「私の家に、遊びに来ませんか?」

 そう、文は、楽しそうに誘った。



 思い返すとするならば、まずはファーストインプレッションからだろうか。

 射命丸 文。
 妖怪の山に居を構えるカラス天狗にして、『文々。新聞』を発行している、伝説の幻想ブン屋。

 ばら撒くように号外を配布しているせいで、存在そのものは知るに及んでいた。
 普通の新聞屋ならともかく、彼女は何かと規格外なのだ。

 そもそも、普通の新聞屋はポストに新聞を‘突き刺し’たりしない。
 一目見ただけで確実に投擲したのだろうことがわかるソレは、半ば郵便受けと同化していた。
 ポストと新聞と言う前提がなければ、前衛的なオブジェか何かに見えることだろう。

 まあ、それはともかくとして。
 新聞記者として――様々な意味で――有名である彼女と接する機会は、少なくなかった。
 それも、一般の人間に比べれば珍しい存在である‘外来人’である、自分は。

 最初は、彼女もネタの一つに、ぐらいの考えで接触を図ったのだろう。
 新しい外来人が訪れたと言う風の噂を聞きつけたのか、
 はたまた人里に見知らぬ家が増えていることを疑問に思ったのか。


 何にしろ理由は分からないが、
 ある日の昼下がり、控えめなノックに応えて家の扉を開ければ、そこには文がいたわけだ。


 そう書くと押し売りのごとき強引さを伴っているようだが、
 実際の彼女は礼儀正しく、あくまで低姿勢で、即ち記者としての態度を徹底していた。
 周囲の評価はあまりよろしくない――それも伝聞に過ぎないが――彼女だが、面と向かって話をした限りでは、これと言って悪い印象は抱かなかったわけである。

 むしろ、はきはきとした言動と、物腰の柔らかさは、とても素晴らしいものだ。
 自分にとっては、たいへんこころよい。

 それを――もちろん悪評うんぬんは伏せて――彼女に伝えたところ、表面上ではごまかしながらも、大いに照れていた。
 マスコミは嫌われるような行動をしてなんぼらしいが、彼女はまわりに煙たがられているらしいから、こうやって褒められるのは珍しい体験なのかもしれない。

 それにしても、顔を赤くしてはにかんでいる文は、その正体が妖怪だとは思えないほどに幼く、愛らしかった。
 なにこの娘、かわいい。

 個人的な所感はさておき。

 百聞は一見にしかず、と言うやつだ。
 少しばかり話をしただけだが、それだけでも多少の人となりは掴めるもの。
 話した内容が後日に実際に一つの記事として形になるのはむずがゆかったが、悪い気はしなかった。




 本来なら、これで終わりだったのだろう。
 新聞に求められるのは、情報の正確性と新鮮さ。
 魔法も使えなければ空も飛べないただの外来人を何度も取材したところで、特に何か得られるわけでもない。



 はずなのだが、その後も、文は何度か自分の下を訪れた。
 数日に一度と言う、不安定ながらもきちんとした周期を持って。
 理由を問えば、これもインタビューだと彼女は語っていたが、内容は世間話やらが主だ。

 他にも、たまに、里をぶらぶらとまわることもあった。
 そんなことをしては里の人間に誤解されかねないのでは、と思ったが、文は微塵も気にしていない様子だったが。


 果たしてそれを記事にできるのだろうかとも思ったが、
 話しているとき、彼女が嬉しそうにしている――気をつかってくれたのかもしれないが――のに加えて、
 文と話すことは、自分にとっても喜ばしいことであったから、断ると言うことはしなかった。


 うぬぼれかもしれないが、彼女は、自分に何かを求めてくれたのではないだろうか。
 記事のネタになる話を聞きだせる、仕事相手を。
 あるいは、仕事の疲れを、気兼ねなく吐き出せる話相手を。

