春。
阿求が泣いたのは春だった。
綻び始めた桜花に生気を吸われたように阿求の病がいよいよいけなくなった。
枕元に駆け付けた俺に阿求は言った。寂しそうな虚ろな顔で。
――ごめんなさい。私は石女になりました。ごめんなさい。
もう出産に耐えられる体ではない。既に竹林の医師から聞いていた。
何を謝る事がある。どうしてお前が謝るのだ。
――ずっと貴方に言いたかった事があったのです。今まで勇気が出なくて言いだせなかった。
――貴方の妻にして下さい。貴方の生涯を外に帰らずこの幻想郷でどうか私と過ごして下さい。こんな体になる前に言えば良かった。
――もう全てが間に合わない。こんな陰気で根暗な女に好かれているなどどれほど貴方はお嫌だろう。打ち明ければきっと貴方は呆れ果てて私を嫌う。
――そう決めて掛かっていたのです。ああ、でも。どんなに望みが無くても言うべきでした。
――子供も産めない女に先ずもってこれ以上御用は無いでしょう。義理深く見舞いに来て頂いて恐縮ですがもうお帰りになられた方が宜しいでしょう。
――来てくれて有り難う。こんなに嬉しい事はありませんでした。
そう言って阿求は微笑んだ。涙など欠片も見せなかった。
俺は大層腹が立った。
俺の話も聞かずに何を言う。
実はそう。迷い込んだ当初は帰る事ばかりに気が急いたが、なかなかどうしてこの幻想郷も良いところだ。
何を隠そう、たった今骨を埋める決心がついた。
ついては今まで通りに体と頭を使えば、自分の食い扶持ぐらいは訳無いつもりだがあの傾いた長屋にだけは我慢がならない。
そこでだ阿求。誠に厚かましいとは思うのだが、この稗田の家屋敷、中にいるお前ごとそっくり俺にくれないか。
おい。そうきょとんとした顔をするな。もちろんタダで寄越せという訳じゃない。代わりにお前に俺の姓を消し去ってくれてやる。
今ならおまけで俺の一生も付けよう。つまりはそう。婿入りという事になるが……どうか。
阿求は暫く黙っていた。
――貴方は。
――何を、何を仰るのです。あんなに外に帰りたがっていたのに。
もういい。ここの土の臭いが急に好きになった。
――私、わたしは御役目があります。毎日机に向かう鬱陶しい女です。
舐めるなよ。こう見えても外の人間は学がある。二人でやれば半日で済む。
――わたしはきっと長くありません……。
飯を食って寝ろ。まだまだこれからだ。
――…………こんな、信じられません。こんな幸せ……罰が、当りそうで……。
当てさせやしない。
――い、いいのですか。だってわたし、もう普通の、体では
またそれか。あー阿求よ。
――は、はい。
俺の方こそこんな目付きだし口は悪いが構わないか。
そう言ったと思った瞬間布団の中で今にも消えてしまいそうだった阿求が起き上がって飛びついて来た。
病人とは思えない程しっかりと腕を絡めて俺に抱きついた。そうして親を見つけた迷子のように大声でわんわん泣いた。
開け放しの縁側からゆるゆると日が差した。緩やかに吹きこんだ風に乗って阿求の髪に桜花が舞い落ちた。
泣きじゃくる阿求の頬は桜よりもずっと赤みがある。花散るにはずっと早いがきっと阿求に命を返してくれたのだ。
花見に行こうか阿求。早く良くなれよ。
阿求は叫ぶように答えた。
――行きます。何処へでも付いていきますから。もう絶対に離しませんから。
そう言っていつまでもいつまでも、赤子のように
泣いた。
夏。
阿求が笑ったのは夏だった。
白無垢を彩るように蛍の群れる夏の夜、阿求は俺の妻となった。
博霊の神前にて不敬にも畏まらず俺は阿求の一挙一動を見詰めていた。
白磁の指が白い杯に添えられるのを。花弁のような口唇が神酒を含むのを。
婚儀には数多の人妖が参列していた。神事の際には俺と阿求の背に無数の寿ぎが寄せられた。
だがその中に。
――石女と余所者の外来人か。
