたまった○○に対して、上白沢の旦那は笑おうかどうか迷って○○の顔を見たが、射命丸には笑ってはならないと言う判断しか出てこなかった。
「そうなんですか……」
○○の意図は全く分からないが、だったらもう月並みな言葉を使ってこの場を乗り切る以外の事を射命丸は考えなかった。
それにここまで来たらもう戻れない、○○がその気になったのならばなおの事である。
「現場を一通り調べるのも良いが……射命丸さんのお友達にカマをかけて見ても良いな」
「あのう……出来ればお手柔らかに」
随分と前のめりな○○の姿に射命丸は明らかに言いよどんだ様子を見せたが、困惑しつつも止める事は出来なかった。
そもそも止めるぐらいなら最初から依頼しなければいいではないかと、稗田阿求からぬか喜びさせやがってと言う思いも含めて後々で不利益となる事は必至である。
つまりもう射命丸は後戻りできないのだ。
ただ、後戻りできない以外にも困惑の理由はあった。
「ふふ、あなたったら。久々の依頼で気がはやるのは分かりますが……射命丸さんのお友達の誰がをまだ聞いておりませんよ」
阿求の言う通り、この部分が射命丸に困惑を与えていたし……もっと言えば依頼したことを不味かったかなと、自分一人で動いていた方がマシだったのではとすら思わざるを得なかった。
射命丸は思わず上白沢の旦那に助けのような物を、せめて何か行動をと言う目線を送ったが……無視されている訳ではない物の相変わらずこの男の目線はどこにも向いていなかった。
ちゃんと命があって生きているはずなのに、ここまで虚無を演じられるのかと感心するぐらいであった。
それだけこの男は、あの上白沢慧音を人里の最高戦力を妻としていても稗田阿求の事を恐れているのであった。
むしろ上白沢慧音が妻であるが為に人里の中枢に近づける故に、盲目的に崇拝できなくなってしまい恐れる心だけが増えてしまったと言ってまっても良かったかもしれない。
「…………ああ」
だが○○は、射命丸が上白沢の旦那に思わず助けを求めたり上白沢の旦那が視線に気づいてすらいないのではないかと言う程にまで虚無を身にまとっている事に、こちらもこちらでやはり気付いていなかった。
上白沢の旦那と同じように○○も自身の身の回りと身の振り方ばかりを考えてしまっていて、他者や場の状況と言う物への観察と対応が不十分になってしまっていた。
どうせ今回の事件は、東風谷早苗からある程度教えてもらっていると言う○○と早苗しか知らない事実を他の人物が知るはずは無いと言う当然の部分を、○○は気が付きにくくなっていた。
それだけ、外の知識で自分を挑発してきた謎の人物、姿も形も分からない人物によって悪影響を○○はしっかりと受けていた。
「……まぁそれは道すがら聞きましょう。ご友人へカマをかけるのは現地を見てからでも遅くは無い」
そう言いながら○○は外出用の上着をさっと羽織って……そのまま外に出ていくことはせずに、一度阿求の方向を見た。
「少し調子が良いし気温も悪くないですから……私も行きますわ」
こう言う事がときたまあるのだ、そして今回はある方であった……だけと言いきれたら○○としてもどれだけ楽であるし助かった事か。
(いるかもしれんな……東風谷早苗は…………いやいると思うべきだ)
○○は心の中で警戒心を上げてそうなるであろうと想定しておいて、心の準備を行って。
「分かったよ阿求」
腹の中身とは裏腹に言葉の方だけでなく表情ですら、阿求の為に彼女の使っている外出用の上着を持ってきてやった阿求に対して甲斐甲斐しく羽織らせてやっていた。
この時上白沢の旦那は射命丸の方を見て「来ますよね?まぁ来た方が良いのだけれども」とだけ、この時だけ意識を虚無から現世に戻してきて射命丸に圧力をかけていた。
「抵抗できないって分かっている癖に」
射命丸は思わず、上白沢の旦那に対して憎まれ口のような物を叩いたが、上白沢の旦那はふっと、全くもってほんの少しだけ笑うだけで済ませた。
「稗田阿求からの怒りを買うよりは、貴女からの憎まれ口ぐらい軽いものだよ」
そう言うだけでまた上白沢の旦那はまた何も考えずに稗田阿求の望み通りに踊れる人形に戻ってしまった。
よくやれるなと、射命丸は感心しながら思った。
たぶん上白沢の旦那にとっては稗田阿求の前だけで我慢すればいいと、本気でそう考えていられるからこれが出来るのだろう。
だが上白沢慧音も、自分が望む彼の姿に調教をしているような気配を射命丸は感じていた。
ややもすれば暴走、ややもすれば幼稚な功名心すらをも肯定されているけれども、それはたぶん幸せなのだろうけれども。
上白沢慧音の傍でも人形時見ているような気配を、上白沢の旦那にから射命丸は感じていた。