 何であれ、他者に自分を必要とされると言うのは、人間冥利に尽きるというものだ。
 調子に乗って慢心しているのは自覚できるが、どんな形であっても、人の役に立てているのだと実感できるのは、実に気分がいい。



 ……こうして内省するまで気づかなかったが、自分も大概に現金なものだ。




 何度目の訪問だったろうか。
 回数は、とうに忘却の彼方へと旅立っていた。
 二桁を越えたあたりから数えていないが、何はともあれ、彼女が自分の家を訪問したときだ。


「私の家に、遊びに来ませんか?」


 そう、彼女に招待されたわけである。
 本人は、にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべていた。

 突然の提案に虚を突かれてしまって、思わず固まってしまう。
 はて、どういう意味だ? 家に遊びに? 文の家に? 誰が? 

 面食らった様子で呆然としているこちらの様子に気づいたのか、
 はっと息を飲むと、彼女は取り繕うように続ける。

「いっ、いえ、そのですね、いつも私がお邪魔させてもらっているので、悪いと思って、今度は私の家にと――――
 別に、その、変な意味はないですよ!? 取って食おう、と言うわけではなくてですね!」

 女性が家に男性を招くと言う行動の、‘別の’意味を意識したのか、文はどもりながら舌を働かせた。

 ああ、そう言うことか。
 説明を受けて、ようやく理解した。

 確かに、彼女と話をするときは、いつも自分の家でだ。
 それは、いつも自分が訪ねられる側だからと言うのもあるし、
 彼女の住居が、よそ者に対して排他的であると聞く妖怪の山にあるから、と言うのもあるだろう。

 二重の意味で自分が立ち入って大丈夫なのか、と問いかけると、
 彼女は動揺を鎮めるのにわずかばかりの時間を要してから、誇らしげに胸を張って、


「私がいますし、安心してください。
 しっかりエスコートさせてもらいますから」

 ふふん、と冗談めかして鼻を鳴らす。
 それは男性がするべきことだとは思うが、生憎と自分は普通の人間だ。
 彼女を守るどころか、守られる立場にあるのである。

 ……そんな悲しい現実はさておき、本人のお墨付きがあるならば、問題ないのだろう。
 持ちかけられた申し出を、受けることにした。





 翌日。
 連れられて、文の家にたどり着く。
 ここに来るまで、山の道中で何やかんやあったわけだが、前述の通り、自分は何の変哲もない男。
 そんなちっぽけな男の体面と名誉のために、詳細は秘匿させて頂くこととする。

 そんなこんなで、無事到着。
 外観自体は、普通の家屋と一切変わらない。
 が、デカい。立派と評しても、お釣りがくるぐらいに。

 まったくもって、自分のあばら家とは大違いである。
 新聞の売れ行きはあまり好調とは言えないらしいが、さすがカラス天狗だ。天狗なのと家の大きさは関係ないような気もするが。

 呆気にとられつつ建築物を眺めている自分の一歩前に出て、文は玄関を開けると、

「どうぞ、あがってください」

 と、柔和な笑みで招き入れたのだった。





 やはり、外面がいい家は内面もいい。
 中に案内されて、真っ先に出た感想がそれだった。

 障子一つ、畳一つ、柱一つとっても、やはり違う。
 いや、建築業者でも大工でも畳職人でもない自分は完全に門外漢だが、素人目に見てもわかる。
 格の違いと言うか、高級感と言うか、雰囲気と言うか。
 いずれにしろ、日本家屋としては完成された形と言ってもいいだろう。

 きょろきょろ視線を転じている内に、応接間とおぼしき部屋に行き着く。
 かけてください、と示されて、座布団に腰を下ろす。すごい。ふっかふかだ。
 自分の家にも座布団はあるはずなのに、ここまですわり心地に差が出るとは。
 何だか、彼女を自分の家でもてなしていたのにふつふつ罪悪感がわいて来た。窮屈な思いをさせていたのかもしれない。

