夕暮れ時に湯屋に寄った。
俺の日課だ。毎日人里の湯屋まで行って必ず身を清める。
一方で他の長屋の仲間たちは普段、頭から井戸水をかぶり偶の風呂は共同の風呂桶に張った湯を代わる代わる使う。
薪代も馬鹿にならず人里へ行って湯を借りればそれはそれは嫌な顔をされる。汗と埃を落とすのに他に仕様は無い。
そういう長屋の仲間たちの窮状を思えば俺の連日の湯屋通いは望外の贅沢であると言えた。
だが誰も文句を言う者はいない。むしろ誰しも俺を湯屋に行かせねばならない事を嘆いていた。涙を流した奴までいる。
帰りに新しい剃刀と香料を買った。眉を整え僅かな髭をすっかり落とした。香は長屋に戻ってから使う。
着物に香りを焚き染めて俺の部屋から生活の匂いを消すために。少しばかり値が張ったが淡く菖蒲が香るものを選んだ。
長屋に戻る前に古着屋へ寄る。古く擦り切れた安物しか買えはしないが、それでもいい。少しでも趣味の良い柄で色彩の鮮やかな男物を探し歩いた。
その日はめぼしい物は見つからずその足で長屋へ戻ろうと人里を出た。
ひそひそ。くすくす。
その背に無数の囁きと侮蔑を感じた。湯屋を出てからずっと。
わざとぶつかって来る男。鼻をつまんで足早に立ち去る親父。これ見よがしに店仕舞いを始める古着屋の女。
極めつけは里を出る直前背中に土くれをぶつけられた。大切な着物に汚い泥がべシャリと付いた。
振り返ると笑いながら若者が逃げて行った。そして辺りの里人がどっと笑った。
――○○ってさマジにイケメンで羨ましいぜ。
長屋仲間の××は外でしか通じない単語で俺の面を褒めた。もちろん俺の仕事を知った上で。
幻想郷で通じない軽い言葉を××らしい気遣いで思い出させてくれる。外に居る時は下らんと思っていた言葉だがそれすら懐かしく思えた。
××が褒めた面が怒りと屈辱で歪んでいくのが自分で分かった。だが。
その××は今、山を三つ越した先で化け物ども相手に命を張っている。××だけではない。長屋の仲間はその多くが命を張っている。
そうしてここに来たばかりの昔の俺を生かしてくれた。体は弱く技能も無い。取り得は顔だけの下らない男を。
それを思い出して黙って里を出た。下らない喧嘩で顔に傷が付いたらどうするのだ。この顔はそんなに安いものではない。


長屋の自分の部屋に戻った頃にはとっぷりと日が暮れていた。隣の部屋と便所と倉庫を挟んだ長屋の最奥の部屋。
仕事始めに気を使った仲間が隣の声が届かないこの部屋を空けてくれたのだ。
一日の辛く危険な仕事を終えて仲間たちが長屋へと戻る時間。俺の仕事はその時間に始まる。即ち冬は稼ぎ時だ。
惜しみなく火鉢に炭を入れて部屋を暖め香に火を付ける。安っぽく深みが無いがとりあえず良い香りが部屋を満たした。
そして俺は正座を崩さず待った。どれぐらいそうしていたろう。
――ほとほと。
部屋の入口の障子紙を静かに誰かが叩いた。遠慮がちなそれでいて興奮と不安がない交ぜになった心情を滲ませた音。
来たか。最早扉を叩く音で来客が誰かが分かる。「どうぞ」短く客に告げた。そろそろと戸が滑る。
「じゃ、邪魔するよ。○、○」
「これはこれは、ようこそおいで下さいました……八坂様」
俺は額が畳に付くほど深い礼をした。そして顔を伏せたままにぃと笑う。上得意だ。

年が嵩んでから覚える火遊び程手に負えないものは無い。眠る八坂神奈子の髪を撫ぜながら外の世界の警句を思った。
今夜は彼女で良かった。男娼として体を鬻いでいれば仕方がないがどんな客でも文句は言えないのだ。
