その日、稗田の屋敷には存外多くの人間が集まっていた。
 特に何かの宴会があるというわけではない。むしろそれとは逆のものだろう、集まった者は皆、稗田阿求の最期の別れを告げようと集まってきたのだから。
 彼ら、或いは彼女らは殆どが阿求の寝る布団の横におり、広いはずの阿求の部屋も彼女には随分手狭に感じられた。
 死神に何時何時に死ぬと教えられたわけでもあるまいに、何故こんなにも集まったのかと阿求は訝しんだが、居並ぶ人間の中に博麗の巫女を見つけ納得する。
 つまりは巫女の鋭すぎる勘なのだろう、それは結構な事だが、人の死ぬときくらい静かに居させて欲しいものだと阿求は内心苦笑した。

 昼を少し過ぎたころに、医者が往診にやって来、特変無しと言って帰っていった。
 どうやら自分は大した苦しみも無しに死ねるらしい、全く有難い事だと阿求は思う。
 さて先代、先々代はどのような死に様だったか、記憶の継承は大分曖昧で覚えている事はさして多くない。
 今際の際の記憶までも残っているならば、それは恐ろしい事なのか、それとも面白い事なのかなどと詮無い事を考えていた。

 やがて日もすっかり落ち、空に星の見えるようになると、来客は一人また一人と帰っていく。
 終いに夕の往診に来た医者が帰ると、部屋には阿求と彼女の夫の二人が居るだけとなった。
 痩せ枯れ、一見すればこちらのほうが先に閻魔の世話になりそうな男は阿求の枕元に近寄り、彼女の額に左手を置く。
 彼の冷えた手は、布団で温まった体には心地良いらしく、阿求は気持ち良さそうに目を閉じている。

 暫くして、彼が阿求に風邪をひいているだけのように見えると言った。とても死にそうには見えないとも。
 実際阿求の頬には赤みがないとは言え、話せもするし多少なりとも体を動かす事も出来るのだから、棺桶に体半分入れているようには見えない。
 とはいえ起きているうちの大部分の時間を寝て過ごす程度には体が弱っているのだから、遅かれ早かれ鬼籍に入る事は間違いあるまい。
 それを判っての発言だったのだろう、言葉を出すときにひどく悲しそうな顔をしているのを阿求も悲しそうな顔で見ていた。

 少し話をしていると阿求が布団から身を起こそうとし、彼がそれを身に障るからと止める。
 しかし、阿求はそれを大丈夫だからと断ると、彼は溜息をついて枕元に置いてあった半纏を背中からかけてやった。
 阿求はそれに礼を言うと、手招きをして彼をすぐ傍まで近寄らせて少しもたれかかる。
 肩に唐突にかかった荷重に驚く夫を見て少し微笑むと、阿求は話を切り出した。
「あなたが私に求婚したときに言った言葉、覚えていますか」
 阿求が体を戻しながら、正座する夫に問いかける。彼は眉間に少し皺を寄せると答えた。
「ずっと傍に居させてくれ、だっけ」
「ええ、そうです」
 阿求は今度は彼の胸に頬を摺り寄せるように、そして重力に引き寄せられるままに膝の上に頭を置いて言った。
「今も居ますね」
「ああ、居るね」
 彼はまた手を阿求の額に置き頬に置くとこれを撫で擦り、阿求はまた目を細めて撫でられていた。