 思い切ってたずねると、対面に座る文は首を横に振って、

「いえいえ、そんなことはありません。
 貴方の家は、とっても居心地がいいんです」

 そう言って、彼女は笑みを見せる。
 多分に、それはフォローなのだろうが、何故だか、それを建前だとは感じなかった。

 それから文は苦笑を浮かべると、

「まあ、相当入り浸っていますし……その、迷惑じゃありませんか?」

 不意に、表情を陰らせる。 

 確かに、顔見知りが家まで足を運んで来たら、つっけんどんに帰れと蹴りだすわけにもいかない。
 悪意を持っているように見える対応は、人間関係がこじれる原因になりやすいのだ。

 文は、仕方なく相手にされているのでは、迷惑をかけているのではと、気に病んでいるようだ。
 彼女の表情は、不安に彩られていた。

 よくない、と思う。
 彼女は、もっと明るく振舞っていたほうが似合っている。


 誤解しているようだが、自分は文の訪問を楽しみにしていた。

 話をしたり、里に買い物に出たりするだけではあるけれど、
 次はいつ来てくれるのだろう、今度はどこのお店を見てみようか、
 そんなことを考えるととてもわくわくしたし、
 実際に文に会うと、元気になれるし、胸が躍る心地だったのだ。
 だから、そんなことを心配しなくてもいい。


 そう言った旨のことを告げると、文にとっては予想外の返答だったのか、
 言葉にならない声をあげて、うつむいてしまう。


 何か変なことを言ったのかもしれないが、ともあれ、彼女の憂慮は杞憂にすぎなかったのだ。
 それが伝えられれば、自分としては願ってもなかった。

 ひとまずは、文が落ち着くまで待つとしよう。
 じっと文を見つめていると、小さく声が聞こえた。

「……ありがとうございます」

 ぽつりとこぼれたその音の主は、察するまでもない。
 何に感謝されているのかは、わからない。自分は本当のことを言っただけなのだが。 

 理解の及ばないところではあったが、とりあえず、どういたしまして、と返しておく。
 すると、文は伏せていた顔を、ゆっくりと上げて、

「……えっと、少し、よろしいでしょうか」

 そう、問うてきた。
 時間があるかと聞かれているのだろうが、これから文と過ごすつもりだったのだから、当然空いている。
 ただ、雰囲気から、下らない話ではないだろうことは伺えた。

 肯定の意を込めて頷けば、
 文は大きく深呼吸をして、再度気持ちを落ち着けてから、







「私は――――」

 コン、コン。



 声が、遮られた。
 下手人は、ノック音。
 つまるところ、第三者。

 出端をくじかれた文は、びくっと体全体を緊張させると、若干の間を置いて、
 ためこんでいた感情の全てが混じった、やるせないため息を吐き出す。

 なんとも、タイミングが悪い。
 やり場のない怒りに苛まれた文は、低くうなると、一言こちらに詫びてから立ち上がる。

「……ちょっと、出てきますね」

 その声からは、やや覇気が抜けていた。
 それほどまでに、大事な話だったのだろう。
 こんな時に限って来客とは、運のよくないことだ。





 文が席を立って、数分ほどしただろうか。
 玄関先から戻ってきた彼女は、今にも泣き出しそうな、けれども今すぐ怒り出しそうな、複雑な表情をこちらに披露してくれた。

 何かあったのだろう。
 問いを投げかけると、文は申し訳なさそうに口を開いた。

「ええ。何でも、‘山の方’で一悶着あったみたいで……」


 彼女の言う‘山’とは、おそらく天狗が形成している社会のことだ。
 一口に天狗と言っても多くの種類があるらしく、それぞれが密接に関係して、一つの組織を作り出している。
 その中に、当然カラス天狗たる文も組み込まれているわけだ。
 メンバーの一員である以上、厄介ごとがあれば動員もされるのだろう。

