ここ数日、寝込みを何かに襲われる事が続いていた。
暗いもやに囲まれていたり、
視界がはっきりしなかったり。
自分を襲っている物が何者かはわからない。
四つん這いの獣にも見えれば、
這い回る人間のようにも見える。

巫女に頼んで、決界を張ってもらった。
大金を積んでみれば目を輝かせ、
過剰な迄に決界を張り巡らせてくれた。
いわく、もはや呪詛の域に達しておいた。
家主である私が認めた者以外は入る事が出来ないという。
少々都合が悪いが、
寝込みを襲う何者かが去れば取り払うと約束してくれた。
分かりやすくて良い事だ。


深夜、玄関の扉が叩かれる。
曇った視界のまま外を見ると、
見たことのある影が立っていた。
ああ、誰だっけ、
見た事はあるんだろうがいまひとつ分からない。
いや、どちらにせよ。
こんな時間に物言わず玄関を叩く者が人間であるものか。
「名を名乗れ」
影は黙ったまま。
どん、と扉を叩いた。
何だ、化け物か。
しかし決界、もとい呪がある以上入ってはこれまい。
「私よ」
聞いた事のある声が響く。
そうこれも、決して聞いた事の無い訳では無い、
しかし主の思い出せ無い不思議な声だった。
「誰だ……?」

どんどん、
両手が玄関の擦り硝子に張り付く。
大丈夫だ、扉は開かない。
「私よ」
どんどん、
手は張り付いたまま、何かが扉をノックする。
どんどん、どん、どん。

何かが扉に張り付いてくる。
頭はすっきり、目も月明かりに慣れきっているのに、
扉の前に立つ何かが分からない。
「明日も来るね」
不意に扉の向こうに赤い瞳が映る。
硝子越しで、どんな目かは見えないが。
それはゆっくりと三日月に閉じ。

気が付くと雀の鳴く声、
月明かりは朝陽に変わりつつあった。
あれから朝まで立ち尽くしていたのだろうか、
あれが何かは分からなかったが、
扉に張り付いた無数の手の後が現実を表していた。



「と、まあ、そんな事があったのさ」
香霖は興味なさ気に茶を飲み干した。
「ふう、それで?」
「金目の物は無いし、話を対価に買い物出来ないかな、とな」
「あのねぇ、魔理沙といい君といい……
 ツケといてあげるからまた後日お金を持って来てくれ」
「ちぇー」
資本主義なんて暫く幻想入りしないぜ、と返しつつ、
お茶を飲み直した。
「じゃあ、私が立て替えとくわ」
突如背後から聞こえた言葉に驚き、
噎せて大きく咳込む。
「げほっ!
 って、お前……」
ああ駄目だ、すっと名前が思い出せない。
ただ既視感のまま、
「何でここにいるんだ?」
と、彼女の目を覗いてしまった。
黒い髪と赤い瞳は、
見慣れた雰囲気を出すものの名前が思い浮かばない。
「ま、良いじゃない。
 単にあなたの話がもう少し聞きたいだけよ」
「友達かい?」
「ああ?」
香霖の問いに対して上擦った声で返す。
否定や威嚇ではなく、疑問の意味で。
「はいこれ、代価よ」
「まいど、じゃあごゆっくり」
「あ、こら何を勝手に」
「はいはい、
 これで逃げられないわよ?」
ゆっくり微笑んだ彼女の赤い瞳が歪む。
あれ……何だっけ、この……
デジャヴが酷い。
きっと最近、見た筈なのに。
「ああ、えっと……何だっけ」
「何が?」
「君の名前、いやすっかり忘れたみたいで」
彼女はくすくすと笑っている。
「あは、素直なのね。
 ぬえ、よ。
 忘れないようにもっと印象づけてあげようか?」
すっと顔を近づけられても焦る。
「いやいや、ど忘れしただけだよ。
 ごめんね、ぬえ」
ああ、違う。
何でだ、
この子に、ぬえはきっと見たことあるのに、
まるで名前を始めて知ったような、
初対面のような気がしてならない。
何故、だ。

「もうちょっとゆっくりお話したいし、
 ○○の家に行っても良いかな?」
確かにここで長話してれば香霖に迷惑がかかる。
ぬえを連れて、家に帰る事にした。

家の前、玄関に立つとぬえが足を止め、
手を引っぱる。
「ねぇ……○○、
 私は入っても良いの?」
「え?そりゃ……もちろん」
「へぇ、そうなんだ……」
ぬえは不気味に笑いながら入って来た。
「お邪魔します」
「ああ、いらっしゃい」

うん……?
霊夢にかけてもらった決界は、
既に家に招き入れた事のある者には通じない筈だ。
なのに、ぬえは。
「なあ、ぬえ。
 君は家に来たのは初めてだっけ?」
「ううん、何度も来た筈だけど?」
何度も?

