くだんの広場に○○が降り立ってすぐに、○○はもちろんであるけれどもこの場にいる全ての人物が気付いたことがある。
臭いのだ、この場の空気が。
「何だこの……胸が焼けるような嫌な臭い。阿求、ハンカチで鼻を抑えた方が良い」
○○はとっさに懐からハンカチを取りだしたが、しかしながらそれは阿求のためであった、○○はそのまま自分では自分のハンカチを使わずに、人力車の中にまだとどまっている阿求に対して手渡した。
稗田阿求の身体の弱さを考えれば人力車に留まるのは妥当な判断だろう、とはいえ人力車の中ならそこまで臭いも、何より稗田阿求自身だってハンカチの一枚も持っているはず。
上白沢の旦那はそう思いながら、自分のハンカチで自分の鼻先を抑えながら、阿求にハンカチを渡したと思ったら、人力車からまた身体を出してきた○○が今度は明らかに女物のハンカチ、つまりは阿求のハンカチで○○の鼻を抑えているのには、別に表情だとかにはあからさまに出さない物の、やや閉口するような感情を覚えざるを得なかった。
分かり切っていた事なのだけれども、詰まるところで事件も依頼も依頼人も、全て稗田夫妻がイチャつくための踏み台なのだ。
ただ上白沢の旦那は閉口するような感情を抱いたとしても、正直な話で部外者だ、本当に辛いのは依頼主と言うか流れで依頼主にさせられた形すらある、射命丸の方だろう。

上白沢の旦那はチラリと射命丸の方を見たが……まぁ、案の定と言えるような表情であった。まさか明るい表情を、そんな物を浮かべられているはずは無かった。
○○からダメもとでカマをかけられたとき、それこそ○○の性格を考えれば本当に何も無かったり話してくれずにいたとしても、○○ならば残念そうにはするがすぐに引き下がってくれた。
だが話してしまった以上、もう射命丸の手を離れてしまった言って良かった。よほどの不利益が射命丸に降りかからない限りは、もうこの依頼をやっぱりなかった事にしてくれとは言えなくなってしまった。
ましてや知り合いの腹の底を探る様な物らしい、それが余計に射命丸の表情に後悔と苦悶のような表情を作っていた。

……それに、射命丸に不利益が入ろうが恐らくこの話はもう止まらなくなってしまった。
○○と阿求がイチャイチャしながらお互いのハンカチを交換……したのを恐らく彼女は……東風谷早苗は見計らって出てきた。
少し、空気が張り詰めたのを感じた。まだ稗田家中にまでは波及していない様ではあるけれども、○○が慌てて人力車の中にまだいる稗田阿求の様子を確認したり、東風谷早苗に近づくべきかをはかりかねていた。

厄介なファン。
いつだかに○○が自ら、特に東風谷早苗の事は話題にしていないのに彼女の事をそう表現したのを上白沢の旦那は思い出した。
……そう言う事にしたいのだな。と言うよりは、そう言う事にしてしまわないと危険な事になりかねない。
上白沢の旦那は理解できた、それも瞬時に。
この嗅覚に関しては、一線の向こう側を嫁にした物だからこその……仲間意識と言っても良かっただろう。
上白沢の旦那は胸が焼けるような悪臭を、ハンカチを鼻に押し当てて軽減させつつも真っ直ぐとした足取りで○○の元に向かった。
たぶんここで一番かわいそうなのは射命丸だろう、本格的に肩を持ったり助け船をだすつもりは上白沢の旦那の方になくとも、それでもある程度でも苦境を見て取って同情してくれる存在がいなくなったと、そう言ってしまってよかったのだから。。
だが見方を少し変えれば、完全な部外者にもなれるのだからそう悪くは無いだろうとも上白沢の旦那は思っていた、依頼をした時点でもう止まらなくなってしまったのならばそれ以上関わらなくても、○○は何も言わないだろうし稗田阿求も○○の活動が見られればそれで満足してしまう。
だから射命丸の事はもうあまり、考えてはいなかった。今はそれよりも○○が大事であった、上白沢の旦那にとっては。

「ああ……まぁ、精神的な余裕と言う点では、私にこれ以上はね?と言う感じに釘を刺すことをあなたにせよ○○さんにせよ両方が考えてはいても、上白沢慧音は自分に魅力がある事に自信を持っていますから、旦那が他の女と少し近づいても余裕はあるか……稗田阿求と違って」
……どうやら上白沢の旦那が東風谷早苗に刺さなければならない釘は、二種類に増えてしまったようだ。
いや、○○の事を気に入っているのであれば稗田阿求に対して良い印象を抱くはずは無いのだから、結局はそうしなければならないと言うのは遅いか早いかの差でしか無いのかもしれないけれども。