「ごめんなさい。私から誘ったのに、こんな……」

 それは仕方のないことでもあるし、嘆いたところで詮無きことだ。
 自分のことは構わないでいいと伝えると、文は何度も頭を下げる。
 いや、文が悪いわけではないし、そうされると逆に良心の呵責を感じてしまうのだが。
 だったら早く帰ってきてくれ、と軽口を叩いたところ、

「すぐに戻ってきます!」

 そう意気込んで、障子を滑らせ、開いた道へぱたぱたと走り出す。
 真面目なところのある彼女だ、もしかしたら真に受けてしまったのかもしれない。

 ……悪いことをした。 





 さて、あれからどれくらい経過しただろうか。
 そう思って、壁にかけられた時計に視線をやると、黒く飾られた長針は、先ほどとは反対の方向を向いていた。
 短針はと言うと、先ほどから数ミリしか移動していない。
 秒針は、ひとりマイペースにリズムを刻み続けていた。

 ……それほど経っていなかった。
 だからどうと言うわけでもないのだが。


 しかし、どうにも手持ち無沙汰だ。
 普段ならば、暇な時間は読書に勤しむなり、里の子供達と遊んでやるなりするのだが、
 生憎ここらに人間の子供はいないだろうし、他人の家にある本を勝手にあさるのは気が引ける。

 眠ってもいいのだが、文が帰ってきたときに自分が寝ていたら、それは大変申し訳ないことになりそうだ。


 ……。
 …………。
 ………………。


 悟りを開くべく無心を続けていたら、ふと思い立った。
 せっかくだし、文が帰ってくる前にすませておこう。

 腰を上げて、背筋を伸ばす。
 そして、先ほど文が出て行ったのと同じ障子をスライドさせた。





 引っ張っておいてなんだが、別にたいしたことはしない。
 ただ単に、用を足そうと思っただけである。

 と言っても、ここの家のトイレの位置は、残念ながら知らない。
 そうなると、家の中を探索と称して物色することになるのだが……。
 気は進まないが、かと言って文が帰ってから聞くのもそれはそれで気が引ける。
 そう言った下の世話は、男性が女性に聞くものではない。


 故に、こうやってトイレがどこにあるか捜索しているわけである。
 無許可でやっているのは心苦しいが、人間、限界と言うものはある。
 あのまま部屋で暴発されたり、庭やそこらでされる方が嫌だろう。

 ……しかし下品な話だ。



 だが、漏らすほうがもっとアレだ。
 男として、それだけは避けなければならない。


 しかし、これと言ってアテもなかった。
 ご丁寧に「W.C.」とでも銘打たれた案内板でもあればいいのだが、ここは公共の場ではなく個人の邸宅。
 プレートはおろか、見取り図などあるはずもない。

 こうなれば、手探りで行くしかない。
 完全にドロボウやら空き巣やらと同じような手口を取っているが、背に腹は代えられないのである。



 廊下を練り歩き、まず一つ目。
 進行方向右手に見える引き戸の取っ手に手をかけ、横に滑らせる。

 開放した途端鼻をつく、インクのにおい。
 なるほど、新聞の執筆やら印刷やらを行う作業部屋だろう。
 ならば、ここに厠があるはずもなし。

 部屋に入ることなく、戸を閉める。
 正面に向き直って、廊下の探査を再開。



 二つ目。
 先とは逆側に備え付けられている引き戸を開け放つ。

 インクのにおいは、しない。
 室内を検分して見るが、特に目を引くものはない。
 と言うより、モノがない。
 ぴっちり閉められた押入れと、あとはやや背が高いちゃぶ台が一つ、壁に立てかけてある。

