暗い暗い、森の中。
頭上に輝いているであろう月は、木枝の影に遮られ、その身と光を隠している。
それ故に、視界は闇に覆われ、はっきりとしていなかった。
だが、むしろこれでいい。
足を精一杯に動かし、息を切らしながら、頭の片隅で思考する。
追跡者とて、ものを見るのには目を使うはず。
であれば、この様な暗中に逃げ込めば、そう簡単に発見されることもないだろう。
確証はないが、確率は高い。
そもそも、確実に逃げ切れる方法があるのなら、最初からそうしている。
しかし、とりあえずは一息をつけると言う事実に思わず安堵してしまったのか、不意に、足が止まった。
安全とは言い切れない以上は動き続けるべきだろうが、しかし、己の意思に反して、脚部は何の反応も見せてくれない。
情けないが、しばらくは休むほかない。
だが、対策はした。大丈夫。
無理やり自身を納得させると、大きく一息をついて、近くにあった木の幹に背を預け、座り込む。
ようやく、気を抜ける――――
「……そこにいたんですね」
わけもなかった。
鈴を転がしたような、音色。
自分のそれに比べて幾分か高く、張りのあるそれは、歳若い女性のものだと推測できる。
いや、もはや推測する必要もないか。
その声には、聞き覚えがあるのだから。
音源の方向に、目をやる。
そこには、予想に違わず、‘彼女’がいた。
暗闇の中でも、その姿は容易に捉えられる。
それは、彼女のことを見慣れているからか。
はたまた、‘彼女’を警戒すべきだと、無意識に反応しているのか。
おそらくは、後者だ。
「……何故、こんなことを?
怖がらせてしまったのなら謝りますから、どうか訳を話してください」
彼女の言う‘こんなこと’とは、おそらく、
今もなお、こうして逃走劇を繰り広げている事実のことだろう。
こちらをみとめると、彼女はゆっくりと近づいてくる。
彼女の言葉は、甘く、優しい。
脳に、すっと染み入ってくるように、酔う様な感覚を与えてくるのだ。
……だから、恐ろしい。
そんな態度とは裏腹に――――いや、今はよそう。
彼女を前にして、余計なことを考える余裕などない。
今は、どうやってこの場をやり過ごすか、策を練るべきだ。
追い込まれたと言っても過言ではないこの状況、さて、どうする?
手詰まりに等しいこの現状を、どう打開する?
……ダメだ、何も思いつかない。
自分の発想が貧困なことと、頭脳が全く役に立たないことを、この時ほど悔やんだことはないだろう。
尽くす手すらないのならば、もはや最後の手段。
……隙を突いて、逃げる。これしかあるまい。
‘最後の手段’が現状維持とは、結局、自分のアイデアのなさに失望を覚えないでもないが。
「聞こえて――――」
そんな思考をよそに、彼女が口を開く。
――――今だ!
