今日不思議な女性を見た。
外人だろうか、金糸と見紛う髪に、菫色(きんしょく)の瞳を持つ美女だった。
道行く人々は男女に関わらず、一様に彼女に目を奪われていた。
勿論自分も例外ではない、きっと阿保の様な表情をしていた事だろう。
彼女の視線がやけに自分に絡んでくる気が、所詮自意識過剰の成す事だろう。
精々街中で美人と遭遇した、と知人に自慢する程度の記憶、になるはずだった。
「―――見ぃつけた」
擦れ違う様、吐息が耳朶に掛かる程近く、そんな言葉を向けられなければ。
喜色を多分に含んだ声を聞いた瞬間、背筋が凍るという意味を初めて知った気がする。
慌てて振り向くと、確かに居た彼女の姿は陽炎の如く消えていた。
狐につままれた、と言うにはあまりにも気味が悪い。
それからずっと、彼女がすぐ後ろに居る様で、帰宅する間だって何度振り返っただろうか、その姿は確認出来なかった。
部屋に戻った今でも、ほら、部屋の扉のほんの少しの隙間、その奥の暗闇からじっと彼女が見つめて―――
「……なんて、馬鹿馬鹿しい」
疲れが溜まっていたんだろう、ありえない妄想に幻聴を重ねただけだ。
彼女の姿が見えなくなったのも、どうせ自分が知らぬ間に惚けていて、遠くに行ってしまったに違いない。
日が変われば気分も変わるだろうと、大分早い時間だったが消灯する事にした。
床に入ると自然、天井の木目が目に入り、無数の瞳に見えて無性に気色悪く、夢の中へと逃げ込んだ。
「嗚呼、いとしいとし我が妹背(いもせ)。
私は一日千秋の想いで恋焦がれおりました」
耳元で誰かが、女性の声か、語りかけてくる。
嬉しそうで、嬉しそうで。
近く聞き覚えのある声だと気付き、はっと目を覚ます。
目に入ったのは、昼間に会った女の顔。
鼻先は触れているのではないかと言う程近く、唇には生暖かい吐息が吹きかかる。
勿論視線は絡み、その時女の顔と言ったら、世の男性を虜にする妖艶さで、どこか童女染みた微笑みは、何故か望郷の念を抱かせた。
彼女を退けようと身体を動かそうとして、こんな時に金縛りか、首から下が全く動かせない。
「あんた、一体誰なんだ?」
口は回るみたいだな、なんて甚だ場違いな事を脳裏で思いながら、素直に疑問をぶつけた。
すると眉根を顰め悲しそうな顔で、ストーカーかもしれない女だが、美人にそんな顔されると悪い事をした気になる。
「私の事、覚えてないの?」
覚えてないかって?
生憎だが俺の人生平々凡々、あんたみたいな美人との出会いなんて一つも無かったよ、と早口で捲くし立ててやると彼女は困ったようにはにかみ、一つ指を頬に当て首を傾げた。
どうして、こう、この女は一々所作が子供っぽいのだろうか。
「残念だけど、貴方の人生は平凡じゃないし、私達は昔に出会っているのよ? 本当に覚えていないの?」
昔、昔だって?
言われて俺はセピア色の記憶を掘り返す為、自分の中に潜っていく。
俺が子供の頃は野山の中を駆け回ったもんだ。
村は近年稀に見る飢饉に襲われ、子供と呼べるやつは俺一人だった。
家だって小さく質素で、木で出来た壁は風をガンガンに通し、雨漏りなんて日常茶飯事だった。
……待て、ちょっと待てよ?