 箪笥などの生活品は見当たらないし、おそらくここは客室だろう。
 なれば、やはりここでもお手洗いへの道しるべを見つけることはできない。


 二つも外しているわけだが、多分にこの家が大きいせいだ。
 部屋数は、一体いくつに上るだろう。
 カウントしてみてもいいかもしれない。


 気をそらすように考えながら、三つ目。
 ドアをそっと開き、中を覗き込む。

 見えたのは、各所に施された可愛らしい装飾。
 私物の数々は、いずれも女性らしいもので彩られている。

 推測する材料は、いくつもある。
 寝室だ。それも、家主――――文の。


 だとしたら、あの押入れの中には、あの箪笥の中には、











           文が使っている布団が、あるはずだ。 




           文が着用している、下着とか―――――――――――









 いかん。
 いかんぞ。

 誰も見ていないからと、欲望に駆られるところであった。
 そんなことをしては、信用を失うどころか通報されかねない。
 欲求に抗いつつ、歯軋りをしながら扉を閉じる。









 でも、一枚ぐらいならバレないんじゃないか?












 意味深に ◆ を挟んでおいて何だが、何もやっていない。
 何もやっていない。何も。 何 も や っ て い な い。





 心持ちを新たに、お手洗い探しを続行。
 文の私室――いや、やましいことは何もしていない――からしばらく歩いて、ふと、気づく。

 ここにも、戸がある。
 けれど、おかしい。
 他の部屋と違って、カモフラージュと言うか、見つからないような細工がしかけられている。
 扉が、壁と同色なのだ。

 気を張っていなければ、まず見逃してしまう。
 こんなところにトイレを隠したりしないだろうが、何事も挑戦だ。
 普段どおりに、引き戸に手をかけて――――









 ――――何だ、これは。

 驚愕する、と言うのは、まさしくこのような状態を指すのだろう。

 視界に入ってくるのは、写真。
 壁にも、床にも、天井にも。
 ピンで、テープで、画鋲で。
 部屋じゅうに、一瞬一瞬を切り取った、小さな額縁が飾られている。

 数えるのも億劫になるような、小さな紙切れ。
 それら全てに共通しているのは、一人の男にピントを合わせ、中心に据えていること。

 その男には、見覚えがあった。
 いや、見覚えなんてもんじゃない。
 何せ、毎日毎日、嫌と思っても、こいつの顔を見せつけられるのだから。



 その男とは、自分だ。




 何で、何故、どうして?
 疑問と困惑が、心中を埋め尽くす。

 こんなの、病的だ。
 まるで、ドラマや漫画などのフィクションの中で見るような、それ。

 皆目見当もつかない現状を打破すべく、手がかりである写真の中、手近な一枚を手元に引き寄せる。
 ざっと目を通した後、それを戻して、二枚目。次に、三枚目。四枚目。五枚目。


 ――――おかしい。
 念入りに観察する必要もない。
 一瞥するだけでも、充分にわかる。

 見つかった、二つ目の共通点。


 『レンズ越しに捉えられた自分は、そのほとんどが、目線をカメラに向けていない』のだ。
 確かに、正面を真っ直ぐ見つめているものはあるけれど、それはファインダーに視線を向けているものではない。

 確かに、カメラが苦手な人だっているし、撮る度カメラ目線を決めるようなヤツはそう多くないだろう。
 けれど、限度がある。

 手元にある写真の、
 一枚は、人里の雑貨店で。
 一枚は、里の離れで。
 一枚は、自分の家で。

 一切、撮影者に気を配っていないのだ。

 一枚は、商品を手にとって、見定めている。
 一枚は、今にも沈みかけている夕日を、眺めている。
 一枚は、自宅の布団にて、無防備に寝顔を晒している。

 視線はおろか、写真を撮られる際の準備すらできていない。
 良く言えば、自然体。悪く言えば、無警戒。
 例えるなら、まるで絵画のように。

 ‘ファインダー越しに覗かれていることを、知らない’ような。


 待て。
 そもそも、自分には覚えが無い。

 あの店に行ったとき、友人はカメラを持っていたか?
 あの夕日に目を奪われたとき、隣に知り合いはいたか?
 自分の家に誰かを招いて、寝顔をフィルムに収めるよう頼んだか?