花の中に埋もれた毒針のような呪詛が確かに聞こえた。びくりと阿求の背が震えた。間に合わないと知ってはいてもその耳を塞いでやりたくなった。
毒は確かに阿求の耳に注がれたろう。表情を変えなくても少しだけ俯いたのが良く分かった。
阿求。俺を見ろ。
言いながら阿求の手を握った。
もう決して一人で耐えるな。苦しければ俺を頼れ。俺はお前の夫だ。
辛い時は必ず側にいる。
――……はい。あなた。
阿求は陶然としたように返事をした。朗々と続く巫女の祝詞など気にも留めずそのままずっと濡れた瞳で俺を見る。
まさかあの量のお神酒でもう酔ったのか。
――ええ……。早く私たちの家に連れて帰って下さい。二人きりで……その……か、介抱してくれますか。
そこまで酒に弱いとは知らなかった。
――えーごほん。
巫女のわざとらしい咳払いで我に返った。
婚礼から一月経った。
一向に風は涼やかならず陽光が地に落とす影はその黒さを増すばかりだ。
だが里の賑わいは暑さとともにいや増した。
春の花見の約束は結局阿求が本復せず流れていた。余り阿求が口惜しがるので夏祭りに行くことにした。
縁日の喧騒の中、隣にぴたりと張り付く阿求が頻りに近況を聞くので俺は新婚生活の愚痴を漏らした。
やれやれ旧家の入り婿とは面倒なものだな。
――……どうしたのですか。
覚える事が山ほど有る。慣れぬ仕事に礼儀作法に金繰りに……。楽しんでやれるのはお前の仕事の手伝いぐらいだ。
――……矢張りお辛いですか……。
うん。しくじった。しまったな。こんな事ならあの時……。
――あの時、……なんですか……。
婿入りではなくお前を攫って逃げれば良かった。
そう言った途端阿求は地面にしゃがみ込んで長い息を吐いた。胸を強く抑えている。
どうした阿求。気分が悪くなったか。
――いえ、違います。安心して……。良かった。私と一緒にならなければ良かったと言われるのかと。
驚かせるな。いずれにせよ顔色が良くないな。暑気に中てられたか。どれ、ここにいろ。かき氷でも買ってこよう。
――……、ま、待ってください、あなた。私も一緒に。
駄目だ休んでいろ。すぐ戻る。
少し離れた所で氷精が露店を出していた。
宇治金時と、そうだな、いちご味を。あれであいつは子供だからな。
その時。背後でわっと人が叫んだ。
――人が倒れたぞ。
――あれは稗田のお嬢さんじゃないか。
俺は受け取ったばかりのかき氷を放り出して駆け出した。人波を掻き分けた先で阿求が地面に倒れている。
阿求ッ。発作かッ。
阿求の病は近頃は小康の状態にあったが少しの弾みでぶり返す事がある。夢中で阿求を抱き起し背中に負う。
すぐに連れて帰る。気をしっかり持てッ。
――ごめんなさい。でも、ふふ。
喋るな阿求。舌を噛む。
――本当でしたね……。あなたは、わたしが辛い、時は。いつでも、そばにいてくれるって……。
そう言って必死に駆ける俺の背で揺られながら力無く
笑った。
秋。
阿求が眠ったのは秋だった。
紅葉はすっかり山を朱に染めてしまったろうが俺も阿求も風流に心を割く暇が無い。
阿求の診察を終えた竹林の八意医師に二人差し向った座敷で茶を出した。
夏祭りの日に倒れてから阿求の容体は一進一退を繰り返し一向に回復の兆しが見えない。
不作法者の粗茶で申し訳ないが。
――頂きますわ。
八意医師は表情を変えずに俺が淹れた茶を啜った。
内密の話故に稗田家の使用人は遠ざけており阿求本人は臥せっている。さぞ渋かろうが俺の他に茶を出せるものがいない。
――余り良くないわ。
茶の話か。
八意医師は首を振った。
――阿求さんの、奥様の病状は勿論予断を許さないけれど。それよりも心がすっかり弱り切ってしまっている。あれでは助かる者も助からないわ。
――体の方が多少持ち直しても心の方がそれに付いて行かないのよ。
――精神が非常に不安定だったりしない?異常に一人になるのを怖がったりしていない?夜眠れない事は?