上白沢の旦那はチラリと、早苗が何故か連れてきた河城にとりの方を見た。
別に彼はにとりに対して敵意だとか疑いを持つような事は無いのだけれども、この状況が穏やかであるはずは無いのはにとりとしては十二分に理解できていた、それゆえでにとりは上白沢の旦那に対して会釈の様な媚びの様な笑顔を見せつつも、自分はこの件とはそこまで関係していないとでも表現がしたいのか、ゆっくりとだけれども確たる意思と足取りで上白沢の旦那と東風谷早苗の見せる、近場にいるにとりだからこそはっきりと分かってしまったある種のにらみ合いから距離を取ろうとしていた。
そして幸いな事ににとりが逃げる事を、だれも咎めなかった。
もしも何かあれば○○が後でそれとなく、あるいはあからさまかも知れないけれども、どちらにせよ○○がにとりを全く放置するとは思えないし、○○が接触するのならばこの状況に臆して距離を取りたがる人物の方が、稗田阿求の疳の虫を騒がせる可能性は限りなく低くなってくれるだろう。
やはり東風谷早苗は自分が見なければならない、上白沢の旦那は分かっていた事とは言え……東風谷早苗の一切迷っていない目線を見るとうんざりとするような感情がどうしても上白沢の旦那の中には出てくる。
この役目、彼は義務とまで思う事が出来ているけれども、どう考えても厄介で疲れる仕事なのだから。
「東風谷早苗、お前は怖くないのか稗田阿求が?俺は怖い、だから東風谷早苗、俺はお前の前に出て邪魔をする必要があるんだ」
……主に稗田阿求の苛烈さのせいで、上白沢の旦那は疲れてしまうのだけれども。
「厄介な相手だなぐらいには思っていますよ、稗田阿求の事を。それと結婚できてる○○さんへの尊敬の様な念はありますね」
「……俺だから良いが、本人には言うなよ?稗田阿求にはもっとだ、そうなると俺も東風谷早苗の事を厄介の源泉と考えて、一切の擁護が出来なくなってしまう」
「さすがにそこまでのあからさまな事はしないですよー」
早苗は一応、稗田阿求にちょっかいを出さない事を明言しているけれども……両手を上白沢の旦那の前でふりふりさせながら、笑顔で言われても……はっきりと言って信用は出来なかった。
確かに今すぐ強硬策をとると言う事は無いのかもしれない、だがそれは飽くまでも『今はまだ』と言いうような気配を覚えざるを得なかった。
いずれは必ずというのが分かっているのに、今が大丈夫だからと言ってもそれは慰めとしてはあまりにも弱かった。
第一……稗田阿求にこんな事を思うのも不敬であるよりも実際的で唯物論的な上白沢の旦那にとっては、ただただ怖いのだけれども。
稗田阿求と実に健康体である東風谷早苗の身体の丈夫さを比較して考えてしまうと……
ただもっと怖いのは、東風谷早苗が後釜で満足するか?と言う部分も存在していた。

「まぁ、信じてもらおうとは思ってませんよ」
怪訝な顔を早苗に対して浮かべ続ける上白沢の旦那に対して、早苗はさっきから笑顔で応対を続けている。
この程度の障害は、全く持って予測の範囲内とでも言いたいのかもしれない、早苗の笑顔からは邪気と言う物が見えなかった。
こうなってしまうと上白沢の旦那の方が東風谷早苗に対して、精神的な部分で後れを取ってしまう。
少なくとも上白沢の旦那は今の早苗に対して、厄介だとか不気味だとか、およそ東風谷早苗の事を強敵であることを認めざるを得ない単語を、いくつも思い浮かべてしまっていた。
だからと言って逃げてはならないのだけれども、逃げれば○○が苛まれてしまう。
結局自分は○○の友人でありたいし○○の事を助けたいのだなと、苦難にまみえている時の方がそれを強く思わされる。
笑みも浮かぶ、自嘲だとか皮肉気な物などではなく、真っ当な意味での。
「やっぱり貴方は、○○さんの事を大事に思われているんですね」
早苗からもそう言われてしまった、彼女の言葉尻に茶々を入れるだとかそのような悪意は感じ取れなかったが……厄介だと思っている存在から言われるのは、気恥ずかしさよりも苛立ちが勝る、たとえ言葉通りで皮肉など無かったとしてもだ。