このコンクリートジャングルの中、どこに野山があるって言うんだ。
飢饉なんて、金に困る事はあっても食い物自体は棄てる程溢れているだろう。
思い浮かべる情景が、どうして歴史に出てくるような村なんだ。
それに、里の子供は俺だけだったが、違う、俺の隣には何時も一緒に遊んでいた娘がいたはずだ。
異人を思わせる金の髪に、皆とは違う瞳の色をしていた、確か名前を―――
「ゆ、かり……?」
呟いた瞬間、彼女は力一杯抱きついてうわんうわん泣き始めてしまった。
泣き声の中、何度か叫ぶ聞いたことのない名前は、俺の事だろうか。
何にせよ、美人に泣かれるというのは非常にばつが悪い。
俺は必死に彼女をあやして、そう言えば昔も同じ様な事があったな、なんて思うのであった。
「結論から言うと、貴方はね、この世界の人間ではないのよ」
「はぁ……」
彼女の(無駄に長い)話まとめると、どうやら俺は幻想郷という異世界(?)の人間らしい。
何でも、俄かには信じがたい事だが、妖怪である彼女の能力の一端で、神隠しを可能とするらしい(恐ろしい……)。
まだ小さかった俺達がお巫山戯けで能力を使って遊んでいた際、紫の能力が制御を離れて、結果俺が外の世界へと神隠ししたって訳だ。
彼女自身予想外の事で、もしかすると多くの神隠しはそうなのかもしれないが、神隠しで時間すら越えたというのは前例が無いらしい。
なんて突拍子の無い話なんだと、普通呆れる所だろうが。
成る程、記憶との整合性も取れる上、彼女の言い分を鵜呑みにする根拠も無ければ否定する証拠も無い。
証明する事が出来ないからこその、悪魔の証明という奴だろう。
それにしたって俺は言われるまで昔の事なんて覚えても、思い出しもしなかったって言うのに、よく一目で分かったな、と。
その事を話すと紫は、
「薄情なのね」
と頬を膨らませ拗ねた様に睨んできた。
彼女の一つ一つの所作に子供の面影が重なり、その都度記憶が鮮やかに蘇り、トンデモ話を裏付けていく。
「はぁ……、まぁいいわ。その分、これからに期待させて頂きますわ」
どこから取り出したのか、見事な装飾が施された扇子で口元を隠し、先程とは打って変わって妖艶に微笑む紫の姿に、心臓が一つ跳ねた。
ん、これから?
「えぇ、これから○○には私の。いいえ、私達のマヨヒガで一緒に生活するのよ。何か問題でも?」
ちょ、ちょっと待ってくれ!
そりゃぁ俺は孤児扱いだし身寄りも無いさ。
だけど友人もいるし仕事もあるんだ。
はいそうですか、って簡単に今の生活を捨てる事なんて出来やしないって。
「問答無用ですわ。えいっ☆」
ぬわー!
どうやら私の強引な行為に、彼は臍を曲げてしまったみたいで。
「○○、機嫌直してったら」
彼をマヨヒガに連れてきてはや、二日が経とうとしているのに、一向に気色が良くならず。
折角の一つ屋根の下だと言うのに、未だ二、三言の短い遣り取りしか出来ていない。
でも彼ったら今も子供みたいに口を尖らせて、可愛いんだから。
「ねぇってば、こんなに謝っているじゃない」
ふにふにと頬を突きながら、ごめんと口にする。彼はふっと息を吐き呆れた口調で、
「分かった、分かったから。その指を止めろ」
「うふふ、だから○○って好きよ!」
苦笑を寄こす○○。久しぶりに見た彼の笑顔(苦笑いだが)に、嬉しくって抱きついてしまった。
あ、あらいけない。自然と頬が緩んでしまう。きっと自分はだらしない顔をしてる事だろうが、
それすらも幸福に思う。
「ゴホンゴホン」
そんな小さな幸せを噛締めて、私は○○の肩にしなだれる。ぎょっとして離れようとする彼の腰に
手を回して、決して逃さないように、しかし○○が苦しくない程度に強く掻き抱く。
たかだか布の一枚向こうに彼の体温を感じて、釣られて自分の体温も上がってしまう。
彼は若干居心地悪そうに身じろぎするが、引き離そうとしたりしない辺りに愛を感じる。
「えー、ゴホン! ゴホン!」
「ってさっきからどうしたのよ藍。風邪でも引いたのかしら」
「違います!」
私達と机の丁度真向かいに座る私の式、八雲藍は鼻息も荒く、何をそんなに興奮しているのか。
「一体何ですか! 妖怪の賢者とも言われた貴女が、一人の人間にデレデレと! 嘆かわしい!」
あぁ、何かと思えば……。全く、藍は彼を連れて来てから、同じ様な説教ばかりだ。
○○は真面目だから、座りが悪そうであるが。「幻想郷を纏める者らしく―――」だの「
賢者としての威厳を―――」まったく耳ダコである。
なので多少意地の悪い言葉が出てしまうのも已む無しと言ったところ。
「妬いているのかしら?」
「な―――っ!」
くすりと一つ笑い、私は何時もの如くからかい混じりに、煙に巻く言動を吐く。
すると怒りか羞恥か、先程以上に顔を赤くして絶句する藍。
滅多に見ないその顔にしてやったりと、内心ほくそ笑む。
悪戯が成功した子供染みた喜びも、次に式の発した言葉で急激に冷める事になるのだが。
「どうして私が紫様に嫉妬しなくちゃならないんですかっ!」
ハ―――? 今この狐は何と言ったのだ?