地面を蹴って体勢を立て直し、
そのまま腕を全力で振って、できるだけ遠くに逃げ切って――――
一歩、踏み出した瞬間。
自分の足元が、爆ぜた。
閃光が目をくらませて、破壊音が耳をつく。
「手荒な真似をして申し訳ありません。
貴方を傷つけるようなことをしたくはないのですが……また遠くに行かれてしまっては、困りますから」
犯人は、もはや察するまでもない。
当の下手人は、沈痛な面持ちで目を伏せていた。
随分と落ち込んだ様子の彼女だが、落ち込みたいのはこちらも同じだ。
いよいよ、どうしようもなくなってきたのだから。
全力疾走したところで、狙撃されればどうしようもない。
これで、自分の負ったディスアンバンテージは更に大きくなってしまった。
手詰まりからお手上げへとレベルアップしたこの現況、まずいなんてもんじゃない。無理だ。
……だが、一歩前進はした。
相手は、こちらを殺せない。
もしかしたら半殺しぐらいまでいくかもしれないが、死にはしない。多分。
なれば、無茶はきく。
立ち並ぶ木々を盾にすれば、一度二度ならば、おそらく攻撃を防ぐことは難しくないはず。
地を這う人間らしく、地の利を活かせば、付け入る隙はある。
急ごしらえであれど、手は、あるのだ。
ともかく、どの様な手を使ってでも、窮地を脱さなければならない。
……もう一度。
もう一度、挑むしかない。
多少の犠牲を覚悟してでも。
生き残るために、意地でも。
「お願いですから――――」
彼女の言葉を振り切って、再び。
逃げるのではなく、勝つために。
背を向け、走り出す。
手足の一本二本を投げ出してでも、生き残る。
生きる。生きて、明日を掴む。己の意思で、未来を切り開く。
しかし。
現実とは、そうも容易くない。
所詮は希望的観測。
背後から、迫る。
熱が。光が。
絶望感を、もたらす。
まずい。思わず、目を閉じる。これでは――――
◆
あるいは。
自らの身を投げ打ってでも人を助ける、ヒーローがいたのならば。
不可能を覆し、希望に満ちた物語を紡ぎだせる
主人公がいたのならば。
あるいは。
結果は、変わったのかもしれない。
◆
眠りから、覚める。
途端、目に飛び込んでくる風景。
いや、風景と言うのは間違いかもしれない。
それは、色だ。
黒、黒、黒。
濃紺一色に染め上げられたこの‘世界’には、見た限りそれ以外の色彩はなく、視界を照らす光源はない。
むしろ、光はおろか、何も存在していなかった。
例えるなら、影の中。
床も、壁も、ありはしない。
そんな中に、自分はただ横たわっている。
……本当に、横になっているのか。
もしかしたら、地面に対して垂直に立っているだけなのかもしれない。
地面の感触なども、一切ないのだが。
浮いているのか、沈んでいるのか。
上下左右の概念さえも、消えていく様な気さえする。
――――いけない。
ふと、おぼろげな、けれど強い思いが頭の中を支配する。
――――このままでは、いけない。
何故かはわからないが、動物的な直感とでも言おうか、‘嫌な予感’が胸中に渦巻く。
それに従い、手をついて上体を起こす。
地につけた手からは、何も伝わってこない。
地面の――本当に地面なのだろうか――触感も、あるいは一切の暖かさも、感じられない。
五感すらも曖昧になっているのかもしれない、と、どこか他人事の様に考える。
……だとしても、まずは動かなければ。
ズキズキと痛む頭に手を添えて、ひとまずは状況把握に努める。
確認を込めて周囲を見渡しても、目に入るのは、黒いペンキを目に付く全てに塗りたくったような光景だけ。
太陽も、月も、人の姿も、見つからない。
――――冷たい。
それを見て、ただ漠然と‘冷たい’と思った。
確かに、黒には冷たい印象があるけれど。
何の風情も、感慨も、生命すらもないこの場所は。
自分には、冷たくてならない。
随分と、趣味が悪い。
夢と言うのは過去の記憶から作られるらしいが、
ここまで寂寥感に満ちた場所など、記憶にあるはずもない。
思い至って、手を顔に添える。
そうしなければ、この暗中では、顔があるということすら認識できないような錯覚があった。
そのまま指を滑らせて、頬を、つまんでみる。
……痛い。
当たり前だ。頬をつねったのだから、痛いに決まっている。
古典的な手段だが、それ故に頼れる。様な気がした。
しかし、痛覚を伴う夢など、少なくとも自分の中では前代未聞である。
あまり認めたくはないが――――どうやら、現実らしい。
夢にしては、やけにリアリティがあるのだから、そうだろうと薄々感じてはいたが。
こうして確かな証拠と共に突きつけられると、逆に受け入れづらくもあるが。
結局、そうだと納得するほかない。
だが、夢でないなら、これは、何なのだろう。
こんな、視界が全部真っ黒になるなんて奇妙な現象、中々起こりえないことだ。
ここは幻想郷であるから、ないとも言い切れないが。
これも、何かの異変だろうか?