だが、こんな所までやってこれる早苗に上白沢の旦那が見せたイラっと来たような表情一つで、臆するはずは無かった。
「ひとまずこれは、私よりも貴方が○○さんに渡した方が……稗田阿求の疳の虫も、騒がせずに済むでしょう」
むしろ早苗は、上白沢の旦那に対して何かを押し付ける事までやってのけていた。
一瞬、上白沢の旦那は早苗の突き出してきた……袋自体は何の変哲もない、紐の付いた布袋であるけれども、その中にある物が問題であった。
すえた悪臭のする布切れが袋の中には入っていた、きっとこいつがこの地に漂う悪臭の源泉、これだけでは無いと思うがそのうちの1つなのかもしれなかった。
袋の中にある悪臭を放つ布切れは、悪臭を放つだけはあり黒々とした汚れがにじんでいた、元は真っ白な布切れだったのかもしれないがここまで汚れて、しかも悪臭まで放つようになったのであればもはや雑巾にも使えない程に汚れていた。

「何も関係がない、とは思いません」
「まぁな……」
それは上白沢の旦那も認める所であった。
とはいえ、素直にその袋を受け取りたくなかった……単純に汚いと思ってしまったからだ、たとえ早苗が原因の布切れを袋で一枚噛ませてくれて、直接触れる事も無いように紐付きであったけれども、それでもやっぱり忌避する感情は止められなかった。
「別に」
ただ早苗からすれば、どっちでも良かった部分がある。
「貴方がこいつに触れるのを嫌がるのならば、私が○○さんに渡してきますよ?稗田阿求が何を思うかは知りませんがね」
その時の早苗の笑みからは、挑発的な物よりも嬉しそうな物を上白沢の旦那は感じ取ってしまった。
……やりかねないではなくて、こんな、言ってしまえば乙女のような笑みを浮かべてしまう早苗なら、やりかねないでは無くてやるとしか言いようがなかった。
しかしながらこんな状況で乙女心を出せる東風谷早苗と言う存在は……こいつには怖いと言う感情がないのか?そう思ってしまった、上白沢の旦那は稗田阿求が怖くて早苗から悪臭の源が入った袋をひったくるように受け取ってしまったのに。

「はははっ」
稗田阿求に対する怯えから動き出してしまった上白沢の旦那の事を、早苗は軽く乾いた様子で笑った。
……これなら苛立ちだとか怒りだとか、そう言った感情を見せられた方が心を解する存在であると分かって、有難いぐらいであった。
「稗田阿求をダシにすれば、俺が怖がって動くと言うのは……それが考えなのか?」
先ほど早苗の口から出てきた稗田阿求の名前に、早苗が何も考え無しに危ない橋を渡っているとは思えずに……と言うよりは考えと言う物が早苗にはあってほしかった。
「まぁ、ある程度以上はそう考えてましたよ?最も別に、貴方がもっと稗田阿求を怖がって動けなくとも、その時でも私が行くので本当の所は、どっちでも良かったのですがね」
とはいえまさか、上白沢の旦那としても早苗にいきなり決意と言う物を持たせたくはなかった。
……上白沢の旦那はしばらく、東風谷早苗から遊ばれても構わなかった。
稗田阿求に接触されるよりはマシだった。

「ま、言いたい事はありますけれども。これ以上貴方を苛ませたり茶化しても、利益はありませんから」
そう言うと早苗は、挨拶も無しに飛びあがって……人里の方向に飛んで行ってしまった。
ここで一番哀れなのは、早苗に連れてこられた上に一人置いてけぼりにされてしまった河城にとりであろう。
彼女はヤバいと思いつつも、挨拶や会釈もなしに立ち去るのが一番まずいと思っていたのだろう。
袋を持った上白沢の旦那や、奥の方で事態の推移を見守る○○に向かって固い笑顔でペコペコと頭を下げながら、少しばかり歩いてから……彼女は妖怪の山の川に住んでいる存在なので、そちらの方向に飛んで行った。
上白沢の旦那は本当にほっとした……特に、まだ人力車の外には○○しかいなかった。
つまり、東風谷早苗がいたと言う情報はさすがに隠せないが、一番怖い存在が東風谷早苗の挑発含みの行動に、本気で気づかないでいてくれている可能性があったからだ。
そしてその可能性は、上白沢の旦那に近づいて来てくれた○○の表情も、さして悪くはなかった事から確たるものとなってくれた。

……とはいえ、この場を乗り切れただけなのだけれども。
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最終更新:2023年07月25日 23:38