言い切ってから、しまったという表情の藍。相変わらず罰の悪そうな○○。
そして私は、自分で見る事は叶わないが、おそらく能面のような顔をしている事だろう。
それも一瞬、こんな表情を○○に見せる訳にはいかない。すぐに被り慣れた仮面をつけ、ニヤリと笑う。
「藍も男を見る目があるわね。……でも駄目よ、私と○○は赤い糸で結ばれているんだから」
いけない、ほんの少しだけ、親しい人間なら気付くといった位、声音が低くなってしまった。
それに気付かぬ程愚図ではない藍は、敏感に感じ取った事だろう、彼女の顔は恥辱に歪んだ。
「っ! 失礼します!」
私が口を開くより先に、彼女はばんと机を叩き、その反動を利用したかのように勢いよく立ちあがり、
さっと部屋を去って行った。
隣の○○は藍が居なくなった時、明らかにほっとしたようで強張っていた体から力が抜けた。
私としては憐れに思う部分もあるが、○○に手を出そうとするなんて無謀には良い薬だろう。
聡明な彼女のことだ。例え主人の想い人に懸想しているとしても、最後には諦めることだろう。
そうにならなくても。ふふっ、何せ私達の仲を裂くことなんて神にだって出来やしないのだから。
「はい、○○。あーんして?」
紫様が右手の箸で摘まんだ魚に左手を添えて、○○の口へと持って行く。
彼は恥ずかしいのか、無視を決め込んでいるが頬は赤く染まっていた。
仲睦まじいのは大変喜ばしいことだ。だのに私の心には幾つもの波が立ち、凪には程遠い状態だった。
主人と式は、男の好みでも似か寄るのだろうか?
数日前に紫様が○○を連れて、マヨヒガに新たな住人が一人増えた。
色事に疎い私は分からないが、これを一目惚れと言うのか。別段異性と関わり合いのない生活を
送っている訳ではないが、それでも食材を見繕いに里へ降りる程度なのだから、矢張り初心な娘だったのだろう。
私はどんどん○○に惹かれていった。
じっと、想い人の横顔を見やる。
言っては何だが、造形としては、その、並だろう。好いた男の評価としては非道い話だが。
ただ、ほとんどを笑みで表現する彼は、好ましく思う。
性格に惹かれたのか。他人なぞ一生付き合っても図り切れないと言うのに、たかが数日で
○○の性格を把握なんて、出来ている自信は一つもない。
ではどうして、こんなにも彼への想いで心焦がさなければいけない。主人は、遠い昔の初恋を、
気が擦り切れてしまうほど長い刻、大事にしていたのだから納得もする。返って私はどうか。
ループする思考の中、始終見続けていたのが祟ったのか、○○は視線に気付き目が合うと困った風に顔を崩した。
「っ―――!」
馬鹿かこの男は! どうしてそこで笑うというのか、お前は紫様にだけ笑いかけていれば良いんだ!