ある。全てに心当たりがある。
――普通なら家族の手厚い看護が必要だけれど貴方は十分過ぎるほど看護しているようね。随分顔色が良くないわ。根を詰め過ぎね。
それもその通りだ。
あの日以来寝付いた阿求を使用人に任せて稗田家の仕事や雑事を済まそうと遠出して遅くなったりすると決まって阿求の容体は急変した。
痛苦に身を捩りながら俺の名を呼んで熱にうなされる。そして俺が家に駆け戻って手を握ってやると阿求は心底ほっとしたように息を吐いて熱が鎮まる。
この間などは里の会議に稗田家の名代として出席している最中に縁側から落ちた。
病で朦朧とした夢現の判然としない意識の中で俺を探しまわり布団から這いずり出て縁側から庭に落ち気を失っていた。
――ちょっと目を離した隙に。
そう言って言い訳した女中をその場で怒鳴りつけた。幸いその時は大事に至らなかったが季節が冬なら阿求はあのまま……。
ゾッと背筋が寒くなった。
それ以来、俺は余程の重大な用でなければ外出しない。だが本当に四六時中側にいる事は不可能だ。
俺から事の次第を聞いた八意医師は暫く無言で考え込んでいたが
――精神を落ち着ける薬も一緒に出しておくわ。それで少し様子を見ましょう。でも良く聞いて。阿求さんの病を完全に治す方法は無いわ。
人間に業病を克服することは出来ないの。長く上手く付き合っていくしかないのよ。
人間には不可能、か。
儚いものだな。
俺の呟きは聞こえなかったようで八意医師は立ち上がった。玄関まで見送ろうとした俺に不意に八意医師が声を掛けた。
――ああ。それから……。阿求さんは私が渡した以外の薬を何か飲んでいるかしら?
妙な事を聞く。
いや、先生に貰ったものだけだが。
八意医師は固い表情で――そう、とだけ返事をした。
玄関先で医師に診察の謝意を述べて送り出した矢先である。
かたん。
背後で襖が鳴った。
振り返ると阿求が壁にもたれ掛かるようにして立っている。
――あ、あなた。おでかけ、ですか。
はぁ、はぁと息をして今にも泣きだしそうな不安げで弱弱しい顔を俺に向けた。
歩み寄って細い肩を抱き寄せた。
いいや。何処にも行かない。それより部屋に戻ろう。寝ていないと駄目だ。
――ごめん、なさい。
そう言った阿求の体からガクリと力が抜ける。
細い体を抱きとめた。
秋の陽は釣瓶の如く早く落ちた。
ささやかな夕餉が始まった。その日は秋神の姉妹が送ってくれた山の幸が膳に並んだ。
宝石のように鮮やかな食膳からほんの一口分を箸で掬い取ってゆっくりと阿求の口元に運ぶ。
布団の上に座った阿求を後ろから抱え込むようにして俺も座る。
そして布団の傍らに置いた食膳から俺が箸で選んだ物を阿求の口に運ぶ。ちょうど二人羽織のように。
阿求は背後の俺に軽い体重を預けて雛鳥のように食事を採る。
――食欲が出なくて……。
そう言って当初はほとんど食事に手を付けず、やつれていくばかりだった阿求もこうすれば何とか食べてくれる。
阿求が何を欲しがっているかは逐一言わずとも視線だけで分かるようになった。
そうして静かな夕餉が進む。
次は風呂だ。
湯殿の前で阿求の帯に手を掛けた。するすると抵抗無く阿求の肌が露わになる。
また痩せたな阿求。
そう言うと阿求の青白い肌にじんわりと赤みが差した。
あばらの浮いた細い体を抱いて一緒に湯船に浸かる。
――ん……っ……。
熱い湯の中で阿求は幽かに身じろぎした。そうして俺の肩に掛けた細い手を首に回してしな垂れ掛かった。
するりと阿求の肌と俺の肌が擦れた。
摩擦の無い滑らかな雪のような肌が。
――あ、あなた……。
肌を密着させたままで阿求は懇願するようなどこか悲しそうな熱い目で俺を見た。幾分息が荒い。その細く幼い首がごくりと動いたのが見えた。
何を言いたいのかは分かっている。俺も熱くならぬ訳がない。何度この愛しい小さな体を滅茶苦茶にしようと思ったか。
しかし抱けば折れるというのは阿求の場合比喩では無い。
体の芯の熱を慰めてやるのにも時期を見計らう必要がある。夫婦となってからも重なりあったのは片手で数えられる。阿求の体はそれほどの注意が必要だった。
