地の底から幻想の郷へと戻った鬼―――伊吹萃香にとって、素面は忌むべき事だった。
こんな、桜の舞う日は特に。
大昔、まだ結界が張られていないぐらい大昔。
鬼は地上に在り、妖怪を支配し、時折人を浚った。
伊吹萃香も頻度は他の鬼よりは劣るが、やはり人を浚う事があった。
特に意味があっての事ではない。惰性の習慣だった。
だが、有る青年と出会った事で人を浚う事は無くなった。
代わりに、青年の元にちょくちょく訪れた。
この時代、恐怖の象徴であった鬼がやって来て受け容れる人間は居ない。
その意味では青年は不思議な存在だった。あやかし等を恐れなかった。
伊吹萃香は、青年との交流を続けた。
理由は楽しかったからだ。宴会よりも、青年と2人でいた方が楽しかった。
鬼として存在してきた長き年月よりも、青年と一緒に過ごした瞬き程度の時間。
萃香にとっての幸せな時間は、敢え無く終わりを告げた。
青年が、嫁を娶る事になった。
嬉しそうに報告する青年は、萃香の頬が僅かに引きつるのを知らなかった。
小鬼の中で、今まで感じた事の無い感情が渦巻いた。
まるで冥界の悪霊の怨嗟、呪詛のような昏い感情。
そして、式の当日。
式を遠巻きに霧となって見ていた萃香は、最近になって芽生えた感情が鎌首を上げている事に気が付いた。
あの日から幾ら誤魔化すように、浴びるように酒を飲んでも紛れなかった、治まらなかった感情。
青年と嫁御が、顔を見合わせて幸せそうな笑みを浮かべた瞬間。
小鬼は、自分で制御出来ない何かを解き放ってしまった。
気が付くと、全ては終わっていた。
喜びに満ちたお式の場は、流血の惨事の場へと化していた。
正気に返った萃香の目の前で、息絶えた花嫁を抱き締める青年。
白無垢は真っ赤に染まり、青年の晴れ着も血塗れになっていた。
―――違うんだ○○、これは、何かの間違いなんだ。
―――こんなつもりじゃなかった。○○を傷付けるような事をしないって約束したのに。
必死に、青年に何かを言いたくても、萃香の口は開かなかった。
青年は顔を上げて、声を出せれない萃香を見詰める。
深い、悲しみに満ちた眼だった。
青年の優しい顔が好きだった萃香にとって、一番見たくない顔。
いっそ、罵倒された方が、憎悪された方が、怒りをぶつけられた方が、どれ程楽だったろうか。
鬼は泣いた、大声を出して泣いた。
泣きながら飛び掛かり、青年の喉笛を噛み千切った。
どうしようもなくなった彼女は、鬼として行動する事しか出来なかったのだ。
そして、青年の全てを血の一滴すら残らず自分の中に取り込んだ後、彼女は地底の底へと去っていった。
以来、彼女が素面であった事はない。
常に酔っていないと、彼女の過去の傷は容赦なく痛みを発した。
以来、彼女は人を浚ったり喰らおうとはしなかった。
二度と、二度と人を食べたくはなかった。
最近になって地上に戻った理由は自分でも解らない。
手慰みに怪異を起こして巫女に倒された後、彼女は地下へは戻らず神社で暇を潰す事が多くなった。
境内で寝そべり、手にした瓢箪をぐびりと呷る。巫女は何か仕事が出来たらしく人里へと出かけていた。
「桜をツマミに、酒か」
一瞬、笑みを浮かべた○○が盃を差し出す光景が脳裏を焼く。
かつての妖怪の山で一番桜の名所へと彼を案内し、酒を2人で楽しんだ時の事。
瓢箪を握る手が震える。目尻に、涙が浮く。鬼が泣くモノかと手の甲で擦り、ゴキュゴキュと酒を喉に流し込む。
「あれ、霊夢……と誰かいるの?」
霊夢が帰って来たようだ。鳥居の方に気配を感じる。
何とか落ち着いた萃香は何気なくそちらを見やり、完全に凍り付いた。
外来人なのだろう。所謂『幻想郷の人では無い』服装をしている。
霊夢から帰還の手順らしき説明を聞いている彼は、どことなく困ったような笑みを浮かべていた。
そう、かつて、初めて山の中で逢った時と同じように。
「○○……」
萃香の手から、瓢箪が滑り落ちた。
音を立てた所為か、青年が自分に気付き会釈してくる。
ゆらりと、自分の身体が意志に反するように立ち上がった。
霊夢が何かに気付いたかのように、素早く針を取り出して身構える。
霊夢が何かを問い質すように叫んでいるが、既に萃香の耳には聞こえなかった。
「○○―――!!」
萃香の放った叫びが、博麗神社に弾幕と共に木霊した。
最終更新:2011年03月04日 01:42