そう心で叫ぶ反面、惚れた相手に笑いかけられて嬉しくない相手がいるだろうか。
もっと彼を知りたく、近づきたく、二律背反が胸中でせめぎ合っている。
そんな私に、今度は氷の様な視線が身体を貫く。
―――紫様だ。
自分以外の女に笑顔を向けるのが気に入らないのか、能面のような無表情で私を見ている。
無言の威圧が全身の毛という毛を逆立たせ、加えて絶対的な力量差が脂汗まで出させる始末。
そうして私は自分の立場を、どうしようもなく確認させられる。みっともなく横恋慕しているに過ぎない一匹の式だと。
つまり私の恋は芽すら見せるなと、紫様は牽制しているのだ。
その行動が、信頼を裏切っていることに気が付いているのか。
普段ならばまだしも、数字の如く切り捨てるだろう情に流されてる今は、失礼ながら頭が回っていないのだ。
家族さながらに近しく、最も尊敬している人物に疑われるのは、なんと苦しいことか。
だからと言って○○を憎もうにも出来ない。
一体誰が悪いのか分からずに日々を過ごした。
寄るでもなく離れるでもなく、○○と話すだけで喜び、紫様に詰(なじ)られては涙する忙しい日々だった。
そのせいか、私達の関係は相変わらず変わらなかった。
ただ、私の心だけがどろりと腐っていくのを、誰も知らずに感じていた。
遠からずに問題が起こるだろうと感じた私は、一つの決心を胸に○○を呼び出した。
「改まって話って、穏やかじゃないね」
虫も寝静まった夜、隣に寝る紫の手から抜け出した○○が部屋に放った第一声がこれだ。
部屋には明かりも点けずに、藍が一人佇んでいた。
「突然呼び出したりして、すまない。お前に大切な話があるんだ」
平素に振舞っていた○○も、からかおうとも考えていたが、真剣な彼女に対して気を引き締める。
二人の間に静寂が落ちる。○○としては用向きの手前自分から口を開くことが叶わず。
藍はと言えば、ちらりとこちらを見たと思えば視線を逸らしたり深呼吸したりと、随分と落ち着きがなかった。
伝えるべき内容は、事前に考えてある。場面だって脳内で繰り返し想定して、どんな問答にも応えられるよう
カンペだって作った!
だのに彼を目の前にして、いざ告白せんとすると、頭の中が真っ白になって折角の努力も無意味になってしまった。
「何をテンパっているのか知らないけど、俺はどこにもいかないし、何があっても藍の味方だから」
藍の様子を察した訳でもないだろうに、都合良く○○から吐いて出た一言は、彼女を落ち着かせるに十分だった。
見返りを求めるでもなくケジメとして呼んだのなら、今更繕うこともない。そう思うと、すっと肩の力が抜けた。
「好きだ―――」
ようやくして彼女から出た言葉は、俄かに信じがたいものだった。
散々悩んだ挙句、言葉を飾らないのは彼女らしさか。
「好きだ。好きなんだ、○○……!」
ようやく思いの丈を吐き出せた。一度堰を切った告白は止まらずに、感情に流されるまま次々と口をついて出てくる。
返事に窮する○○を見て、藍は続けて言った。
「こんなこと言われたって困るよな……。答えが欲しくて、言ったわけじゃない。
ただな、私が苦しくて耐えられなくて、吐き出さずにはいられなかっただけなんだ。
二人の仲を裂こうとか、ちっとも思ってはいないし。はは、何だか無茶苦茶な言い分だな……」
明確な自嘲で話し続ける彼女は痛ましく、助けたいにも言葉だけの慰めは薄っぺらで、何より○○は自分の気持ちに
嘘を吐きたくなかった。
確かに、藍は魅力的な女性だ。母性的で優しく、身体付きだって世の男性が虜になるだろう見事で、
傾国と例えられそうな程に非の打ち所がない。
それでも、○○は藍を受け入れることが出来なかった。時を越えてでも一途に想ってくれた紫が、只ひたすらに愛しいのだ。
「迷惑だろうが最後に一つだけ、私の願いを聞いてくれないか?
