「あ、私がやりますからいいですよ」
「そんなものを持ってはいけません。それは私が」
「それでは、今日も元気に頑張りましょう!」
青空に大声が響くと、今日も始まった、なんて言葉が聞こえてくる
この男、○○はそういった愛想を隠さない男だった
もっとも、その愛想に返ってくるのは苦笑いばかりなのだが
そのくせ仕事はきちんと行うため、面と向かっては馬鹿にしにくい
そんな、どうにも掴みどころのない男だった
仕事明け
皆が居酒屋で一杯、なんて相談をしている間に、○○はいそいそと帰り支度をまとめる
「それでは、失礼します!」
あいも変わらず愛想のよい大声に、同僚達はいつものように苦笑いを漏らすのだった
家の中から、タンスをひっくり返したような音が聞こえる
―――やれやれ、またか
先ほどまで顔に張り付いていた笑みが曇る
しかし、それも一瞬のこと
すぐに表情を戻し、勤めて明るく家の戸を開ける
「ただいまー。今帰ったぞー」
その言葉が終わる前に、家から飛び出してきた○○の恋人――鍵山 雛――が胸に飛び込んできたため
バランスを崩した○○は、したたかに後頭部を地面にぶっつけるハメになった
―――これは、今夜も眠れまい
いつものように泣きじゃくる雛と、荒らされたように散らかる部屋を見て、気づかれないように小さくため息をついた
「今日は何をしていたの?
……それから?
………そこで何をしてたの?
………まさか○○、そこで女と会ってたんじゃ……
そう? それならいいけれど。それからどうしたの? まだお昼前の話にもなってないわよ」
―――これでは身が持たんわ
長い長い問い詰めに晒されて○○は考える
表情は笑顔のまま話さねばならないため余計に疲れてくる
しかし、これが○○の処世術なのだ
もともと、彼女はほとんど人とかかわりを持たない厄神だった
○○も最初は恐れていたものの、彼女のはかなげな美しさに惹かれるには時間はあまり必要ではなかった
だが、もっと変わったのは雛のほうであった
それまで誰ともかかわりを持っていなかったぶん、たまりにたまった寂しさがようやく出口を見つけた、とでも言うのだろうか
とにかく四六時中○○にべったりとくっついている
取材に来た新聞記者がまずは○○と話したいからと二人を離そうとした瞬間、あまり感情を表に出さない雛が
烈火のごとく怒ったというエピソードからも、彼女の依存ぶりが分かるだろう
しかも、○○が外に働きに出るとなった時から、だんだんと彼女は陰気になった
外に行かないでほしい
片時も離れたくない
私のことが好きじゃなくなったの?
いろいろと言われたが、つまるところ
―――愛があっても、飯は喰えん
であった
このころには雛と付き合う前に貯めていた金を使いきり、すっかり家計は火の車だったのだ
仕事に出ている間は○○に会えない
村に出て自分自身の厄をばら撒いてしまうのは、雛の最も望まないことだからだ
そんな雛を見かねて、○○はわざと明るく振舞うようになったのだ
外でも同じような振る舞いをするのは、ただの惰性でそうなっただけである
雛が一日のことを根掘り葉掘り聞きたがるのは、○○のことを何でも知りたいから
家が荒らされたようになるのは、情緒不安定になって暴れるから
それが分かっているから、○○も強い態度に出られないのだ
「……うん。分かったわ」
そう言って、雛が素早く口付けを交わす
3時間も話せばそりゃ分かるだろう、とは口に出さない
そんなことを言えば、雛が泣き出して夕食が遅くなることを経験から知っているからだ
しかし、今のようにもう一度口付けをせがむような目をしている時も危険信号だ
そのままなし崩し的に布団に連れて行かれることにもなりかねない
その場合、もちろん夕食は抜きだ
「ひ、雛? できれば今はいっしょにご飯を食べたいな~ なんて……」
ここで、いっしょに、と強調するところに○○の苦心がある
「そうね。それじゃ、お味噌汁あっためてくるわ」
その前にと言って、雛がもう一度口付け、台所に入っていった
「かわいい恋人にここまで愛されていれば、多少面倒くさくても釣りがくる か」
ぼそり、とまた聞こえないようにつぶやく
まったく意識せずに笑みが浮かんでいることには、○○は気がつかなかった
「いい日和ですなぁ」
○○の声はよく通る
その声が聞こえてくると、若い者は露骨に苦笑いを漏らし、老人は苦い顔で声がしたほうを睨んだ
○○は依然として軽蔑と紙一重の目で見られている
最終更新:2010年09月03日 09:15