婚儀の初夜、破瓜に耐えた時など阿求は四日も寝込んだのだ。
離れろ、阿求。背中を流してやる。
――……はい……。
残念そうに言って阿求はゆっくり俺から離れた。真っ赤な顔をして叱られた子供のように項垂れていた。
真珠を磨くような心持で真っ白な背に布を当てた。
風呂から出て阿求を注意深く布団の上に寝かせた。湯冷めしない程度の時間を置いてその額に手を置く。
就寝前に熱が出ていないかを確認しなければならない。
額に手を置くと阿求は気持ち良さそうに目を細めた。
――あなた。御免なさい。今夜もお願い出来ますか。
ああ。少し端に寄れ。
布団は二つ並べて敷かれていたがあまり両方を使う事は無い。
俺は阿求の隣に横になった。
すぐに阿求は俺の背に手を回して胸に顔を埋めてきた。そして恐怖に耐えるようにじっとしている。
俺はゆっくり同じ間隔で阿求の背を撫でる。こうしていないと眠れないほど怖いのだそうだ。
阿求の発作は夜間、眠る前に最も多い。一度苦しみ始めればけんけんと苦しそうに小さな背を震わせて血の混じった咳をする。
酷ければ明け方近くまで咳は続き、自分の咳に疲れきって気を失うように眠るのだ。その恐怖が和らぐからと俺にいつも添い寝を頼んだ。
――ごめんなさい。まるで赤子ですね。背中を擦ってもらわないと眠れないなんて……。
お前はそんな事を気にせずとも良いのだ。
――その上、その上、ここまでして貰って私はまだ不安で。こんな面倒な女、とっくに愛想を尽かされているのではと。こんな面倒な女で……。ごめんなさい。
謝るな。謝らないでくれ。眠れるまでここにいてやる。いつまでも擦ってやる。
そう囁くとようやく阿求の体から力が抜けた。俺は何度も何度もその背を撫でた。
やがて俺の手が背中を撫でるのに合わせるように阿求は静かな呼吸を初めた。
緩やかな寝息を立てて、しかし俺の背に絡めた腕はそのままで、ようやく
眠った。
冬。
阿求が願ったのは冬だった。
白銀の雪が月光を照り返し輝いて夜道に灯が不要な程明るい晩だ。
――結論を言えば人間が妖怪になる事は可能ですわ。
招かれねば訪れられぬ屋敷の一室で八雲紫は話を締め括った。
――吸血鬼が仲間を増やす際互いの血液を吸い合う様を想像なさい。
――人の場合も大差有りません。手っ取り早いのは妖怪の血肉を取り込む事ですわ。
ふぅん。そうか。お前にしては分かりやすかったぞ。邪魔したな。
そう言って俺は席を立った。
自分でも幻想郷の賢者に対して不遜が過ぎた態度だとは分かるが、俺はこの女の気紛れで幻想郷に迷い込まされたのだ。
つい辛辣になる。
――まあ御待ちなさい。何を考えているかは察しが付くけれど碌な事にはならないわよ。
昨夜。
――え?
昨夜も阿求は血を吐いた。もう時間が無いのだ。
――九代目を失うのが心苦しいのは私としても同じですわ。でもその方法は考え直しなさい。
今日お前に話を聞きに来たのは裏付けと確認のためだ。もう既に準備はしてある。すぐにでも決行する。
――ですが……。
悪いが余り遅くなるとあいつが度を越して心配するので失礼する。
別に嘘ではない。俺が家にいないと分かれば何故かそれだけで阿求の病状は悪化するのだ。
この訪問を阿求の眠っている深夜に行わなければならなかったのも俺の外出を悟られぬため。
部屋を出て行こうとした俺の背に紫が声を掛けた。
――ねえ、こんな話を知っているかしら。
思わず足が止まった。
――ある地方の女は昔。気付かれぬよう夫の朝食に少しずつ毒を盛って夕食には解毒剤を混ぜたそうですわ。
――それで夫が他所の女の所に外泊するとその晩苦しみに耐え切れず戻って来る。どこかで聞いた話に似ているとは思わないかしら。
紫。今度はいつも通りのお前の話に戻ったぞ。回りくどくて何が言いたいのか分からん。
じゃあな。
まだ何かを言おうとした紫を振り切って屋敷を出た。
――お帰りなさい。
しくじった。
――こんな遅くにどちらへ……?