 ない。
 記憶に無いのだ。

 そもそも、人に向けてシャッターを切る際は、必ず許可を得るものだ。
 マナーとして、そして法律として。
 はっきりとした形を持って、してはならないと規定されている。

 写真に残すのなら、本人に許可を取らなければならないと言うのに。
 顔見知りや家族とのツーショットや記念写真ならともかく、
 自分は、知りもしない誰かに、写真を撮っていいかと聞かれたことはない。


 そう思い至ってしまったのは、ふと頭に浮かんだ嫌な予感を裏付けるかのようで。

 写真の中の自分が、撮影者の方を向いていない点と。
 己の知らぬ間に、シャッターを切られていた事実と。
 その両方が結びつくことで、至ってしまう結論は――――



「……見たんですね」


 声。
 背後から。背中から。
 少女の、声。
 普段の陽気なものと違って、どこか冷たい、無機質な声。


 振り返らずとも、わかる。
 例え感じが違っても、その声色から誰かは察せられる。



 射命丸文。
 超常の力を持つ妖怪『カラス天狗』にして、文々。新聞を発行している、新聞記者。
 そして――――この幻想郷でも珍しい、


 カメラを所持している、人物。




 仕事が終わって、戻ってきたのか。
 それとも、いや、こんな考察は、無意味に過ぎない。

 この部屋の状態と、先ほどの台詞と。
 そうだと結論付ける証拠は、充分にある。
 あるからこそ、そうだと思えない。いや、思いたくないのだ。
 彼女が、そんな。

 ゆっくりと、振り返る。
 その声と同じく、彼女は、無表情だ。
 機械的。心が抜けたよう。

 それを表現する言葉はいくつもあったのだろうが――――自分は、まるで別人のようだと、思った。

「……貴方には、見られたくありませんでしたが……」


 見られたくないのは、この部屋なのか。それとも、この部屋を作った自分自身なのか。
 それは、わからない。
 わからないから、問う。
 ‘これ’は、どういうことだ、と。

