視界の端を一人の少女が通り過ぎる。
反射的にそれを目で追ってしまい、まずいと感じた時にはこれまた反射的な思考が浮かんでいて、まずいぞという明確な意識が体を動かそうとする。
「今、」
しかし、反射的とまでは言えない行動は機敏さに欠け、何かを口にするよりも先に服を掴まれて足を止めるだけの結果になった。
「可愛いって思った」
振り向けば不機嫌な目と不機嫌な言葉が投げかけられる。
「あのな、
さとり……」
「そう思ってた、思っていたわ。ええ、思っていました。間違いなく。
だって、わかるもの。私にはわかってしまうもの。嫌でも、全部、わかる。いつも、いつも見てるから、わかるのよ」
服を掴む指は二本だけで――――でも、よく見ると力の入れすぎで真っ白になっているのがわかる。
「わかっているの。貴方がそう考えてしまったのがほんの一瞬で、すぐに私を気遣おうとしたことも。
わかっています。貴方は私のことを一番可愛いって想ってくれていることも。
だって、いつも見てるから。好きで、全部、好きだから、全部、……わかっているんです」
言葉と共に段々と彼女の顔は俯いていき、やがて不機嫌だと感じた視線は不安定に地面の上を錯綜するだけになった。
不機嫌だと感じた声も、気づけば憤りや不満以外の要因で大気だけではなく感情を震わせている。
「わかっている、のに。
こんなに好きなのに……こんなに私のこと好き、好きだって、わか、わ、わかって、い、い、い、――――」
ぽたりと。
俯いた顔から雫がこぼれ落ちる。
「わかっているのにっ!」
戻ってきた視線はあまりにもか弱くて、張り上げた声はあまりにも力が無くて。
だからだろうか。今も頬を滑り落ちる水滴があまりにも悲しく、――――愛しく思えた。
「わかっているのに、不安になる! こんな、こんな些細なことで貴方の感情を疑ってしまう!
そんな自分が嫌なのにっ、貴方の気遣いを感じられることが! 貴方の心が私だけで埋められるのを見ることが!
その喜びが私を満たし、不安や嫉妬を肯定して、いつもこうなってしまう! 少し貴方の心が逸れただけでこんな風に泣いてしまう!」
「さとり、俺は」
お前のことを、
「……心から愛している、ですか。ええ、わかっているんです。本当に。
私は、さとりはこんなはずではなかったんです。
サトリという妖怪は他人の心を読むのに慣れていて、どんな感情も軽く受け流すことが出来て、だから貴方とももっと余裕を持って付き合えて。
そうやって貴方を支えてあげようと、そう思っていました。
――でも、貴方は変えてしまった。私を、さとりを妖怪から女へと、貴方に甘えてばかりでどうしようもない女へと!
だから不安になる! 貴方にはもっと良い人がいるんじゃないかって! 貴方が別の誰かを好きになるんじゃないかって!
だから、私は、わ、わたしは――――」
ぽろぽろと泣き、全身を震わせる少女はなおも言葉を重ねようとするが、これ以上何かを言わせるつもりはなかった。
「さとり」
「んっ――――」
短く、しかし力強く呟いて唇を合わせる。
何秒か、何分か。そうしている間にさとりの震えはおさまり、離した顔には若干の寂しさと大量の照れが含まれていた。
「落ち着いた?」
「……すいません。また迷惑をかけてしまいました」
「いいって」
「……これが自分たちの日常だし、さとりの愛を感じられて嬉しいし可愛いから、ですか。
まったく貴方はもう少し恋人の悩みというものを真面目に捉えて下さい。
……こんなにもさとりが可愛いなだからしかたない、ですか。
――――もう、そんなこと言ってるずっとこのまま貴方に甘えてしまいますよ?」
そうやって、泣きはらした顔で微笑む彼女はとても綺麗で。
ああ、その通りにずっとこんなことが続けばいいな、と心からそう思ってしまった。
「本当に、しかたのない人ね――」
最終更新:2011年04月24日 21:23