どんな老婆でも抱かなければならない。幻想郷にこの手の職は珍しいと見えて普段外来人を嫌う人里の女も何人かここに通ってくるのは笑える所である。
いや女ならまだいい。それこそ相手が男でも。人間でなくとも。始めたばかりの頃仕事の後に良く吐いた。
反吐が出るような相手でも俺には他に方便を立たせる手段がない。長屋にお荷物を養う余裕が無いのはかつてお荷物だった俺が一番良く知っている。
そんな客の中にあって八坂神奈子は珍しく有り難い客だった。いや彼女の他にも人間でない客の多くは素晴らしい客だった。どんなに人里が恐れる女でも。
まず彼女らは美しい。それも大変に。すれ違えば十人中十人が振り返るだろう。抱く時に努力を要せぬのはそれはそれは助かった。そして大概金払いも良い。
幻想郷では有名人な彼女らは悪所通いが露見する事への恐れが金の上積みという形で現れた。口止め料のつもりなのか。
そして何より彼女らの多くは男に慣れていない。人よりずっと長く生きているのだろうにまるで初恋の少女のように御しやすく騙しやすかった。
いや事実。初恋なのかも知れぬ。彼女らの中には生娘すら珍しくない。美しい大人の女がそうある事など外の常識では異常な事だ。
八坂神奈子もその御多分に漏れなかった。初めて来た時も宴会で酔った挙句に前後不覚になって良く分からないままにここを訪れたのだ。
俺はその日何もせず彼女を介抱し家に帰した。翌朝ここがどういう場所か聞かされて真っ赤になった神奈子はしどろもどろに礼を言って退散した。
抱いたのは二度目だ。寝込んだ自分に手を付けなかった事を誠実と取ったのか知らぬが「笑わないで聞いておくれよ……惚れちまったよ……」そう言った。
その日から神奈子は上の付く得意客となった。
俺には人間よりも人外の客の方がいっそ有り難いくらいだ。
ただ一点を除いて。
不意に眠っていた神奈子が目を開けた。そうして熱を出した子供のような切なげな目で俺に問う。
「ねぇ○○……。もし、もしもだよ?あんたを身請けするとしたらどれぐらいの銭がいる?」
これだ。俺はまた外界の警句を思い出した。遊びなれていない客は手に負えない。本気になるから。
彼女の勢力は信仰とやらを集めるのに必死でその懐も楽ではないはずだが神奈子はどこからか金を捻出して足繁く通って来る。

そういう遊びなれていない客に限って使ってはいけない金まで使って身を持ち崩す。
娼婦や男娼相手に真実の愛があると思い込む。朴訥な騙されやすい人柄ならそれは男も女も変わらない。
もちろんこちらも思わせぶりな態度でもって客から出来るだけ絞り取るわけだが引き際を誤れば恨みを受けてその身を焼かれる。
外の世界でもホステスが客に殺されたなんていうのは良くあった話だ。
「突然どうしたんだい神奈子さん」客によるが布団の中では敬語は外す。この『お客さん』は恋人のような口調を御所望だった。
「い……嫌なんだよ。あんたが仕事とはいえ他の女と寝ていると思うと……気が違いそうになるんだ」
そういって神奈子は俺の胸に一層深く顔を埋めた。
「今夜はやけに甘えるね」そう言って俺ははぐらかす。下手な事を言って焼かれないように気をつけねばならない。馴染みの客なら尚更。
「頼むから真面目に聞いておくれよ。あんただって私の事を商売抜きで好きだっていってくれたじゃないか」神奈子の瞳が潤んだ。
それを言うのが俺の商売だ。そんな事は全ての客に言っている。この間は呉服屋の婆にも言った。俺は笑いだしたくなった。
