…
……
「ん、あれ、ここは……痛た」
藪に覆われた地面の上で意識を取り戻した。
辺りはすっかり暗くなっており、視界は良いとは言えない。
それでも差し込んできた月明かりに、自身の腕がちらりと照らされる。
無数のみみず腫れ、痣、切り傷。
それらは腕だけに限らず、全身の至る所についている。
それらは決してここへ至るまでについたものではなく――
「ああ……そうか。俺は、逃げているんだったな」
――"愛していた"女の元にいた時につけられた、傷跡。
「(彼女は所有の証だと言っていたっけな)」
それも逃げ出してしまえば、過去の存在だ。
疲労感の残りを首を振って霧散させ、地面に座り直す。
今頃我が家では、俺が脱走した事が発覚しているだろう。
既に追っ手も遣わされているかもしれない。
大人しく投降した方がまだ楽かも知れないという思考が、
ちろりと鎌首をもたげてくる。
「冗談じゃない」
既に賽は投げてしまったのだ。
何を今更放棄する必要があるのか。
俺は、俺の場所に――外界に帰るのだ。
要らぬ考えを軽く頬を張って追い払い、藪の外へ出て周囲の様子を探る。
家を抜け出し、博麗神社のある方角へひたすらに走ってきたはずだ。
三里程先だろうか、かつて世話になった懐かしき神社のある山が見える。
このまま順調に行けば、後三、四刻もあれば辿り着けるだろう。
あの貧乏巫女が夜中に起きているか少し不安だが、俺は命がかかっている。
叩き起こしてでも話をつけ――
「……○○さん」
聞き慣れた少女の声に振り返る。
文に幽閉されるまで、懇意にしていた天狗の女の子、椛。
「……もみっこか。君も捜索隊に?」
「……はい。起こしちゃ悪いと思って、待っていました」
辛そうに顔を伏せているのは、決してこれが
彼女の意志に依るものではないという事だろうか。
「やれやれ、もう少し上手く行くと思ったんだけどなー」
「○○さん……」
もう退路はないはずなのに、妙に清々しい気分だ。
「ま、俺を見つけたのが君で良かったよ。
――奴の所まで、連れていくんだろう?」
す、と両腕を差し出す。
そのまま掴んで行くのかと思ったが、
彼女は俺の腕の間を擦り抜けると、俺に抱き付いてきた。
「椛……?」
「――逃げてください。時間は、私が稼ぎます」
突然の言葉に思わず目を見張る。
「馬鹿な真似は止せ。そんな事をしたら君は……」
「一族から追放……例え無事に済んでも――
文さんに殺される、でしょうね」
「ならどうして!」
たかだか俺一人の為に彼女に破滅の道を歩ませるわけにはいかない。
しかし椛は涙を湛えたまま笑みを浮かべると、俺にもう一度抱き付いてきた。
「ずっと、ずっと好きでした。今も、まだ。
……貴方のお役に立てるのならば、私は本望です」
「椛……」
彼女は僅かに距離を開けると、俺の斜め後ろを指差した。
「あちらならば捜索隊も手薄です。
少し遠回りになるかも知れませんが……
○○さん、お元気で」
ぺこりと一礼をすると、飛び去ろうと軽く溜めの姿勢を取り始めた。
そんな彼女の細い腕を、俺は反射的に掴んでしまっていた。
「……何も君が死ぬ必要は無い」
「離して、下さい」
俺を見つめる彼女の瞳には強い意思があった。
生半可な言葉では止める事は出来そうもない。
「こうしている間にも文さんは――」
「一緒に逃げよう。それなら君も無事に済む」
「――え?」
ぴく、と彼女の耳が動く。
「君が死ぬのは嫌だあそこに戻るのも御免だ。なら一緒に逃げればいい」
「お気持ちは嬉しいです。でも妖怪の私では――」
「そんなもの、紫さんに頼み込めば何とかしてくれるさ」
掴んだままの俺の手と、顔を交互に見てから、彼女は静かに頷いた。
「……わかり、ました。
それならば早く行きましょう、○○さん。こちらです」
「お、おう」
覚悟を決めたか、引き止めていた先程とは打って変わって
俺を引っ張りはじめた。
つられるようにして緩やかな駆け足で走りだす。
掴んでいた腕は自然に手と手を取り合う形に変わり、
俺達は博麗神社への道を進むことにしたのだった。
「(偽の情報を報告。替え玉も流した。
文さんにも不意打ちを食らわせたから、暫らくは動けない。
稼げた時間は十二分にありますね。
これで○○さんは、私の物、です。
……恋は戦争、なんですよ?文さん)」
最終更新:2011年03月04日 01:31