 文は、答えた。
 その声は、ブレない。
 一切の抑揚を排したそれを耳にして、自分は、ぼんやりと、冷たいと思った。

「初めて会ったときに、貴方は私を褒めてくれたましたね。
 ……私を、認めてくれた。
 それが、たまらなく嬉しかった」

 そう語る文の目は、虚ろだ。
 呆然と、中空を見つめるような。
 見ている光景の後ろにある何かを、捉えているような。

「それをきっかけに、貴方のことが気になったんです。
 貴方がどんな人なのか、私は何も知らなかった。
 だから、知ろうと思った」

 写真は全て、その時の副産物なのだろう。
 推察に過ぎないが、根拠はある。

「貴方を知るのが目的ならば、ずっとずっと貴方と話していたかったけれど……
 毎日毎日通い詰めた末に嫌われるのは、何よりも嫌でしたから」

 だから。
 会えないときでも、顔が見られるように。
 いつでも、笑いかけてくれるように。

 写真を、撮り続けた。
 朝でも、昼でも、夜でも。
 ずっと、一緒にいられるように。


「これは、全て写真ですけれど――――まるで、貴方に包まれているようなんです」

 そう言って、文は壁に――――写真に触れる。
 その顔は、喜色を湛えているようで。
 その顔は、



 悲しみを、湛えているようで。



「蔑んでくれて構いません。
 罵ってくれて構いません。
 ……わかっているんです。
 歪んでいることなんて、とうに自覚しています。
 ……でも」


 無色透明だった文の声色は、いつの間にか、確かな色を孕んでいた。
 声は、震えている。
 まるで、涙をこらえている子供のような。


 文は、まっすぐにこちらを見据えている。


「貴方の声を聞くたびに、愛の言葉を囁いて欲しいと思った」


 文は、一歩を踏み出す。
 その歩き方に、力はなかった。
 フラフラとして、安定感のかけらもない。

 それが、彼女の心情を端的に表しているようで。


「貴方の顔を見るたびに、優しく微笑んで欲しいと思った」


 文は、笑っている。
 笑っているけれど――――その笑みは、薄い。
 触れれば、簡単に壊れてしまいそうな。


「貴方のことを思うたびに、その腕で抱きしめて欲しいと思った」


 ついに、辿り着く。


「……その気持ちは、嘘じゃないんです」

 目の前に。

「……お願いですから」

 息さえかかりそうな、その距離に。



「お願いですから――――嫌いに、ならないで……!」


 抱きついてくる。
 背中に回された腕の力は、強い。
 それが、彼女の心中だと。言葉もなく言い表している。




 正直なことを言うと、事態の全ては、いまだ飲み込めていない。
 けれど、わかる。
 文がこうなっている理由は、自分にあると。
 だから。
 自分は、文に応えなければならない。
 自分の気持ちを、文に伝えなければならない。


 ――――ならば応じよう、全身全霊をもって!




 ――――文!

「……! 嫌! 何も言わないでください! 何も――――」

 ――――だとしても、あえて言わせてもらおう!

「何を――――」

 ――――文の顔を見るたびに、照れさせてその頬を赤く染めたいと考えた!

「え……」

 ――――文の声を聞くたびに、新妻の様に朝かわいく起こしてくれないだろうかと妄想した!

「にっ、新妻……!?」

 ――――文のことを思うたびに、柔らかそうなその太ももに頭を挟まれたいと渇望した!

「太ももって……」


 ――――この気持ち……まさしく愛だっ!!

「あ、愛……」


 ――――抱きしめたいなぁ、文!

 叫びつつ、こちらからも抱き寄せる。
 彼女の華奢な体は、容易に手中に収められた。
 起伏に富んだ肢体の柔らかさが、ダイレクトに伝わってくる。

 胸元にうずめられた顔を上げて、文はこちらを見上げる。
 その表情は、まさしく鳩が豆鉄砲をくらったような、それだ。

 頭の中では、雑多な感情が渦巻いているのだろう。
 彼女の口は開いているが、唇は震えるだけで、一つとして、言葉は明確な形をもてていない。


 さて、要望にこたえるべく、こうして、名実共に今文を包んでいるわけだが。
 これは、思った以上に、心地がいい。

 彼女の体温が、息遣いが、心音が。
 直に、自分に伝わってくるような気さえしてくる。
 その感覚が、痺れるような衝撃を、頭に伝えてきているのだ。

 ――――ならばっ!


 両の腕に納まっている文を、抱きなおす。
 しかし、先とは違う。
 足と背に支点を移し、一息に持ち上げる。
 カラス天狗と言うだけあってか、彼女の体は異常なほどに軽い。やすやすと抱きかかえられた。

 この状態、もはや説明するまでもない。
 いわゆるお姫様だっこと言うやつだ!

 自身の置かれた状況をようやく理解したのか、文は顔を薄い朱の色に染める。かわいいやつめ。
 しかし、文相手に男の憧れたるお姫様だっこができるとは。何と言う僥倖! 家中を物色した甲斐があったと言うもの!

「なっ、何をするつもりですか!?」

 困惑を覚えながらも、文が声を張り上げる。
 ならば答えよう。自分は我慢弱く、落ち着きのない男なのだ。
 だからこそ。だからこそ!

 ハイテンションのまま、写真部屋(仮)を飛び出る。
 そのまま廊下を駆け抜け、先ほどの――――三つ目の部屋の扉を開き、中に押し入った。


 三つ目の部屋、そこは。
 文の寝室だ。


 そう――――あの時に、今後を見越して布団を敷いておいたのは正解だったようだ。
 嘘をついたことになるが、謝罪は後にさせてもらおう。最優先事項は、今まさに手の中にある!
 急ぎつつ、しかし優しく文を布団におろす。


 密室。
 男女。
 布団。


 これらの要素から導き出される答えを、文はすぐに察したらしい。
 雷に打たれたように、体全体を硬直させる。ものの、精一杯の抵抗も試みる。

「私の勘違いかもしれませんから、ねっ、念のため聞いておきますよ!? 何を考えているんですか!!」

 ――――無論、ナニを考えているに決まっている!