聞いてくれたら、この想いはもう生涯胸に閉まっておくから、さ……」
こんな悲痛なものが、愛の告白なのだろうか、到底分からない。一番身近で、好いた男が別の女と愛し合うのを、
耐えて見続けると言っているのだから。
「はしたないと思わないでくれよ。その、あの。せ、せっ……ぷん、をだな。して欲しいんだがごにょごにょ……」
言葉尻が小さくなって最後の方は聞こえなくなってしまったが、言いたい事は伝わってきた。つまり、「キスしてほしい」と。
鬼畜の様に跳ね飛ばしてやれば、面倒も少なくなったのかもしれないが、それが出来ない○○は首を縦に振った。
すると彼女の表情が一転して花が綻んだかの笑みを浮かべて、承知の行為なのに申し訳なくなる。
「そ、それじゃぁ、失礼します……」
何が失礼なのか、がちがちの動作で近づいてくる彼女を抱きとめてやると、「きゃっ」と可愛い悲鳴を零した。
○○はせめて、この口付けが藍にとって後悔のないように、精一杯恋人にするみたい口付けをした。
最初強張っていた藍も慣れてきたのか、力を抜いて○○に身を委ねるようになった。
「ん……、○○っ」
次第に彼女の方から積極的に求めてくるようになり、唇の合間から唾液が垂れて、彼女の鎖骨を撫でる。
あんまりにも扇情的な藍に、○○の心が揺れ動きそうになって―――
かたん。
襖から音が聞こえて、二人は弾けるように離れた。
揃ってその方を見ると、
「な、に……、してるの貴方達……?」
呆然と、信じられないものを見た表情で八雲紫が立っていた。
「紫、これは」
「○○は黙っていて!」
言葉を遮り、紫は怒鳴った。○○が聞いたこともない、本気の怒りだった。
「紫様……」
「ねぇ、藍? 貴女何をしていたのかしら。人の恋人に手を出して、何をしようとしていたのかしら」
まるで浮気の現場を押さえられた間男のようで、事実○○の気持ちがどうあれ、
何を言っても惨めな言い訳にしかならない現状に口を差せなかった。
その間にも紫は藍へと詰め寄っている。分かっているだろうに、どうしても彼女の口から言わせたいらしい。
藍は唇を震わせながらも、要求に応えた。
「○○と……、キスしていました……」
言い終わる直前、乾いた音が響いた。
○○と藍は一瞬理解が遅れて、紫だけが把握していた。
「出て行きなさい、何処へなりとも。貴女はもう私の式でもなんでもないわ」
「っ! …………お世話に、なりました」
「紫! 藍!」
烈火の如く怒鳴る紫に愕然とした表情を浮かべた藍は、迷いながらも一度深く礼をして土砂降りの外へ出て行った。
丁度二人の間に挟まれていた○○は呆然と事の成り行きを見ていたが、ぴしゃりと玄関が閉まった音ではたと正気に戻る。
俺は―――
【紫の真意を問う】
【藍を追いかける】
【紫の真意を問う】
「紫、どうしてあんな事を!」
「どうして、ですって? 人の恋人を取る様な女を、同じ屋根に住まわせる方がどうかしてるわ!」
「だからって式まで取って!」
俺には特別な事なんて分からない。けれど紫が「式でもなんでもない」と言った時、
八雲藍を形作る大切な何かが抜け落ちたのは直感的に感じる事が出来た。
「○○? 何処へ行こうと言うの?」
「決まってる。彼女を連れ戻すんだ」
玄関へ向かい、外の雨を睨む。
またぎゃぁぎゃぁと文句を言われるかと思ったが、予想外に彼女は冷ややかに、前後の文脈を些か飛ばしてこう言った。
「ねぇ○○。○○は私と藍、どっちが好きなの?」
この状況になっても、まだ俺の顔色を伺うような紫に、かっとなってしまう。
「今の紫だったら、藍の方が余程好きだよ!」
「……そう」
ぽつりと、何の色も持たない返事も、頭に血が上った自分には聞こえなかった。
―――俺は生涯、この時の自分に後悔する羽目になる。
どうしてもう少し冷静に、彼女へ耳を傾けてやれなかったのか、時が戻るのなら殺してやりたい程に。
だけどそれが分かるのは、もう少し後の話。