神奈子は可哀想になるほど不安そうな純な目で俺の答えを待っている。その真剣な顔を笑いたくなるのと同時に、なんだか大変哀れになった。
遊びなれている人里の女とは違う。奴らは俺が嘘つきな淫売だと知っている。だが神奈子は本当に俺を信じているのだ。
その目が俺に危ない橋を渡らせた。ここまで世間知らずな女なら少しだけいい夢を見せて。
「そうだね……俺もこんな因果な商売は止めにして誰かと所帯を持つのが夢だが」騙し通せるかもしれない。
「……所帯」
その暖かな響きに神奈子の瞳が幼子のように輝いた。
可哀想に。君と所帯を持ちたいとは言っていないのに。
本気でこの淫売と神の間に家庭が築けると思うのか。さておき俺は商売人だ。餌を吊るせば狩りにかからねば。
「ただ実は俺には借金があってね。それを返せば足を洗って身請けされてもいいんだが」
「……幾らなんだい?」
俺はさも深刻そうな顔でありもしない借金の総額を告げた。大金だ。長屋の外来人十人は楽に外界へ還れるぐらいの。
「そう、か。そんなに。か」
神奈子はさすがに驚いたように口ごもった。その金をどう工面するか考え込んでいるようだ。
「神奈子さんが心配しなくても俺の借金だ。俺がもう少し体を売っていればいい事だからさ」
「いいや。待ってな○○。私に任せてくれればいい」
そう言って神奈子は布団から出て着物を纏った。
「そういえば、さ。お腹減ってないかい○○。どうせ碌なものたべてないんだろう顔色が悪いよ」
心配そうに俺の顔を覗き込む。先程まで子供のように甘えていた女が今度は子供に接するようだ。
「材料は買って来てあるんだ。お蕎麦茹でたげる」そう言って笑った。
愛しい男に会いに来るというのにめかし込むよりこういう事に金をつぎ込む神奈子の家庭的な性分は少しだけ本当に愛おしい。
俺は布団を抜け出して神奈子の前に立った。そしてその唇に口づけをした。
「商売抜きだよ」
神奈子の顔が蕎麦を茹でられるぐらいに真っ赤になった。


「ああ。どうしよう」早苗の悲嘆に暮れた声が守矢神社に響いた。何事だろう。
「どうしたの早苗」問いかけると早苗はオロオロと事情を説明する。
「ああ。諏訪子様。それが今春人里に守矢神社の分社を建立するために集めた寄附がなくなっているんです。確かにここに置いたのに」
確かに由々しき事態だ。
「……おかしいね泥棒にでも入られたかな」
「せっかく……せっかく諏訪子様と神奈子様が頑張ってようやく集めたお金なのに……」
早苗は今にも泣きだしそうだ。
「どうしましょう。諏訪子様。神奈子様になんて言えば……」
「落ち着いて早苗。神奈子には私から話すよ。今日はもう休みな」
そう言って私は早苗を下がらせた。嫌な予感がしたのだ。今日の神奈子はどこか様子がおかしかった。
早苗に聞かせず二人きりで話したほうがいい。多分これはそんな話になる。夜半過ぎ私は一人神奈子と話をしに行った。
「神奈子、実は今日集めた寄付金がさ……」そう言って話を切り出した途端。
ばんっ。と音がした。あの神奈子が私の前にひれ伏して頭を下げている。私は信じがたいものを見てしまった心持になった。
「ちょ、ちょっと神奈子?どうしたのさ一体」
「すまない諏訪子!あの金はもう無い!私が使っちまった!いずれ必ず返す!約束する!」
神奈子は頭を上げる事もせずそう一気に捲し立てた。
「どういう事さ。一体何があったの?」
「出来れば事情も聞かないでくれ!頼む!」
「……事情も聞かないって訳にはいかないよ。神奈子。取り合えず顔を上げて」