……いや、それはない。
ひらめいた案を、即座に切って捨てる。
異変とは、解決される前提で起こすもの。
なれば、こんな、さしもの巫女であろうとも糸口のつかめない状況を作り出すとは考えづらい。
もしかしたら自分だけこんなことになっているのかもしれないが、
この様な状態に追い込んで、どこの誰が得をすると言うのだろうか。
こんな様相に持ち込める妖怪に畏怖を抱かせるのが目的なのかもしれないが、
これほどまでに暗くては、その加害者が実在していることすらも認識できそうにない。
なら、何故?
自分は、何でこうなっている?
……わからない。
わからないことが、恐ろしい。
自分以外の全てが、忽然と姿を消したことが。
残った自分自身も、その存在がはっきりとしていないことが。
ふと、中空に、手を伸ばす。
それには、何の考えも、打算もない。
ただ、何かが掴めるのではないかと、思っただけ。
けれど、ない。
闇が、手をすり抜けた。
何も手にできないまま、名実共に空振りに終わる。
ここにあるのは、空虚だけだ。
空っぽで、がらんどうだから、虚無感だけがある。
それは、とても寂しいことだと、思った。
そして、何もないこの場所に取り残された自分は、一体何なのかと、思った。
これは、罰なのか。
彼女の思いを、拒絶したことに対しての。
彼女の意思を、否定したことに対しての。
あるいは、ここがあの世と言うやつなのかもしれない。
死んだ覚えはないが、可能性はある。
幻想郷のあの世とは随分と毛色が違うが、
もともと、自分は幻想郷で生まれた人間ではないのだから、
‘外’の慣わしに従うのが常なのだろう。
だとしたら、自分は、罪人なのかもしれない。
彼女を、拒んだ。
人の心に、深い深い傷跡を残した。
それが、罪。
他者を傷つけたことが罪ならば、
他者と接することを禁ずるのが罰なのだとすれば。
ここに叩き込まれたことにも、納得がいく。
……なるほど。
ここは、地獄だ。
◆
ずっと震わせていた喉を休ませて、
ずっと動かしていた足を止めて、
それから呆ける様にへたり込んで、どれほど経ったのだろうか。
どれだけ声を張り上げても、返事はない。
どれだけ歩みを重ねても、何も探し出せない。
それだけやって、わかったことは。
救いなど、ないこと。
――――気が、狂いそうだ。
時間すらも定かでない。
もう、一日は経っただろうか。
いや、一時間も経過していないかもしれない。
全てを、投げ出したい。
そう思っても、実行に移せない。
全てに覆いかぶさっている黒に混じることには、抵抗があった。
今更、地獄に落とされてまで生に執着するとは。
自分が人間であるからか。
生まれついての生き汚さからか。
答えすら出せずに、あるかもわからない壁に背を預け。
そのまま、虚空を見つめ続けていると、
不意に、甘いにおいがした。
嗅覚だけは、生き残っていたのだろうか。
はたまた、いるやもわからない‘外の’神様の思し召しか。
その香りは、ひたすらに甘い。
花の蜜の様な。
砂糖菓子の様な。
そんな、脳の髄に溶け入るような、甘ったるさ。
それを、心地のよいものだと思ってしまったのは。
それが、唯一の刺激だったから。
それに、すがるしかなかったから。
頭の中が、ぐるぐると回る。
何も考えたくない。
そんな惰性で、埋め尽くされる。
普段ならば、情けない、と一喝したのだろうが。
生憎と、そんな気概すら、今の自分は持ち合わせていなかった。
ぼけっと、その香気に酔いしれる。
全てを、委ねる様に。今の自分は、何も持っていないけれど。
ふと、思い浮かぶ。
この微香は、どこから来ているのだろうか。
精根が尽きて、自ら生み出した幻なのかもしれないが。
まさか、それほどまでに疲労していたとは。
加えて、
まさか、
この暗闇に、彼女の姿を見出してしまうほどに磨耗していたとは。
闇を拒み、浮き出るように存在している彼女は、こちらに気づくと、心配そうに駆け寄ってくる。
そのまま傍らに寄り添うと、大丈夫ですか、と声までかけてくるではないか。