肌を刺すように冷え切った薄暗い部屋の中、薄い夜着一枚だけで阿求が座っていた。
阿求の正座は病身とは思えぬほど凛と背筋の伸びた座相であるが顔だけは俯いていて良く見えない。
半端に誤魔化しても聡明な阿求には通じまい。
なに、あの隙間妖怪に相談があってな。
――こんな夜更けにですか。
急ぎの用事だったのだ。
――どんな用事だったのですか。
秘密だ。
ふるふると阿求の肩が震えた。
――あ、あなたは。
なんだ。
――私よりも紫様のほうがお好きなのですか。
いいや、お前が好きだ。お前がいい。
――八意先生とも随分長くお話をされますね。
話すとも。お前の事をな。
――う、嘘……。
ぜひゅ。
咳音が阿求の言葉に混じった。かと思うとそのままガクリと畳に手を付いた。
ぜーぜーと荒い息をする阿求を抱き起した。俺の腕の中でケンケンと咳を繰り返す阿求をそのまま抱き上げて布団まで運んでやった。
興奮しすぎだ。落ち着け阿求。
怒っているのかと思って顔を見ると阿求の目からポロポロと涙が零れていた。
――あ、あなた。
――捨てないで。捨てないでください。
当たり前だ。
――嘘です。
何故そう思う。
――だって、だって私はあの人たちと違う。何の力も無いし、すぐ死ぬんです。子供も……子供すらもあなたに残せません。
ぎゅうっと阿求が俺の腕を抱きしめた。
――あなたが側にいてくれるのは、私が病だから。だから哀れんで側にいてくれるんでしょう。
――それでも、いい。それでもいいんです。同情でも構いません。だから。どうか私が生きている間だけは。
――お願い。側にいて……。
阿求、お前は何の心配もしなくていい。安心して休め。
俺はいつも通りに阿求の背を撫でた。はっはっと犬のように忙しなかった阿求の息が徐々に長く深くなっていく。
やがてその呼吸が長い時間を掛けて一定の間隔で繰り返される安定したものになった。
眠ったか。
それを確認すると俺は静かに阿求の布団から抜けだした。
――……。
阿求の声を幽かに感じた。
寝言か。
――な……た。
――あなた、ずっと……いっしょに。
そうして立ち去る俺の背に向けて寝顔に涙を滲ませながら
願った。
そうとも阿求。お前は何の心配もしなくていい。
お前の願いは必ず叶えられる。お前の病はすぐに治る。
お前は死なない。俺とずっと一緒にいるのだ。
俺たちが離れ離れになるのは今夜が最後だ。
刀、槍、斧、鉈、弓、銃。
そして博霊、守矢、命連字の護符。
狩りに必要な金で揃うものは全て揃えた。
足りないのは人手だけだ。この狩りで狙う獲物を恐れる臆病者どもの手などは必要ないが。
格の低い奴でもいい。肉が手に入るものならば。この刻限に人里の外をうろつけばウヨウヨと寄って来るだろう。
季節は冬。月光冴え渡り灯明無くして夜行し得る明月の夜。
狙う獲物を妖怪変化という。
今夜。
阿求は今夜癒えるだろう。
次の年も。
この一年と同じように。
春の温もりに泣き、夏の喧騒に笑い、秋に安んじて眠り、冬に幸せを祈れ。
次の年も。その次の年も。その次の次の年も。次の次の次の年も。
阿求。お前は死なない。望み通り俺とずっと一緒にいるのだ。
野の中で、凍りついて雪を纏い銀の針となった名も知らぬ草が一歩進む度にパキパキと音を立てて砕けた。
未だ月は陰らぬが夜明けの前は最も暗く仰げば闇の中に人里の明りがぼんやりと浮かんで見えた。
ああ生きて帰って来たのだ。
死ぬ気になればやれるものだな。
背中の麻袋の中に狩りの成果の重みを感じつつ家路を急いだ。
他に荷は無い。
護符も武器も粗方獲物に突き刺してきてしまった。
せっかく獲れた獲物も重さに辟易して持ち帰ったのはほんの一部だ。残りは夜が明けてから取りに戻れば良いだろう。
今はそんな事よりも阿求に会いたい。その寝顔の頬を撫でてやりたい。
ぽたぽたと俺の歩いた雪の上に血が落ちた。麻袋から染み出た物と俺の体から流れ出た物が混じったものが。