私がそう言うと神奈子は恐る恐る顔を上げた。私はまた信じがたいものを見た。
あの神奈子が泣いている。言葉に詰まりそうになったが何とか続けた。
「あのお金が無いとどうなるか分かってるよね。早苗だってどれだけ頑張って集めてくれたのかも」
私たち神には信仰が命であり力だ。より強い力と命の為に多くの強い信仰が必要だった。
人里に分社を増やそうと信者から寄付金を募ったのもそのためだ。
「勿論……勿論分かってる……。それでもここ一度。ここ一度だけ見逃してほしい」
そう言って神奈子はまた頭を下げた。私はとてもいたたまれない気持ちになる。
一体何が。何があの気高い神奈子をこうさせるのだ。
「神奈子……ひょっとして今回の事、あんたの『夜遊び』と関係あるの?」
そう聞くと神奈子は今度こそ言葉に詰まった。


俯いたまま答えない神奈子の姿はそのまま私の問いを肯定しているようなものだ。
私はぐらりと眩暈を覚えた。神奈子が夜な夜な人里外れの外来長屋に出入りしているのは知っていた。
そこがどういう場所で神奈子がどういう遊びを覚えたのかも。人里の信者の一人から報告があったのだ。
確信は持てないが神奈子に似た女が長屋の奥の男娼宿に入る所を見たと。
私はその信者に見間違いだろうが絶対に他言無用と釘を刺してそれ以上の詮索を沙汰止みとした。
神奈子に限って有り得ないと思っていたし仮に本当だとしても神奈子は聡明で分別もある。単なる火遊びで終わるはずだ。
そう思って問い詰めたりはしなかった。それがまさか。こんな事になろうとは。
「神奈子。あんたは今まで浮いた話の一つも無く守矢の為に奔走して来てくれた。だから男の甘い言葉に熱くなってしまうのも良く分かる」
私は心を決めた。この美しく誇り高い親友が下らない男に騙されて傷つくなんて許せるものか。目を覚まさせてやる。
「お堅いあんたが恋を知った。それ自体は喜ばしい事だと思う。でもね神奈子」神奈子は項垂れて聞いている。目尻にはまだ涙が光っている。
「その男だけは駄目だよ。『ああいう』連中は金の為に平気で嘘を吐く。……将来の夢の為に金がいる。医者にかかるのに金がいる。実は借金がある。断言してもいいけど全部嘘だ」
借金がある、の所で神奈子の体がびくりと震えた。成程。その薄汚い嘘で神奈子を辱めたのか。許せない。顔も知らない男に殺意が湧いた。
「その男じゃ駄目なんだよ神奈子。そいつは最初からあんたを裏切るつもりでいるんだ。あんたにはもっと相応しい男が沢山いる。だからあんたもそんな『淫売』の事なんて忘れてさ……」
「黙れ」
静かに。部屋が震えた。地の底から響くような声が私の言葉を遮った。私は強引に途中で言葉を呑みこまされる。
そして神奈子が顔を上げた。その目に底知れぬ憎悪が溢れている。涙で濡れたその目玉が剣のように私を貫く。
冷酷で執念深い、蛇の目だ。私の背を冷たい汗が流れた。
「黙るんだ。諏訪子……。二度と○○に対して淫売なんて言葉を使うんじゃない……。……あんたが○○の何を知ってるの」
そう言って神奈子はゆっくりと立ち上がった。私は本能的な恐怖を感じて蹲りたくなる。だが体が動いてくれない。
「○○がどんな思いであの仕事をしているか知っているの。どんな思いで体を売っているのかあんたに分かるの」
神奈子の言葉は普段の威厳ある言葉から女の口調に変わっていた。きっと無意識なものだろう。
「知らないでしょう何も。もう一回でもそんな汚い言葉を○○に向けたら。例えあんたでも許さないからね。いいわね二度とよ。二度と……」