「ねえ」
 少なくない時間撫でられていた阿求が不意に話しかけてくる。
 彼が何だと返すと、阿求は左腕を彼の肩にかけ起き上がろうと力を込めた。
 起きたいのかと言いながら、彼は阿求の右肩の下から手を差し入れ、阿求が体を起こすのを手伝い座らせる。
 少しして阿求は無事に元居た布団の上に正座し、彼の方に顔を向けて問うた。
「今もあの時と変わりありませんか。あの時、私に求婚した時と」
 彼は一瞬何の事かと言いたげに数度瞬きをし、そして思い当たったのか少し考える表情をした。
 阿求は彼の面相を多少泣きそうな面持ち、何を悩んでいるのかと言う心持ち、で見つめている。
 やがて彼が言った言葉は変わりようが無いというものだった。
 その答に阿求が顔に疑問符を浮かべていると、彼はなんとも無さそうに、お前を離す気は無いと言う。
 阿求はそれを聞いて少し俯くと、やがて決心したように顔を上げて言った。
「それなら、この薬を飲んでください」
 阿求はそう言うと布団の中から白と薄青の錠剤の入った二つの小瓶を取り出す。
 こんなものをいつ持って入ったのかと訊く夫に、そんな事はいいじゃないですかと阿求は頬を膨らませた。
「これは何の薬なんだ」
 彼は中身を気にして尋ねると、阿求はそれに応じた。
「また一緒になれるように、って言うお呪いの薬です」
「呪いねえ……」
 阿求は説明を聞き、やはり眉間に皺を寄せながら呟く夫を苦々しげに見つめる。
 以前から渋面を作るのをやめろと言っているのだが一向にやむ気配が無いのは、やはり悪い癖だからなのだろう。
 聞き入れられないのは悲しい事だが、しかしそれの顔も好きになってしまっているのだから強くは言えない。
 とはいえ注意は一応するもので、阿求はなお皺の深く刻まれる彼の眉間に二本指を立てるとそれを開き、皺を無くそうとした。
 彼は一瞬驚いたようではあったが、よくやられていた事なので、またすぐに平静に戻る。
 阿求は何の反応も返さない夫に少し口を尖らせるが、何も言わずに指を円を描くように動かし遊んでいた。
 それでも彼はもう慣れた事だとでも言うようにそれを無視し、阿求に対して言ってくる。
「まあ転生なんぞがあるから信じるが、次に生まれ変わったときに再会するみたいな奴なのかね」
 彼がそう聞くと、阿求は指を離し、どうでしょうとだけ答えて続けて言う。
「それで飲んでくれるんですか、それとももう私には会いたくないと」
 彼は言われると驚いたような素振をし、弁明した。
「そんな事は無い。また会いたいさね。それこそ化生となってでも」
 阿求の目を見据えて彼が答え、阿求が応じる。
「あら嬉しい。でも次代が阿礼男ならどうするんです」
 多少顔を赤くした阿求に言われ、彼女の夫は心底困ったような顔をする。
 その様を見て阿求はくつくつと笑い、彼も一拍置いて笑った。

「では飲んでくださるんですね」
 一頻り笑った後に阿求が切り出すと、彼は大きく首を縦に振って答える。
 ではお一つと言いながら阿求が小瓶の片方を渡し、彼はそれを受け取ると薄青の錠剤を取り出した。
 そして阿求も白色の錠剤を取り出し、吸飲みの水で飲み込むのを見てから、また同じ吸飲みから水を含み嚥下する。
 暫くして飲むだけで良いのかと尋ねられ、阿求はでは強く抱き締めてくださいと答えた。
 お安い御用と彼は阿求を抱き寄せ、阿求が動くまでの長い間抱き締める。
 離れてから特に何も起こらないな、と少し残念そうにする夫を眺めて微笑みながら阿求は布団の中へと戻っていく。
 彼女の夫は阿求が布団に完全に入ったのを見届けると、阿求に一つ口付けをして、減った吸飲みを持って出て行った。


 阿求は自分が寝込みがちになった時から、自分の人生を振り返っていた。
 何があったのか、何をしたか、何か遣り残した事は無いか等と言う事を漫然と、しかし時に秩序立てて考えていく。
 何があったか、何をしたか、幻想郷縁起を作り、その過程で様々な人妖、例えば自分の夫がそうだ、と出会った。これは誇れる事だ。
 子宝に恵まれなかったのは仕方のない事だったかもしれないが、残念であった。元より自分の体格では、産む事も難しかっただろうにしてもだ。
 総じて考えれば、中々に良い人生だったと言える。少なくとも飢える事は無かったし、激しい恐怖を持つ事も蔑まれるような事も無かった。
 しかしただ一つ、阿求には心配事があった。夫の事だ。
 別段自分が居なくなったからといって、稗田の家から追い出されるという事を危惧しているわけではない。この家はそれほど狭量ではない筈だ。
 では夫の何を案じているのか、と言えば唯々将来後妻を貰うのかと言う事を案じていた。
 寡夫が再婚する事は珍しくなかろう、その時は稗田の家からは出るかもしれないが、職を持っているのだし生活できるはずだ。
 しかし阿求には彼女の知らない、或いは知っている女だとしても、が彼と一緒になる事が堪らなく許せなかった。
 彼がその女と話す事が、笑う事が、怒る事が、飯を食う事が、手をつなぐ事が、腕を組む事が、風呂に入る事が、同衾する事が全く堪え難かった。
 なにより自分の願った子供を授かるかもしれないと言うのが、阿求には些かも許容出来得る事では無かった。
 暗い中一人寝ていると色々と良くない考えをするのは誰しもにある事で、それは阿求も同じである。
 そのような時に浮かんでくるのは、女中や花屋の娘、或いは見知らぬ女などが彼との子供を抱きながら仲睦まじく辻を歩く姿だったり、子をあやしているというものだった。
 言うなれば至極強力な独占欲であり、嫉妬とはまた違った感情なのだろうか、どの道浅ましいことに代わりが無い。
 しかし、だからこそ阿求は彼を離し放してやる気など毛頭も無かった。


「河原で待っていますから、すぐに来てくださいね。そしたら地獄を案内致しましょう」
 阿求は小さく呟き目を閉じると、それから二度と目を開ける事はなかった。
最終更新:2010年08月27日 13:19