「お帰りなさい」
真っ暗な部屋の中に阿求が一人立っていた。
眠っていなかったのか。そう思って歩み寄ろうとした俺を阿求が制した。
「ねえあなた。あなたは私を愛していますか。陰気で子供も産めず明日の命も知れない女を」
阿求の顔は穏やかだった。たおやかな微笑すら浮かべている。
俺はこれ程迷いの無い阿求の微笑を初めて見た。
何か。尋常でない阿求の様子を察して俺は注意深く答えた。
「勿論愛している。だから布団に戻れ。この寒さは体に毒だ」
「心配してくれるんですね」
「当たり前だ」
くっくっ。
阿求は口元を覆って子供のように無邪気に笑った。
「でも、どこへ行っていたかは言えないのでしょう?」
俺は言葉に詰まった。まさかここの所、お前を妖怪にして生き長らえさせるためにあちこちを回って支度していたのだ。とは言えまい。肉は分からないように食事に少しずつ混ぜる心算であった。
黙りこむ俺を見る阿求の目に憂いが混じる。
「あなたがお出かけになる時ばかり都合良く、いえ都合悪く私が発作を起こすのを奇妙に思った事はありませんか」
ごとり。阿求の手から何かが音を立てて転がり落ちた。畳を転がって俺の足元までやって来たのは黒い粉薬の入った薬瓶であった。永遠亭で処方された丸薬ではない。
――ある地方の女は昔。気付かれぬよう夫の朝食に少しずつ毒を盛って夕食には解毒剤を混ぜたそうですわ。
耳元に紫の警句が蘇った。
――それで夫が他所の女の所に外泊するとその晩苦しみに耐え切れず戻って来る。どこかで聞いた話に似ているとは思わないかしら。
「そのお薬は私が調合しました。稗田家にはそういう資料も多く残っていますから」
――ああ。それから……。阿求さんは私が渡した以外の薬を何か飲んでいるかしら?
八意医師の質問の意味が今はっきりと理解出来た。
「何故だ……」
信じ難い程に低い声が出た。こんな声を阿求に向けた事は無い。これは敵に向ける声だ。
「だって……」
にいぃ。白々と障子を透かす月光を背に阿求は怪しく嗤った。
俺はこれ程妖艶な阿求の笑みを初めて見た。
「だって私が苦しんでいると聞けば優しいあなたは必ず私のところに戻って来てくれるでしょう。どんな女性と一緒にいても」
――もう決して一人で耐えるな。苦しければ俺を頼れ。俺はお前の夫だ。辛い時は必ず側にいる。
――……はい。あなた。
夏の日の誓いは強く阿求の中に脈打っていた。
「私が自分で毒を飲んでいるとは知らず、私が苦しんでいると聞けば放っておけずに帰って来てくれる。あなたは本当に素敵な殿方です」
見知らぬ妻の笑顔を前にようやく俺は阿求の意図を読み取った。
幻想郷の女たちは力でこの地に男を縛ると言う。
だが阿求は。恐らくはこの幻想郷で阿求だけが、弱さで俺を縛ったのだ。
「あなたの妻で良かった。あなたが家まで駆け戻って私の手を握ってくれる度に本当に私は嬉しかった」
阿求は頬を染めて熱い息を吐き胸に手を置いた。俺が家に戻った時に見せる安堵した阿求の表情。
「私の狂言で大変なご迷惑をお掛けしました。でも私の病をあなたが哀れんでくれなければあなたがもう帰ってこないような気がして止める事が出来ませんでした」
そう言ってまた阿求は微笑んだ。俺はこの微笑みを知っていた。何かを耐えている時の阿求の顔だ。何か恐ろしい事を一人で背負う時の顔なのだ。
――子供も産めない女に先ずもってこれ以上御用は無いでしょう。義理深く見舞いに来て頂いて恐縮ですがもうお帰りになられた方が宜しいでしょう。
――来てくれて有り難う。こんなに嬉しい事はありませんでした。
あの春の日のように。涙など欠片も見せずに恐怖を押し隠している。
「今までずっと考えていました……。あなたにずっと側にいて貰える方法を。この薬は少量なら発作だけで済みますが大量に飲めば体中を侵されます」
すっと阿求の手が夜着に差し込まれた。抜き出されたその手には一服の薬包紙が握られていた。薬瓶の中身と同じものだろう。