そう言って神奈子はふらふらと部屋を出る。そうしてこの夜更けに守矢神社から出て行った。呼びとめる事など出来なかった。行き先など決まっている。
神奈子の足音が聞こえなくなってようやく私の体は自由を取り戻した。どっ汗が湧いて床に突っ伏し息を整える。
恐ろしかった。神奈子のあんな目は太古の大戦以来見た事が無い。
そしてそれより恐ろしいのは神奈子はもうとっくに説得など出来ないほどその男にイカれている事だ。
このまま裏切られれば神奈子はどうなってしまうのだろう。私が何とかしなければ神奈子が壊れてしまう。
何とかしなければ――。


博霊神社裏手の鎮守の森の中に外界との境界があった。巫女が二言三言呟くと空気が震え空間が裂けた。
薄い膜を裂いたように幻想郷と外界を遮る見えない壁に穴が開いた。あとはまっすぐ歩くだけで外界へ還れるという。
しばらくすれば勝手に穴は閉じるからさっさと行って。そう言い残すと巫女は立ち去った。
後には俺と長屋の仲間たちが残された。総勢十名。今回帰還出来る人数だ。過去に例が無い大人数と言えた。
八坂神奈子は宣言通り金を持って俺のもとを訪れた。ちょうど俺達十人が外界へ戻れる大金を。
――本当にありがとう神奈子さん。これでこんな仕事から足を洗える。
そう言って俺は彼女を抱きしめた。確かに足を洗える。仕事だけでなくこの世界からも。
神奈子は頬を赤らめてはにかみながら俺の喜びを我が事のように喜んでくれた。しかしその笑顔はいつもより少し暗かった。
当たり前だ。突然に用意されたこんな大金がまともな金であるはずがない。だからこそさっさと逃げてしまうに限る。
哀れみこそあれど罪悪感は無い。無いはずだ。この世界に来てから人を騙す事には慣れさせられている。
今まで俺を支えてくれた仲間たちが一人ずつ、お前のおかげだ。と俺に礼を言って境界を越えた。自然と俺の順番は最後になった。
最後の仲間が現世に消えるのを見届けてから俺はしばし物思いに耽った。
あの女はまだ俺を信じているのだろうか。こうしてまさに今裏切って逃げようとしている俺を。起こり得ない暖かな幸福を夢想しているのだろうか。
俺は頭を振って雑念を払った。――一刻も早く帰ろう。初めて体を売った日からなんとしても現世へ還ると決めていたのだ。
歩き始める。外界との境界が眼前に迫った。
――ああ。これで還れる。そう思った時。
どしゅっ。
音がした。何かが破裂するような音。不思議に思って見てみると。俺の胸に大きな穴が開いていた。何かに胸を貫かれたのだ。傷口が焼け焦げてしゅうしゅうと煙をあげている。
――これは弾幕、か。
そう理解したのと同時にごぼっと血を吐きだして倒れた。辛うじて息のある俺を見下ろして。一人の少女が俺に歩み寄った。
「畜生……畜生。やっぱり騙していたんだな……」
少女は奇妙な帽子を被った幼い子供だった。面識は無いが見覚えがある。洩矢諏訪子。
幻想郷では名の知れた神だ。確かあの八坂神奈子の、親友だった。
「あれからずっとお前の事を調べていた。見張っていたんだ。よもや神奈子の言うとおり信じる事が出来る人間かと思って……」
息も絶え絶えな俺に少女が呪詛の言葉を並べたてた。
「神奈子を裏切って逃げようとしやがって!面白かったか、面白かったろうな!初心な女の心を弄ぶのは!」
守矢諏訪子は叫ぶように俺の罪を糾弾した。
「神奈子はこの後に及んでまだお前の事を信じているんだぞ!お前が突然消えたのは何か理由があったに違いない!きっとすぐに戻って来てくれるって!