その声も、体も、自分が作り出した、実体のない虚構ではあれど。
自分が拒絶した人物を、求めてしまうなんて。
自分の性根は、どうやら本当に腐っているらしい。
「聞こえていますか? 返事をしてください!」
彼女の声は、段々と大きくなっている。
焦りを感じているその表情は、本当に感情がこもっているかのようで。
自分が独りよがりに想像した幻影だとは思えないほどに、精巧にできていた。
何もないこの場所に、いるのは。
自分と、彼女と。
二人、だけだ。
正確には、一人と、その一人が生み出したまやかしだけ。
……ここに、何もないのであれば。
このまま、ここで彼女に依存する様に生きていくのも、いいのかもしれない。
例え、滑稽な一人芝居だとしても。
自分の精神は、孤独に耐え切れないのだから。
考えに区切りをつけて、返事をすれば、彼女は安心したのか、ほうと息をついた。
それは、偽者のそれなのだろうけど。
彼女がいてくれることで、自分も同じ様に安定しているのは事実だ。
身勝手に彼女を突き放したくせに。
彼女を、誰よりも欲するなんて。
――――本当に、自分は最低の男だ。
◆
気づけば、自分の心情を、全て彼女に吐露していた。
彼女に話すことで、許されたいとでも思っていたのか。
なんて、虫のいい話。
半分諦観の念に支配されながら、ぼけっと暗闇を見つめる。
借り物の彼女でも、幻滅することだろう。
自分は、自分勝手な男だから。
けれども。
けれども、彼女は優しく微笑みを浮かべて。
そっと、抱きしめてくれた。
許すのだと。
認めるのだと。
自身の描いた偶像が。
自分の理想に順ずるのは当然であれど。
目の前にいるのが、本物の、彼女の様な気がして。
彼女からほのかに香る、甘い香りに打たれたように。
意識がぼやけて、彼女に、すがるように、そっと、すべてをなげだして――――――
◆ ◆ ◆
ふふっ、と、彼女は笑った。
その腕の中に、一人の男を抱きかかえながら。
彼女らがいるのは、四方を黒いカーテンで飾られた、暗い世界ではない。
彼と、彼女のためだけに作成された、特製の結界の中だ。
一般的な視点から見れば、そこは端々に怪しげな仕掛けが設置された、普通の一室にしか見えないが。
見る者が見れば、それは幻覚を見せるための結界なのだと、理解できただろう。
加えて、丁度部屋の中央に鎮座している香も。
一時的に思考力を奪う効力を持ったそれなのだと、わかる者がいれば。
この施設は、‘人を騙すための'それなのだと、判明したはずだ。
しかし。
この場にいるのは、彼女と、彼だけ。
故に、他人に危険視される可能性など、あろうはずもなかった。
彼女は、笑う。
自身の腕の中で眠る、彼を見て。
より、笑みを深くする。
――――ようやく。
彼に危害をくわえかねない手段まで用いて、ようやく取り戻したのだ。
彼女の笑いに含まれているのは、達成感と、充足感と、
深い、愛情だった。
彼に、恐れを抱かれて、逃げ出されること。
彼女にとって最大の誤算は、それだった。
それが彼との離別と言う結果につながるのであれば、それを承服することは絶対にできない。
――――例え、彼に危ない橋を渡らせることになったとしても。
そう決意するほど、彼女も追い詰められていた。
普段の彼女であれば――自他を問わず――彼に手を上げることなど、到底容認しないのだ。
だから、もう、逃がさない、と。
もう二度と、離したりしない。
もう二度と、危険な目には合わせない。
そのために、このようなモノにまで頼ることになったのだから。
しかし。
非合法に近い手段を用いることにはなったが、
こうして彼を抱きしめることの、何と心安らぐことか。
こうして彼に必要とされることの、何とこころよいことか。
これから彼と共にある未来を考えることの、何と心躍ることか。
そう考える彼女の心は、恋する乙女の様に純粋であり。
人を堕落させる悪魔の様に、濁りきっていた。
「ずっと、一緒ですからね」
喜色に満ちたその声に対する返事は、なかった。
最終更新:2015年08月23日 14:33