無駄に時間を食ってしまった。雨脚は強まる一方で、ちょっとの先も見えやしない。
藍がどちらへ向かったかも分からず、悩んでも仕方ないと真っ直ぐに走った。
容赦なく雨粒が肌を打ち、汗と共に急激に体温を奪っていく。
白い息も最初は勢い良く後ろへ流れて行ったが、今は目の前で燻んでいる。
どれくらい走ったのか碌に何も見えず、それでも藍に近づいていると信じて足を動かす。
ふと地面が近づいてきて、全身に衝撃が走る。自分が倒れたのだと気付くのに時間が掛かった。
視界は瞼に閉ざされ、思考は鈍り、立ち上がろうにも身体が言う事を聞かない。
指先すら動かせなくなると、遂には意識を手放し、闇へ落ちた。
…………。
とんとんとん。
「ぅ……」
とんとんとん。
徐々に覚醒する意識が初めに捉えたのは、音だった。
ぼんやりした頭では何か分らなかったが、段々とハッキリして聞き慣れた音だと気付いた。
これは藍が料理している時に聞こえる音だ。
彼女の振るう包丁は一定のリズムを刻み、母胎を思い出させては安らぎを与えてくれる。
自分は誰が助けてくれたのか、マヨヒガに戻ってきていた。
あのまま倒れていたら、命も危なかったかもしれない。
枕元には水差しが置いてあり、幾らか時間が経っているのかは知る由が無いが、硝子に揺れる水を見て喉の渇きを覚えた。
ぬるくなっていたが、十分に体を潤して人心地付くと余裕も出てきた。
結局藍は戻ってきたのだなと、安心して布団に身を沈めまた耳を傾ける。
とんと、んとん。
暫くしてどうしたのか、よくよく聞くと時折突っかかるような、雑音と言うには大袈裟な不和が混じる。
気になったので布団から這い出ると、疲れが残っているせいで関節が悲鳴を上げる、音の元であろう台所へ向かった。
宛がわれた客間から廊下へ出て、台所は居間の向こうだ、居間を覗く。見えるのはこちらに背を向けた彼女の姿だった。
ふとそれに違和感があり、邪魔かと悩みもしたが声を掛けることにした。
「藍……?」
「ああ○○、起きたのか」
返事があったのは紫の声で、きょろきょろと驚いてしまった。けれど紫はおらず、一体どこから聞こえたのかと思って探す。
いるはずもない。声は藍から聞こえたのだから。いや、藍だと思ってた人物が八雲紫その人だった。
「紫、何……、してるんだ」
「ゆ、かり……? 何を言っているんだ○○」
名前を呼んでも彼女は訳が分からなそうで、冗談を重ねるその態度に苛立ちが募る。
「私は、八雲藍だよ。お前の好きな」
その、どこか聞いた言い回しに、気付いた。
これは俺が彼女に言った言葉だと。
当て付けにしては随分と立ちの悪い行動だと一言文句を言おうとして、ざっくばらんな髪型が目に付き、
切った髪はどうしたのか疑問はすぐに氷解した。
長い長い彼女自慢の髪は、洗面所から流れずに大量に絡まっているのが目に入ったからだ。
「下らない冗談に付き合う暇なんて、藍はどうしたんだよ」
「だから、藍は私だと言っているだろう?」
ちぐはぐな会話は一向に実を結ばず、埒が明かない。戸惑う俺を他所に、彼女は何らか思い付きでもしたかにんまりと笑った。
「やっぱり八雲紫の方が好きなのかしら、ねぇ?」
不可思議な言動の後、指先が円を描くと服装が彼女の物に変わっていた。
元の言葉遣いと見慣れた服装にほんの少し安堵した、それが虚しい現実逃避に過ぎないのに。
「どうなの○○。それとも幽々子? 霊夢? もっと違う、誰かなのかしら。答えてくれないと分からないわ。
この爪も髪も胸も、貴方好みに作り変えていいのよ? えぇ、貴方が望むのならどんな女にだってなりますわ。
だから教えて、ねぇ○○―――?」
ぐにゃりぐにゃりと、能力の応用で目まぐるしく姿を変える彼女を前に、
ただひたすら立ち竦むことしか出来なかった鈍感な俺は、ようやく気付いた。
初恋の少女は、もういないのだと……。
【藍を追いかける】
「待って! ねぇ、どうして追いようとするの!」
縋る声が投げ掛けられる。
っ! 紫、まだそんな事を言うのか!