(まぁ、一生捨てられる心配は無いのでしょうから、気にするだけ意味のない事なのかもしれませんが。それに上白沢慧音も彼で実は愉悦を満たしていると言う事には気付いていないでしょうし)
そう思って射命丸は上白沢夫妻については考えるのをやめておいた、いびつだが愛情は双方ともに相手に持っているし。
何より外に向いて迷惑をかけてこないから、勝手にやってくれと言う程度の物であった。
場所が場所だからだろう、人里の勢力圏内とはいえ人家のある場所では無いから○○がたびたび使う表現ならば護衛と称した監視役――今回は護衛と言う向きの方がずっと強いが――も一小隊ほどの人数が稗田夫妻を追いかけるために用意を始めてくれていた。
射命丸は稗田家が清廉潔白な組織では無い事を知っているからぎょっとはしなかった物の、この物々しさには、話が大きくなりつつあると言う事には頭を抱え始めていた。
しかし射命丸の懸念なんぞ、稗田阿求は知らなくても問題は無いしそもそも知っていたところで気にするはずも無かった。
「じゃあ、頼みます」
○○は自分たち夫妻を乗せる人力車の引手にはもちろんだが、護衛の為について来てくれる屈強な連中に声をかけて、仕事を始めようと合図をした時、そしてその合図通りに仕事が始まった姿を。
稗田夫妻を乗せた人力車が引かれはじめ、護衛の連中は人力車について行きあるいは前方の安全を確保するために前を走ってくれていた。
とうぜん人力車はもう一台あって、そこには上白沢の旦那が乗っているのだけれども、彼は目に映るものすべてに対して特に何の反応も見せなかった。
想像の範囲内だし、たとえ範囲外であったとしても稗田阿求の機嫌が良さそうだから反応する意味を感じないのであった。
そう当然ではあるが稗田阿求の機嫌はとても良かった、彼女の愉悦と言うのは最愛の夫が場を動かしている場面を見る事なのだから、だから○○の合図で人力車が動き出し屈強な護衛達が追いかけて来てくれる姿に、稗田阿求の感情が刺激されないはずは無かったのであった。
「この依頼がひと段落付きましたら、お外でお弁当でも広げて散策に出かけるのも良いですわね」
そして阿求は、自分がまた○○が辺りに一言出すだけでそれが動いてくれる場面を見たくて、この先の予定と言うのを既に決めてしまっていた。
たっだピクニック程度ならば、いくら一線の向こう側でもそう、物騒にはなりにくいので○○も阿求の肩を抱きながら微笑を浮かべて。
「そうだな、どこにする?」
と○○は穏やかに受け答えをするのみであったが、一線の向こう側が増してやその人物は人里の最高権力者だ、自分の権力を最大限に濫用してくることを○○は思慮に入れていなかった。
「今から行く開けた場所、私達で唾をつけてしまいましょう。良いじゃないですかどうせ、あそこは緩衝地帯として稗田家の仕事で切り開いて置いたのですから、だったら稗田夫妻でどう扱おうと自由です、少なくとも遊郭街ごときには使わせない!」
喋り続けている阿求は、口を回して言葉を出しているうちに興奮してきたのか、最後の方は彼女らしくもなく敵意と言う物にあふれていた。
良くない兆候だ、○○はサッと阿求の肩をさっきよりも強く抱いてこちら側にもっと引き寄せた。
「ああ、あなた。すいませんでした思わず興奮してしまって」
「構わないよ、これぐらい」
○○は相変わらず微笑を浮かべながら阿求の事を落ち着けるための言葉を使っているが、それでも○○の全ての感覚は今の阿求をつぶさに観察して、警戒していた。
呼吸はもちろんだが脈拍も○○の身体に感ずるぐらい荒くて速くなっている、熱くも無ければ寒くも無い程度の気温のはずなのに額にはうっすらと汗も見える。
最近、阿求の精神状態がよく荒れ模様になる。
単にそう言う時期と言うだけかもしれないが、阿求は身体が弱い、そして体が弱れば精神にも悪影響を与える。
今すぐではないとは思いたいが、備えておく警戒しておく、何よりも覚悟しておく。
○○はその必要があった。
稗田阿求との契約を、これを履行し続ける大一番は確実に迫っている事だけは、○○は理解しておかなければならなかった。
そしてくだんの広場に、稗田家が人里との緩衝地帯を設けるためにあえて切り開いたまま放置していた場所に、○○は人力車から降り立って辺りを見渡した。
この時の姿が阿求にとってはとてつもなく颯爽(さっそう)とした姿で降り立っていると、○○に対してそのような認識を持っているために胸を抑えて乙女の顔をしていた。
実態はとてつもなく暴力的で権力の乱用が存在するのだけれども。
ただこの時の○○が阿求の方を見ても気にしていたのは、この時の阿求が興奮しすぎて胸を悪くしないかどうかだけであった。
最終更新:2023年07月25日 23:36