 文の上に、覆いかぶさるように姿勢を下げる。
 その事実に、文の表情が更に強張った。

「嘘でしょう!? 今ならまだ冗談ですみます! 過ちを犯す前に! あっ、犯罪! そうです、犯罪ですからね!?」

 法律。人の間で築かれた、一つの道理だ。それは正しい。そうだろう。だが。

 ――――そんな道理、無理でこじ開ける!

「あややややや、これはもしや――――」

 いまだ粘る文。身持ちが堅いな! だが、そんなところも愛らしい!
 そう、多少強引でなければ、カラス天狗は口説けないのだ。

 言葉を紡ごうとする文の口を、同じ口で塞ぐ。
 相手が文とは――――イエスだね!

 ……。
 …………。
 ………………。


 数十秒ほどか、いや頭が沸いているので正確には測れていない。
 ともかく、やや間を置いて。
 開放された文は息切れを起こしつつも、観念したのか、視線を逸らして、


「……責任は、取ってくださいね?」

 ――――よく言った文ぁぁぁぁぁぁ!






◆ ◆ ◆











 あ、そこの貴方。
 そうです、貴方です。ごめんなさい、お呼び止めしてしまって。
 少々お時間は――――ありがとうございます!

 その、新聞、契約していきませんか?
 いえ、新聞と言っても、妖怪のためのものではないんです。
 人間の方でも、と言いますか、人間の方のための新聞を目指しているんです。新機軸です。

 え? ああ、もちろん、私はカラス天狗です。お母様の血を引いているんですから!
 あ、でも大丈夫。人間の方のための新聞なんですから、同じ目線から記事を作成しています。

 確かに、私もお母様もカラス天狗です。ですがっ、何と、私のお父様は元人間なんです!
 あっ、元、ですよ? 今は同じ天狗です。天狗一家なんです。

 う、嘘じゃありませんよ!? 本当のことです。
 お父様、お母様のために一生懸命努力したんですから。
 何でも、阿修羅すら凌駕する存在になったんだとか。
 その時はまだ、私は生まれていなかったんですが。

 ともかく、人間の方向けですから、新聞の方向性も、正確性を第一にしています!
 ……口で言ってしまうとちょっと疑わしいかもしれませんが、本当ですよ? 本当です。

 費用は……えっと、どこにやったかな……あった、ご覧の一覧表の通り控えめになっていますし。
 一ヶ月だけでもいいですから、どうか、是非とも契約を――――


 お父様の名前? 何でそんなことを?
 えっ、教えれば契約してもらえるんですか!? ありがとうございます!

 あんまり大きい声で言えないので、耳打ちでそっと……



 どうしたんですか、そんなに驚かれて?
 えっ、お知り合いなんですか!?
 ああ、昔は人里に住んでいたって、お父様が言っていました。その時の……。なるほどなるほど。

 それでは、あの、現金で申し訳ありませんが、こちらの契約書に……。はい。そこに。


 ん、ちゃんと名前も印もあるし……はいっ、オッケーです。
 当社の新聞は即配達がモットー、明日からお届けしちゃいますよ!
 ちゃんと、ポストを開けて待っていてくださいね。


 何かあれば、控えにある番号にご連絡ください。
 はいっ。ありがとうございました!




 ふふっ……お一人様、契約完了。
 この調子で私、頑張りますから――――見ていてくださいね、お母様!
 すぐに、貴方に並んで――――いえ、追い越してみせますから!

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最終更新:2010年12月12日 13:09