「そんなこと! 放っておける訳ないだろう!」
言葉をぶつけて、振り返ること無く降りしきる雨に身を晒した。
大量の水は地面を柔らかくして素足に絡みつき、次々に身体を汚していくが知ったことか。
「○○っ! ○○ーーーっ!」
背後からは紫が何度も俺の名を叫ぶ。
それがあんまりに悲痛で彼女を安心させたく足が戻りそうになるが、頭を振って意識を前に向ける。
すぐに彼女の声は聞こえなくなった。代わりに五月蝿い程の雨音と、自分の息遣いが耳障りに纏わり付く。
それにしても、一体藍はどこへ行ってしまったんだ。
考えなしに飛び出したはいいが、肝心の彼女が見つからないなんて、笑い話にもなりゃしない。
激しい雨は視界を遮り、体温をも奪っていく。走り通しで体力は限界に近づいているが、
今足を止めてしまったら彼女に会う機会を一生失いそうで、不明な恐怖に襲われるまま足を動かす。
視界の悪さが思わせるのか、まるでぐるりと同じ場所を回っている錯覚に陥る。
いや、虚実なんて問題ではない、藍が見つかるか否かの一点が重要なのだ。
意識も朦朧とし始めて、絶望が心を覆う。
もし見つかるんだったら、信じたことも無い神様だって、信じてやるって言うのに。
祈りが通じたのか、真っ白な視界の先に、小さい影が見える。
己が目を疑ったが、何度まばたいても黒い点は、小さくはなるが、消える事はなかった。
「藍!」
ああ、クソッ! 聞こえないのか、俺は何度も彼女の名前を呼びながら、足に鞭打ち駆け寄ると次第に影が大きくなってくる。
影が手に届く距離まで来て、あらん限りに腕を伸ばして彼女を捕まえる。
「はぁ、はぁ……! 藍、ようやく見つけた!」
「○、○? 本当に、○○なの……?」
振り向いた彼女の瞳は虚ろで、捉えている筈の俺がまるで見えなかった。
掌から伝わる体温は凡そ生者とは思えぬ程冷え切っており、死んでしまわないかと不安になっては強く抱きしめた。
「おい、大丈夫か! どうしたんだよ!」
「○○。私、決めていたんだ。もしお前が私を追って来てくれたら、って……」
されるがままの藍は右に左に、かくんと首が垂れて動く。生気のないその様はさながら死人のようで一層不安を煽った。
ぶつぶつと何か呟いているが、雨音が激しく断片しか聞き取れない。
「っ、ともかく一旦戻ろう。このままじゃ、下手すりゃ死んじまう。
紫だって、動転してただけで本心の言葉じゃないさ。なんなら俺も一緒に」
紫の名前を口に出した時だろうか、弱弱しく後ろに回されていた彼女の指がぎゅうと、背中の肉を抉るほど強く握られたのは。
「なぁ、○○」
「な、なんだ?」
打って変わって有無を言わさない圧力を持った言葉に、少しの安堵を感じた俺は頓珍漢だな。
「あの女の名前など、出さないでくれ」
あの女、だって?
感じた違和感は小さなものだったが、間違いではなかったかと裏付ける様に、次々と信じられない言葉が彼女の整った唇から紡がれる。
「本当にな、諦めるつもりだったんだ、あの接吻で。お前と別れると思ったら、出て行くのだって身を裂かれるほど辛かったさ。
でも私は式だ、八雲紫の式なんだ。だから命令は絶対だ、最期の命令をな」
「嘘じゃない。諦めるつもりだったんだ。でもこうやってお前が追いかけて来てくれて、やっぱり自分の気持ちに嘘なんて付けない。
○○もそうなんだろう? だから紫じゃなくて、私を追って来てくれたんだ。私を選んでくれたんだ。私を選んで、ふふふ!」
「藍? ああ、私のことか。その通りだ、八雲でない、ただ一匹の藍さ。いや違うかな。
折角新しい人生を始めるんだ、名前も変えようじゃないか。
嗚呼、全く、精神に生きる妖怪にとって、名前は寄る辺として最も重要なものなんだぞ?
それを変えさせるなんて、ふふっ。とんでもなく罪深い男だな○○は」
「そうだな、外へ。外へ行こう。お前も無理矢理連れて来られて、帰りたいだろう。それがいい。あの女の手の届かない場所で、
一石二鳥じゃないか。なに、安心しろ。結界を気付かれずに抜けるぐらいはやってみせるさ。
あの女の元で生きていたおかげでな、扱いに長けているのさ。ははははははははは!」
誰に言うでもなく、とつとつと語る九尾の姿に恐怖を覚える。
そうか。目の前の彼女は、既に自分の知っている彼女ではないのだと判って、訳も無く○○は悲しくなった。
そうして、意識を失う前に見たのは、目の前に伸びてくる白い腕。
その情景がいつか見たものに似て、遠くなる意識の中何とか手繰り寄せる。
そうだ、確か が幻想郷に連れてきた光景と―――。
「向こうに着いたら、まず始めに猫を飼おう。真っ黒い毛並みをした奴だ、きっと凄く可愛いぞ。子供も欲しいな。○○は何人欲しい?
わ、私はお前が望むなら何人でも構わないが。最初は娘がいいな、どっちに似ても可愛い子が生まれるに違いないが。
あぁ、今から楽しみだ。なぁ、○○?」
最終更新:2011年04月02日 22:54