こんな!こんな男をだぞ!ふざけるな!私は!私は……神奈子になんて言えばいいんだ!」
諏訪子は荒げた息をはぁはぁと整えた。怒りと失望がその瞳で燃えていた。
俺は痛みに耐えつつ罵声を聞いた。血はだくだく流れている。もうとても助かるまい。なんだが笑いだしたくなった。
「クッ……フ、フフ」
「何がおかしいっ!舐めるなよ人間!私は祟り神だぞ!魂ごと消滅させてやろうか!」
「いや、なにね……」
何とか口を利く事が出来た。怒り狂う諏訪子に俺も長年の愚痴を聞いてもらおうと思ったのだ。淫売という商売は嘘ばかりだ。
客をいい気持ちにさせるための嘘。必要以上に着飾って容姿を良く見せる嘘。そしてなにより。身を汚しても平気だというふりをする嘘。
ずっと誰かに聞いて貰いたかったのだ。もう死ぬのだからせっかくだ。この女に聞いて貰おう。


「俺もひどいが……あんたらの方こそ……なかなかひどいと思いましてね」
「……何だと?」
「いきなりこんな世界に連れて来られて。知り合いの一人もなく。毎日搾られないといけない……。家も、金も……体も。その上。命まで取ろうってんだから……」
「……」
「俺たちはいつも……恐ろしかったよ。いつ、この世界の女への生贄にされるかって、ね」
諏訪子は苦々しげな顔のまま黙っていた。今の内に早く話してしまおう。どんどん痛みが強く苦しくなる。
「だから。幻想郷の女を騙してもまず、罪悪感なんて……なかったな。これだけ、俺たちから搾り取るんだから、俺が少しぐらい……取り返しても、ね。そう、思っていました」
そうだ。そう思っていた。なのに。それなのに。神奈子は。
「ああ――それなのに、そう思っていたのに。そんな俺を――」
不意に暖かいものが溢れた。血では無い。大粒の涙だった。
「そうですか。神奈子は。まだ俺を信じていてくれましたか」
突然に神奈子の笑顔が思い浮かんだのだ。それだけで知らない間に泣いていた。
「…………お前」
諏訪子が困惑したように声を掛ける。
「ねぇ諏訪子様。一つだけ、頼みがあります」
「……聞こう」
「神奈子に……伝えてくれませんか。止むをえない事情で幻想郷を離れるが用事を済ませたら必ず戻る。って」
諏訪子はぐっと息を呑んだ。クズだと思っていた俺が最後に神奈子を気に掛けた嘘を言う事がさぞかし意外だったのだろう。
「あの人。ああ見えて、寂しがり屋だから、こう言っとかないと壊れちまうよ……あんたも俺を殺したと神奈子に知られたくはないでしょう。ねぇお願い出来ますか」
「分かった。必ず伝える。――済まないね。最後まで嘘を吐かせて」
今度は俺が意外だった。
「礼なんて、いりません。この伝言は俺の……。幻想郷への、復讐でもあるんですよ」
「復讐?」
諏訪子は不思議そうに聞いた。その意味が分からないだろう。今はまだ。
「ええ。俺はこの世界に嫌な思い出しか……。有りませんから」
「でも。あんた神奈子の事は本当に好きだったんじゃないの。じゃなきゃどうして最後に神奈子の事を心配するのさ……」
「ああ。それはね――俺は嘘つきな」
――淫売ですから。
そう言ったのを最後に俺の目の前は暗くなった。

私はその○○という男の亡骸をそこに埋めた。○○の伝言通りに神奈子にはその死を隠して伝えるつもりだ。
確かに○○の言うとおり今の神奈子にはやはり自分は○○に騙されていてその上○○は死んだという事実は重すぎる。
私はなんだかとても遣り切れなくなった。○○は確かにこの幻想郷の全てを恨んでいただろうが。それでも神奈子だけは確かに愛していたのかもしれない。
人里には今日も新たな外来人が連れて来られているだろう。そしてまたこの男のような人間が現れるのだろう。
私は一つだけ決心して守矢神社に戻った。
助けよう。辛い目にあっている外来人たちを。その地位を少しでもまともに出来るよう人里と幻想郷の賢者たちに掛けあってみよう。例えどれだけ時間がかかっても。
今まで何をしていたのだろう。私は神だぞ。人を救わないでどうするのだ。
冬の空の下小さく身を寄せ合う外来長屋の姿を思い出しながら私は山を下りた。


――二百年後。