まるでかつてからの友人の様に振る舞うも、
始めて会うような、
否、まるで何度も会ったような。
妙な感覚が目立ってくる。
いや、違う、違うんだ。
でも、これじゃあまるで。

「毎晩あんなにも愛し合ったじゃない?」

部屋の入口を塞ぐように、
赤い目が歪んでいた。



「冗談、だろ……」
嫌だよ、それじゃあまるで。
「ありがとう、わざわざ招き入れてくれて」
笑顔に見向きもせず、逃げ道を探す。
「ああ、窓は駄目だよ」
声の主を見ると、
爪のような、翼のような、
尻尾のような、鈎のような、
紅と蒼のそれを背中からゆっくりと生やしていた。
「外から変な物が入ったら困るんだろう?
 私が閉じておいたよ」
カーテンは開く、
鍵も掛かってない、
しかし窓は、開かない。
「何をする気だ……!」
すると彼女はきょとんとした顔で、
今更といった風に口をきいた。
「……君を愛するのに、理由なんか必要かな?」
「だ、だからってこんな……!」
「満更でもないだろう?
 君、起きてるのに寝たふりなんかして……抵抗しなかったじゃないか」
右手で輪を作り、左手の人差し指で貫く。
赤い瞳は閉じたまま、
彼女は笑っていた。
「あ、あれは……
 あんな訳の分からない姿じゃ、怖くて」

へぇ

「じゃあ今の女の子の姿なら怖くなんか無いよね?」
違う。
「ああ」
そんな訳無い。
「じゃあ、本当は嫌だから抵抗出来るんだ?」
無理だよ。
「そりゃ……まあ」

一瞬、翼がするりと伸びて僕に巻き付き、
ぬえが距離を詰める。
「さあ、○○はどんな抵抗をするのかな?
 早く何とかしないと怖いお姉さんに食べられちゃうよ?」
口だけで笑いながら、
わざわざゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。
……駄目だ、翼のせいで後ろには下がれない。
くそ、くそ、どうすれば良い?
抵抗?
身をよじらせろ?
そんなの意味が無いのに?
抵抗に意味なんて無い、逃げなきゃ駄目なのに?
「っ……!」

間合いに踏み込んだ瞬間、
手を突き出す。
彼女を押し退けて逃げようとした瞬間。
手は、彼女につかみ取られ、
そのまま引き寄せられ、胸に倒れ込んでしまった。
「酷いね、女の子に暴力振るうなんて……」
「は、離せ!お前なんか嫌いだ!」
「声が震えてるよ?
 恥ずかしくて喋れないのかな?
 怖くて逃げ出したいのかな?どっち?」
それこそ答えはどっちだ?
何て答えれば興味を失ってくれる?
何をすれば嫌ってくれる?

「ま、君が私を嫌ってるのは分かったよ。
 でも……

 女の子に暴力振るっちゃう悪い子には、おしおきしないと、ね?」

ぬえは艶かしく微笑み、
舌なめずりをする。
背筋が凍る。
恐怖と期待、
相反する二つの感情に押し流され、
僕は逃げる意志すら失っていた。
「ほら、満更でも無いじゃないか」
くすくすと笑いながら、
手繰り寄せた僕を抱き直した。
「あ……」
翼が、背中に張り付く。
まるで植物が根を張るかのように、
べったりと、背を這い、侵食してくる。
「目を閉じちゃ駄目だよ、私の目を見て」
舌を絡め、
唾液を飲ませてくる。
細まる赤い瞳と、
雪のように白い肌、
闇のような黒い髪のコントラスト。
こんなに綺麗だったのに、
気付かないままで、
目を惹かれる。
背中の痛みも、
口の中の焼け付くような感覚も忘れたようで。
「分からなくなっちゃおうか、自分の事」
ずっとこのままで居たかった。



暫くの後、
視界も耳も曇ったままで、
力無く倒れた体をぬえが抱き起こす。
「大丈夫?」
表情は見えないけど、
彼女が身を案じて笑っているのが感じられた。
頭を下げて肯定の意志を表する。
次第に視界も耳もはっきりとした所で、
彼女は悪戯っぽく微笑んで、こう言った。
「ところで、君は誰だっけ?」











閉ざされた家の中で、
ぬえに縋り寄る。
「ほら、大丈夫、私はここにいるよ?」
「ごめん、怖かったんだ……」
ここ最近、記憶がだんだん欠落していく。
「なにもかもわからなくなっちゃいそうで?」
「ううん、違うよ」
それも、物や人がなんだったのか分からなくなってしまう。
「好きな人が、分からなくなってしまったらな……って」
「ふふ、○○は優しいね」
ぬえは僕の頭を撫でて、再び手繰り寄せる。
「大丈夫、いつかきっと記憶が戻るよ。
 例えその日が来ても、私は君と一緒だから、ね?」
赤い瞳を歪ませて、ぬえが微笑む。
「っ……!」
途端に身が竦む。
何で彼女の笑顔に恐怖を感じるのかわからないが、
それに気付いたぬえがもう一度頭を撫でる。
「大丈夫、きっと全てが上手く行くから……
 今は、今を楽しもう……」


暗闇の中、
正体の明かぬ二人の男女は、
いつまでも愛し合っていたという。

お互いが、何も解らぬまま。

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最終更新:2010年08月27日 12:17