「あなたが私の病を哀れんで側にいてくれるのなら。治らなくしてしまえばいい。ずっとあなたの助けが無ければ生きていけないようになればいい。そう気付きました」
そして一息に阿求は薬を呷った。
「阿求ッ!」
床を蹴って俺が阿求の手を叩く前に毒は阿求の口に注がれた。
倒れる阿求を抱き止めるしか出来なかった。
「もう、話せなく、なる……でしょうから、いま。つたえます」
阿求の目から涙のように血が流れた。
「ずっと、お慕いして、います……あなた」
そう言って俺の腕の中で阿求は
消えた。
阿求の頬に滴った血の滴を拭いながら俺は阿求の口元に耳を寄せ、微かに息が有る事を確認した。
まだ間に合う。
僅かに阿求の口を開けさせると麻袋の中から一片の肉片を千切り取りそれを阿求の口元に持って行った。
そうとも阿求。お前は何の心配もしなくていい。
お前の願いは必ず叶えられる。お前の病はすぐに治る。
お前は死なない。俺とずっと一緒にいるのだ。
あーん。あーん。
赤子のような泣き声が人気の無くなった屋敷に響いた。
おや、側にいないのがばれてしまったか。
廃屋同然になった屋敷の中を歩いて奥まった座敷に入ると、阿求はすっかり怯えた泣き顔で布団の上に丸くなっていた。
「泣かないでくれ阿求。夕餉の支度をしていただけだ」
泣きじゃくっていた阿求だったが俺を認めると倒れ込むように飛びついて来た。そうして俺の腕の中に収まるとあーうーと蕩け切った安心した声で指をしゃぶっている。
その瞳にかつての理知の光は無い。ただ喜びの感情だけがある。
「さあ食事にしようか阿求。今日も新鮮な肉が手に入った」
俺がそう言うと阿求は伸び始めた牙を覗かせてにっこりと笑った。
あの日、薬を服して昏倒している阿求に妖怪の血肉を飲ませて一命を取り留めた。しかし薬に侵された阿求の頭や精神は元に戻る事は無く生来の病が癒える事も無かった。それでも一時に比べれば随分調子が良い。死んだように眠るばかりだった阿求がこんなに元気になっている。この所は発作も無い。やはりこの食事のせいだろう。
美味しそうに肉を頬張る阿求を見ながら俺も同じ肉を口に運んだ。俺もずっと阿求と同じ食事をしている。最近は闇夜でも目が見えるようになり力も異常なほど強くなっている。着実に体が妖怪のものに作り変えられているのだろう。無論、少しでも強い獲物を狩るため、永く阿求と共にあるためだ。
食事を終えて汚れた阿求の口元を拭ってやりながら阿求に語りかけた。
「お前を元のように戻してやるのにあとどれぐらいの妖怪が必要なのだろうな」
その問い掛けには答えず阿求はくすぐったそうにきゃっきゃっと笑い俺の手に頬ずりしている。
それが済むと俺は阿求を抱え上げた。
「さて、そろそろ住処を変えるか。こうしていれば隙間妖怪か巫女辺りが訪ねて来そうだからな」
慣れたもので阿求はすぐに俺の首に手を回してぎゅっと抱き付いた。
今度こそはお互いに離す気が微塵もない。
そうして二人で連れ添いながら夜の闇の中へと歩いて行った。
『妖怪を喰らうもの――夜更けに一人で出歩いていると夜道にも関わらず明りも無いまま、しっかりとした足取りで歩いて来る人間の夫婦者と行き遭う事がある。信じ難い事にこの人間達は妖怪を喰らうのだと言われている。
不思議に思って声を掛けるのが人間であれば何事も無く通り過ぎる。が、出遭った者が妖怪であった場合、首を掻き切られて喰われてしまうという。既に相当数の被害が出ている可能性があるが被害者のほとんどが死亡しているために
詳しい被害状況が掴めていない。特に妖力の弱い妖怪にとっては非常に危険である。妖怪の賢者や博霊の巫女が調査中であるが狡猾なために足取りは掴めていない。夜道を行くのが本道である妖怪に不安を与えている』
文々。新聞 ○月×日より抜粋
終
最終更新:2011年05月01日 11:09