ひっ。と情けない悲鳴を上げて蛙のように地面に這いつくばった。頭上を嵐のような圧倒的な質量を持った弾幕が飛んで行った。
背後にあった小山が半壊した。立ち昇った噴煙の向こうから神奈子がふらふらと歩いて来る。私は一層身を竦ませた。
「ねぇええ。諏訪子ぉ。○○がいない。○○がいないんだよ。一緒に探しておくれよぉ」
神奈子はあの時○○が死んだ事を知らないままだ。私は○○に頼まれた通りいつか必ず戻るという伝言をそのまま伝えた。
それで神奈子は静かに頷き普段通りの生活へ戻った。それから百年は何事も無く過ぎた。
私は時が経って神奈子が○○との別れをいつしか受け入れたのだと考え安心していた。
様子がおかしくなったのは百五十年を過ぎた頃だ。ある日の事。なんでもない日常会話のようにぽつりと神奈子がいった。
――そろそろ○○も戻ってこないかねえ。
耳を疑った。当たり前の話だが人間は百五十年も生きはしない。早苗だってもう随分前に死んだ。そんな事は長年人間を見てきた神奈子は当然分かっている。分かっているはずだった。
そして現在。倒れ伏した私の目の前までやって来た神奈子はものすごく不安げな表情で私の首を掴んで立たせガクガク振る。
「諏訪子ったら聞いてるのかい。ねぇっ!○○を探したいんだよ!」
「ぐぇ……っ。神奈子……。やめ……」
別れを受け入れるどころではない。神奈子は○○を信じていた。本当にその言葉を全て盲目的に信じていたのだ。神であるはずの神奈子がまるで宗教の教祖の言葉を信じる信者のように。
いずれ戻ると言ったのだから必ず戻る。何百年経とうが変わらない。そう信じている。
「○○ったらこんなに遅くなって……。きっと外で困った事になって帰れないんだよ。もう二百年だもの。ああ。でも。あれ?人間はそんなに生きないよね?あれ?おかしいよ諏訪子
○○が約束を破る訳がないのに。○○は人間だからそんなに生きなくて…………ああああッ!」
神奈子は私を放り投げて頭を抱えた。そして地面に膝を付き子供のように頭を抱える。ここ最近はずっとこんな調子だ。
人間は百年足らずで死ぬという道理と○○の言葉の矛盾に気付き始めておかしくなっている。いや元々おかしかったのだ二百年前からずっと。
頭を掻き毟りながらぶつぶつと神奈子が呟く。
「やっぱり幻想郷が気に喰わなくて戻ってこないのか。なんだろう。どうすればいいのかしら。胡散臭い八雲紫は殺したし。人を襲う妖怪どもだって根絶やしにしたのに」
手に負えないのは神奈子の力がこの二百年の間にかつてとは比べ物にならないほどに強大になったことだ。○○が戻った時に今度は何一つ不自由させないようにと神奈子は日々必死で力を強めていた。
あの八雲紫を初めとした幻想郷の重鎮たちを一人で全滅させる程に。
ここに来て私はようやく○○の言った『復讐』という言葉の意味が分かった。
あの男は自分の愛こそが神奈子に力を与えると知っていたのだ。○○から全てを奪った幻想郷を唯一愛した神奈子に壊させる。これは幻想郷にかけられたあの男の呪いだった。
そして二百年かけて少しづつ強くなったその呪いが実を結びつつあるのだ。私はおぞましい寒気を覚える。人は愛まで使って呪うのか。人の呪いの恐ろしさは祟り神の呪いの比ではない。
「あとは……やっぱり。そう人里を滅ぼさないといけないかな。○○には嫌な思い出が多いだろうし」
神奈子が良い事を思いついたように言う。
それだけは、それだけはさせない。
人里には守矢の信者たちがいる。そして私があの日誓った通り守って来た外来人たちも。
私は傷だらけの体に鞭打って立ちあがった。絶対に勝てないとは分かっていても神奈子を止めなくてはならない。
それにどの道○○を殺した私には神奈子に殺される理由が十分すぎるほどある。
「なんで……なんで邪魔するんだい。諏訪子」
あの日のように神奈子が蛇の瞳で私を睨む。
私は少しだけ神奈子との幸せだった日々を思い出して――絶望的な戦いを始めた。

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最終更新:2013年06月30日 21:21